おひとりさま入院記

―平成おうなつれづれ草(7)―

私は老人のひとり暮らしである。
3年前に右肺に腫瘍のカゲがあることを指摘され、以来経過を追っていたが、昨年の末ついに、「もうそろそろ、手術で取ったほうがいいかもね」と勧告を受けた。そう言ったのは私が住む田舎の診療所の、ただ一人の常勤の医師である。
一瞬、身体が宙に浮いたような、奇妙な感覚を覚えたが、あれこれ悩む余地のあることではなかった。ならばK市に移った後、近くにある大きな病院へ行き、そこで決めるとしよう。よくある病気だもの、どこへ行ったって同じでしょ。
K市というのは東京の西部にある町だが、雪の難を逃れて、毎年冬だけそこで過ごすことにしている町である。姪や甥が住む町でもある。

だが結局、別の病院へ行くことになった。「おばちゃん、ほんとにそこでいいの?」。姪に言われてはっとしたからである。どこへ行っても同じだなんて、やっぱりヤケになっていた。最後まで真っ当に生きなくてはいけないんだと心を入れかえ、情報通の知人に相談した。知人はそれならばどこそこがいいと言い、全速力で、そこにたどりつく途を整えてくれた。定評ある都心の病院であった。

その医師の診立てを聞かせてもらう日まで、少し間があった。しなくてはならないことが山ほどあった。
まずは「切るか切らないか」、自分の気持ちを整理しておかなければなるまい。
週刊誌のバックナンバー1冊と、「ガンは切るな」で知られるある医師の最新著書を取り寄せて読んだ。週刊誌のほうは中立的で複眼的な記述が参考になったが、手術否定論者の著書のほうは、論述が一方的であるように思われ、特に心を動かされることはなかった。自分がもし手術を勧められたら、すなおにそれを受けようと心が決まった。

次に遺言書を書いた。こんどの件ですぐに死ぬ可能性は小さいが、いつかはしておかなければならないことである。30年以上も前、突然父親が意識不明になったとき、母親がわが家の資産状況を知らされていなかったために大いに困惑したことを思い出す。あのときの困惑を、私の若い親族たちに経験させてはなるまい。インターネットで俄か勉強をし、自筆遺言証書なるものを書き上げた。実に骨の折れる仕事であった。書き上げると封書おもてに、「開封するな。家庭裁判所へ持参し、検認を受けること」と目立つように書いた付箋を貼りつけた。遺言書はその場で開封すると、無効になってしまうのだそうである。
だが、死よりももっと厄介なことがある。意識不明や判断力喪失のまま生き永らえてしまう場合がそれだ。想像すると身の置きどころもないが、防ぐ手立てはない。「お願い状」を書き、こちらは死ぬ前に開いてもらえるようにと配慮した。わが身柄をどう処置してほしいかを述べ、次いで家屋や庭やお墓の管理その他、もろもろの世俗のことを述べた。いざという時、私の貯金を引き出してもらうよう、その算段もした。姪甥と事前相談もした。A4版、6ページになった。

3つめは入院用品の準備である。まだ入院が決まったわけではないが、これもいつかはやってくることだ。重病の母親を抱えて身動きできない姪は、「おばちゃん、必要なもの全部揃えておいてね」と念をおした。ネット情報を参考に全部を集めると、ゆうに大型ボストンバッグ2個分になった。

やがて年が明け、診断を聞きに行く日がやってきた。たまたま訪れた友人に付き添ってもらった。
「画像で見るかぎり、初期のガンだと思いますが、断定はできません。この段階で細胞診はできません。外科的に切除するのがいいと思いますね。手術と同時に診断も確定することになりますが、いいですか? では」。
入院用品の運び入れだの洗濯だのの問題は、意外にあっさり解決した。院内用品のおまかせレンタルだの、ランドリーサービスだのの業者が入っていて、それを利用すれば足りたのである。

入院した。はじめの1週間は呼吸器内科医による入念な検査が続き、それが終わるとがらり、呼吸器外科の医師団に担当が入れ替わった。「手術ではまず小片を切除します。すぐに病理診断を行い、結果次第で右上肺葉の切除に進みます」、という執刀医の説明を甥とともに聞いた。手術は内視鏡下で行われるとのことで、術中、術後に起こりうる事故についても詳しい説明があった。「ぼくが預かった〇〇〇名の患者さんの中では、おひとり、それがありました」とその医師は言った。亡くなりましたか? 「はい。その方は、それが7回目の脳梗塞でした」。
手術の日の朝、私は指定された手術着に着替え、手術帽をかぶり、看護師につきそわれて、徒歩で2階の手術室へ降りた。心は全くの「空」であった。

