カフェテラスでコーヒーを飲んでいると、突然、地響きを立てて大きな動物が走り去っていった。犀だった。近くに動物園がある訳でもない。不思議だ、と思っているうちに、犀はその数を増やし、放送局を占拠し、やがて町は犀だらけになり、主人公ベランジェと親しくしていた人たちもみんな犀になってしまった。主人公はひとり人間でいることの苦痛に耐えようとするのだが……。
ルーマニア生まれでフランスの劇作家ウェジーヌ・イヨネスコの『犀』の話である。彼は不条理演劇、反演劇の旗手として知られるが、この『犀』はほかの作品に比べてストーリー性に富み、作者の熱い思いが観客に直に伝わってくる作品である。1960年にフランスでジャン・ルイ・バローの演出・主演で上演され、センセーションを巻き起こした。言うまでもなくこの作品は1930年代に吹き荒れたファッシズムを背景にしている。イヨネスコはルーマニアでファシスト運動の高まりを目の当たりにしていたのである。
ところで、日独伊防共協定や日独伊三国同盟を結んだ三つの国の指導者たちのうち、ヒットラーは獄中で自殺、ムッソリーニはスイスへ向かう列車の中で捕えられ、二度にわたって心臓へ銃弾を撃ち込まれた。そして日本の指導者たちは東京裁判で死刑の判決を受けた。
それでは犀は完全に葬り去られたであろうか。遠くや近くで犀の足音を聞いているぼくの耳がおかしくなってきたのであろうか。
イヨネスコ作品の背景にあるのは言葉に対する不信感であった。言葉がその言葉自体の実体を失い、まったく別の実体へすり替わってしまっているにもかかわらず、人々はむしろすり替わってしまったその実体の心地よさに酔いしれる。そしてその結果、自分たちが予想だにしなかった世界へ引きずり込まれていく。ドイツ人がユダヤ人を捕えて自分が埋められるはずの穴を掘らせ、ガス室へ送り、殺したユダヤ人の皮を剥いで手袋を作り、電気スタンドの笠を作る。そしてドイツ人を夢心地のうちそうさせた言葉は……「純血」。
イヨネスコが現在も生きていたら、どうだろう。彼と同じく劇作家であり、ノーベル文学賞を受賞しているハロルド・ピンターは「イラク戦争」と題する文章の冒頭で「自由、民主主義、解放。これらの言葉は、ブッシュやブレアによって使われる時には、実質的には死、破壊、無秩序を意味しています」(『何も起こりはしなかった―劇の言葉、政治の言葉』・集英社新書)と語っている。つまり、言葉が置かれている状況は、イヨネスコの時代と少しも変わってはいないのだ。イヨネスコは晩年神経症に悩み、文学から絵画へ創作の分野を変えざるを得なかったが、彼が現在生きていたとしても、結局同じ結果にならざるを得なかったのかもしれない。
琉球新報は4月22日、世界的な言語学者でありノーベル賞受賞者であるノーム・チョムスキー博士に対するインタビュー記事を載せている。インタビューの内容は米軍基地移設問題、基地の過重負担、米国の民主主義、東アジア情勢と多岐にわたっているが、博士の一貫したスタンスはアメリカの外交政策批判であり、非暴力の主張である。ぼくはこれまで『9.11―アメリカに報復する資格はない』(文芸春秋社)、『ノームチョムスキー、民意と人権を語る』(集英社新書)、『覇権か、生存か―アメリカの世界戦略と人類の未来』(集英社新書)などを読んでいるが、彼が沖縄問題に絞った発言をしたのを読むのは初めてであり、実に興味深かった。
さて、4月28日には日本の『主権回復』を記念する政府主催の式典が行われた。内閣総理大臣安倍晋三の名前で出された式典の案内状にはサンフランシスコ平和条約発効を「完全な主権回復」と明記されている。つまり、小笠原・奄美・沖縄が日本国から切り離された状態を、わざわざ「完全な」という言葉で表現したのだ。
内閣総理大臣安倍晋三の頭の中には条約発効後20年間アメリカ統治下に置かれた沖縄のことは全く念頭になかったのである。
この内閣は天皇を巻き込みながら、一体何をしようとしているのか? そう言えば、160名を超える国会議員たちが靖国神社をぞろぞろと参拝したんだった。その「ゾロゾロ」という足音がやがて土煙を上げて疾走する犀の足音に変わり、我も我もと犀に変身したがる国民が雪崩を打って増え続けていく様を見なければならないのだろうか?
願わくは、『犀』の主人公ベランジェのひとりでも多からんことを! そしてベランジェとベランジェが新しい世界の構築に向かって持てる力を出し合えますように!
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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