――八ヶ岳山麓から(542)
「本というものは面白くなければ価値がない」と単純に考えるわたしのようなものにとって、ちかごろ十分に満足できる本に出合った。『文明と戦争の誕生――国家、この栄光と残酷を生みだすもの』(集広舎 2025・10)である。著者小林一美氏はもともと中国近現代史の専門家であり大学の世界史の先生である。
小林氏は上記著作で、古典とされるものから4冊、現代書から2冊を選んで注釈と検討を加えた。そのうち、わたしは2冊しか読んでいないから何か言う資格はないが、ひとつひとつに国家と文明、戦争との関係をめぐる氏の考察が実に魅力あるものであった。
本書の内容を目次によって示すと以下のようである。
- 中華世界における文明と戦争の誕生とその構造――戦国期の長城に関する歴史書や諸子百家の書物を読む
- 奴隷制ギリシァ社会とアジア・エジプトーーヘロドトス『歴史』(岩波文庫全三冊)を読む
- イスラーム世界の「王権・都市・遊牧民」の不思議な関係――イブン⁼=ハルドゥーン『歴史序説』(岩波文庫全四冊)を読む
- サマルカンドの遊牧王子、ムガール帝国を建国――バーブル自伝『バーブル・ナーマ』(平凡社東洋文庫全三冊)を読む
- ロシア革命に永久革命の夢を託したユダヤ人――中澤孝之『ロシア革命で活躍したユダヤ人たち』(角川学芸出版)を読む
- チベット人の敬虔な精神世界とその破壊――ナクツァン・ヌロ著『ナクツァンーあるチベット人少年の真実の物語』(集広舎)を読む
小林氏は、「マルクスは、人間は労働によって粗野な自然を人間的な自然に改造する過程で、人間は人間らしい人間になっていったのだと説いた。そして『この人間的諸感覚の誕生』に関するマルクスのテーゼは、まだ二十歳前後の学生だった私には『神のお告げ』のような感動をもって受け取られた」という。これはわたしの青年時代も同じだった。
ところが氏は学問を重ねるうちに、マルクスのテーゼに疑いをもちだした。そしてマルクスがいうような『自然の人間化や共同の労働行為によって、人類愛や芸術美術の心が誕生し、さらにまた進歩し発展した』とは到底思えない。文明が発達してから、まだ数千年しか経過していない。こんな短期間に人間の驚異的な大脳の生物学的進化が実現することはありえない、というまでになった。
そして「あとがきーー人類史の未知なる次元」で次のように主張する。
「私は本書において、“国家”こそが人類が誇る文明の原器であり、共同体の再興形態であるが、その存在こそが、人間同士が互いに分裂し、互いに殺し合う野蛮な戦争の生みの親となる、という世界史展開の本質を明らかにした(つもりである)。国家史には、最大の難関、『文明と戦争』という絶対矛盾・二律背反の構造が貫いていたのだ」と。
そして小林氏は、柄谷行人や中沢新一らの思想を高く評価し、それを汲み取ることによって独自の歴史観を形成した。わたしは柄谷・中沢両氏の思想がどんなものかよく知らないのでこれを論じることはできない。
わたしは、小林氏がマルクスの歴史観を全面的に受け入れた青年時代から、それに疑いを生じ、これを克服する過程を知って、「あれ?」と思った。わたしも中年近くになってから友人の中村隆承とマルクス主義をめぐって議論をし、小林氏とは異なったコースではあったが、じょじょにマルクスの教条から離れたのである。中国に文化大革命がおこり、日本ではこれを肯定、支持する知識人やメディアが多かったが、わたしにとって文革の勃発は、スターリン批判よりも衝撃的で、マルクス主義への疑問を強くした。
中村は「マルクスはヘーゲルを批判しながら、一方でヘーゲルの『理性は自らを歴史の中に表現する』とした考え方を継承して、生産力視点の内的要因を強く見すぎる歴史一元論を展開した」といった。そのころ、わたしは高校で地理を教えていたからかもしれないが、歴史の変化は自然環境の変化や侵略・戦争など、外的要因によるものの方が大きいと漠然と感じていた。
私たちは原始共同体―奴隷制-封建性―資本制-社会主義制という史的唯物論の発展法則なるものは、ヨーロッパ西部の諸民族の歴史の総括ではあるが、これを人類史を貫く一般法則とするのは無理があるという結論に比較的容易に達した。
また中村は、「戦争とか紛争は人間理性が未成熟だからではない。争いと殺戮は人間の基本的行動パターンである」という見方をした。彼は「だからこそ平和運動が重要な意味を持つのだ」と主張した。このころ私たちはかなりの時間を戦争と革新政党の平和運動論に費やした。
また、マルクスの「神は人間の観念の産物であって、不幸な民衆の幻想上の救いをもたらすもの」という説にも異議を唱えた。「宗教アヘン説」は宗教の果たしてきた役割を軽視していると考えた。古代社会では天地創造や祖先伝説は、氏族あるいは氏族連合内の争いの防止機能を果たしたし、仏教やキリスト教、イスラム教などは多くの戦争を生んだが、同時に同じ宗教圏内での武力抗争を抑制したではないか。
私たちは、宗教の軽視は人間を神の地位に高める無神論に転化したと考えた。それがスターリンや毛沢東といった「至上の存在」をもたらした、だから彼らは聖職者を含めた大量の殺人を平気でやってのけたのだ、などといった議論をした。
小林氏にはこの戦争と宗教の関係も論じていただきたかった。
中村隆承というかけがえのない相棒は、癌に侵されてソ連崩壊以前に死んでしまった。わたしは底辺高校の中で困難な生徒指導に溺れてマルクス主義研究をこれ以上すすめられなかった。だからマルクスの労働価値説は正しいと思う一方で、人類史から市場経済を抹消することは不可能だといった宙ぶらりんの思想のまま今日に至っている。
本書は何といっても人類史と国家、戦争について論じたものだが、底流に小林氏が日中戦争の最中に農家の長男として生まれ、家業を継ぐはずが高校から大学、大学院に進み学者になった苦闘の歴史がある。そして氏は高齢に至ってもなお学問への情熱を失わない、これがまた本書の魅力である。(2025・10・12)
「リベラル21」2025.11.01より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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