目が覚めると、暖かい電気毛布にくるまれて、安全に病室のベッドの上にいるのがわかった。ずしりと重い何かがたくさん体に繋がり、身動きできなかった。傍らに、大学時代の同級生Hさんが座っているのがわかった。それまでずっと病人を見つめていた、そんな姿勢だった。あとでわかったのだが、その日やはり病院へ来てくれていた甥が、手術が終わる前に職場へ戻らなくてはならなくなったので、Hさんが後を引き継いでいてくれたのだった。
「お医者さんから聞いたこと、今話すのがいい?」とHさんは言った。「あのね。ガンでしたって。でも非浸潤性のガンだったので、右上肺葉の切除はしないで済みましたって。この後の治療は必要ですかって聞いたら、必要ありませんって。悪いところは完全にとりましたって」。
時刻はたぶん午後4時くらいだったろう。その日Hさんは朝から駆けつけてくれていた。そのためには、朝まだ暗いうちに家を出たのに違いなかった。
「ありがとう。長い時間、ごめんね。もうお家へ帰ってね。私はひと眠りするから」。
安堵が、まだとろんとしている意識の中に広がって行くのがわかった。幸せだった。あとで医師のひとりが言ってくれたように、たしかに私は、「最もハッピーな結果」に恵まれたのだった。

翌日は意識が清明になるのとひきかえに、気分のわるさがやってきた。歩こうとすると、ミズオチのあたりから不快のうねりがこみ上げ、茶わん1杯ほどの胃液を吐いた。夕方になってもおさまらず、担当医に訴えると、彼は即座に言った。「じゃあ、抜こう!」。こんどは数名をしたがえてやってくると、「ハイ息を吐いてぇ、ハイ息を吸ってぇ、ハイ止めてっ」。かけ声と共に手術創に入っていたチューブ数本をサッと引き抜き、同時に別の医師が、手のひら大のバンソウコウ(のようなもの)をパッと押し当て、それで処置が終わった。すぐに私の気分は楽になった。
翌朝、元気を取り戻した私が廊下を歩いていると、担当医が機嫌よく近づいてきて言った。「カマクラさん、調子いいですね。明日退院しましょう!」。ええっ、退院は明後日だって言ってたじゃないですか。抗議のいとまもあらばこそである。手術創には身体に吸収される接着剤が使われているのだそうで、「抜糸」を待つ必要もないのであった。(背中の痛みと、薬の副作用である発疹に悩まされるようになったのは、退院後のことである。)

退院に際し、会計窓口で払った費用はしめて322,076円なり(在院11日)。4人部屋を希望したがかなえられなかったため、2人部屋の差額ベッド代、1日14,700円なりがこれには含まれている。与えられた医療の濃さを思うと、信じられない安さであった(差額の件は別にして)。わが田舎の友人によれば、この自己負担分は、「村に請求すれば払い戻してくれるよ」とのことである(高齢者の場合)。
帰りはひとりで電車でと思ったが、「今は街じゅう、インフルエンザ菌だらけだよ!」と強く言う姪に付き添われて、タクシーでK市の冬住まいへと戻った。前夜にインターネットで、さしあたり3日分の「お食事宅配便」を申し込んであった。自分では簡単な家事ならできると思ったのだが、姪があまりにウルサイので、ここは「老いてはメイに従え」かな、と思ったのである。

澄まし顔で通した2か月半であったが、裏にはいつも、不安と心細さを抱えていた。平穏な日常に帰還した今、心に満ちるのは、お世話になった人たちへの感謝である。
老人の独身者にとって、いつも気がかりなのは、普通の人なら難なく手に入れられる家族という人手を、正確にはその代わりを、いざという時どうやって求めたらいいかということである。入院になるかもと思ったとき、最初に頭をよぎったのはこのことであった。
ひとさまに甘えてはいけない、自分のことは自分でという気持ちはいつも心の内にある。姪も甥も、時間の融通をつけにくい職業生活を送っている。おまけに介護を要する母親や、保護を要する子どもをそれぞれの家庭に抱えてもいる。入院に際して保証人を、医学説明や術後のブツの確認に家族の立ち会いをと求められるとき、その都度ひやり、どきりとしないわけにはいかなかった。私のために時間を削ってと言うのが心苦しかった。

しかし姪も甥も賢明であった。できる範囲で時間をやりくりし、それが無理なときには私の友人に補ってもらう方法を選んだ。病後の家事を心配して、たくさんの家事代行サービスの情報を、ネットの中から探してきてくれた。毛嫌いしていた冷凍ランチの中に、案外いけるものがあると教えてくれたのも彼らである。
友人の中には、先回りして私を助けにきてくれた人がいて、これには文字通り救われた。病院へ来てくれた人も、自分は行けないからと別の友人を派遣してきた人も、私は見舞われるのが嫌いだけれど、あなたがそうでないなら直ぐに飛んでいってあげるとメールを寄こした人もいた。その多くが、偶然近況をたずねてきたことがきっかけであったのは、実に不思議なことだ。社交性に乏しかった私が、このようにしてさまざまな人に助けられる、その幸せは神に感謝するほかなかった。

こうしてこの度の一件は、これ以上望めない幸運のうちに幕を閉じた。次の一件がいつどんな顔をしてやってくるかはわからない。しかしどうあろうと、構えずにそれを受けとめていこう。そう思えるようになったのが、このたびの闘病?の最大の収穫であった。(2014.2.27記)

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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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