こんなことばはいやだ

――八ヶ岳山麓から(215)――

テレビと新聞・雑誌の中の気になることばについて書きたい。
中国に長いこと生活していて帰郷したものの、ひと気のないカラマツ林の中で一人暮らしをしている。先週は誰とも話をしなかった。こういうことがときどきある。自然、今風のものいいにうとくなる。多分私の言語に対する感覚は20年近く前のもので、とうぜん皆さんの感覚とはずれている。しかしそうはいっても気になることばがある。前にも同じようなことを書いた記憶があるが、ここらで愚痴をもう一回くりかえしたいという気持を抑えきれない。

「癒される」
これは1990年代からあったけれども、昔も温泉に入って癒されるということはあったかもしれない。今どきの人は景色を見て癒される、音楽や絵を味わったあとにも癒されるなどという。気持がなごむ、ほっとするといった意味だろうが、東日本大震災のあと多く使われるようになったように感じる。テレビなどでは意味が拡大して、犬や猫の子を見ても癒されるという。そんなにいつも心も体も病んでいるのか。いや疲れているのか。
同類に「元気をもらう」という言い方もある。スポーツ選手が試合で頑張ったのを見た人が元気をもらったという。元気や勇気は出すもので、ほかからもらうものではない。

「感動させたい」
わかいスポーツ選手(この頃はアスリートというらしい)が将来の抱負を聞かれて、「(人々を)感動させたい」「(人々に)感動を与えたい」などと言っている。「させる」は使役であって、目上の者から目下の者に力を及ぼす意を含むことが多い。「与える」も同様である。若者が一般社会の人に向けて使うことばではない。指導者たちはどうして正してやらないのか。いや、今日のスポーツ界には、これがおかしいと感じる指導者がいないのかもしれない。

「楽しんできます」
スポーツ選手が、それも個人競技の選手がよく使っている。世界大会などに出かける前に心境を問われて、「めいっぱい楽しんできます」などという。「ほんとうか?」とつい思ってしまう。苦しく長い練習もさりながらカネもかかっている。その成果を限られた時間で発揮するのだから「楽しむ」と言われては拍子抜けする。
ひと昔前なら「頑張ります」「ベストをつくします」などと言ったところだ。選手たちの気風が変わったのか。頑張るなどというのは恰好がわるいと思っているのか。いちいち本心を吐露してもらわなくてもいいが、判で押したようなのが気になる。

「やわらかーい、あまーい」
昨今のテレビは料理番組が異常に多い。多分政治や経済や生活を語るより無難だからだろう。タレントが登場して、できあがった料理を食うまえに、たいてい「おいしそー」という。口の中に入れて、しばらくして「うんうん」とうなづくしぐさをし、「やわらかーい」とか「あまーい」という。むかし女のアナウンサーがそばを食って「やわらかい」といっているのを見たことがある。いま肉料理でも「あまーい」という。「やわらかい」「あまい」がうまい味覚のひとつだと思い込んでいるのか。
日本人の顎は退化しつつあるといわれて久しい。このまま「やわらかーい、あまーい」ではますます退化し虫歯だらけになる。友人で年配のモンゴル人が見事な歯並びをみせて「おれはこの年になっても全部親からもらった自分の歯だ。小さいときから羊の硬い筋なんか食っているからな」と自慢した。私は中国人からもオーストラリア人からも日本人の歯並びが悪いのはどうしてかと聞かれたことがある。テレビのせいだと答えた。

「してもらってもいいですか」
一般には「してもらってもいいですか」は敬語表現として使っているようだが、そうはならない。敬語を使うなら「していただけませんか」「していただきたいと存じます」ではなかろうか。もっとへりくだりたかったら、「恐れ入りますが」をつければいい。
これに関連して「頂戴する」がある。「お名前を頂戴してよろしいでしょうか」と言われてわからなかった話は、以前本欄で書いたことがあるが、友人は、テレビのドラマのなかで写真を撮るとき、「目線を頂戴します」と言ったのを聞いて驚いたという。そこまでへりくだるか、と思ったらしい。私は「目線」がいやだ。そのうえ「目線を頂戴する」ということばは、不快感以前に、日本語としてわからない。気味が悪い。

「よろしかったでしょうか」
食堂などで注文のラーメンを持ってきた人に、「〇〇ラーメンでよろしかったでしょうか」などといわれると、「注文したんだからよろしいもクソもない」と言いたくなるし、伸びきったラーメンのようでいやだ。もともと「よろしい」は許可である。
ただし友人は、これは注文の受け違いがなかったかを注文主に確認するために言っているのだから、そんなに変ではないという。ミスを糾弾しがちな昨今の世相が生んだ、いかにも今風のことばであるそうだ。――なるほど。

「させていただく」
これは誰もがいうようになった。だがこれが敬語表現といえるだろうか。言っている本人は謙譲の意をこめているようだが、必ずしもそうは受取れない。この言いかたは1960年代前半には東京にはなかった。私は農協の中央組織に勤めていたことがあるが、ある時関西方面からの電話を受けた同僚が不愉快な顔をしたことがある。
なんでも「では資料を送らせていただきます」と相手方がいったという。彼は「こちらが要求したわけではないのに『させていただく』も何もないもんだ」といった。

「関係性」
「関係」に「性」がついて悪いことはない。関係のありようを特に云々したいときはそれが自然である。しかし、この頃のように、猫も杓子も、なんでもかでも「関係性」を持ち出すようになると気味が悪い。「内容性」とかいうのもあった。

「対立軸」
対立点といって少しもさしつかえがないときでも「軸」を使うようになったのは、1990年代からだと思う。どうしてだろう?「軸」といったほうが、いろんな内容を込められるからかしらん。スマートだと思っているのかもしれない。

「のたまった」
「週刊金曜日」(2017・03・10)に、「赤ワイン片手に『(自衛隊の降下訓練を)天皇陛下バンザーイって言ってやろうかな』とのたまった稲田朋美防衛大臣」という見出しの記事があった。1月18日に予定されていた習志野演習場での自衛隊降下訓練に参加できないことを残念がって見せる稲田氏に、ある記者が「降下は怖くないのか」と問うたときの答とのことである。
ちょっと見たとき意味がわからなくてとまどったが、しばらくして「のたまった」は「のたまふ」の過去形のつもりだと気がついた。「の(宣)る」に敬意を表す「たまふ」がついて「のりたまふ」となり、「のたまふ」になった。元来は上の者が下の者に何かを言うのを表現するときの敬語である。
だが「のたまふ」を「のたまった」というだろうか。思うに、「……たまふ」は現代かなづかいでは、「……たもう」であろう。「のたまひたり」という過去形は、「のたもうた」となるはずで、「のたまった」にはならない。辞書見出語に「のたまう」(ノタモーと読む)と出ていたのをみて、それから「のたまった」になったのではないかと思う。
「のたまふ」は現代口語では敬語表現がどこかに飛んで、会話の現場にいない人をからかったり批判したりするとき使う。敬語表現を意図的に過剰にして、嘲笑の程度を上げる効果を狙ったものだ。
「のたまった」と書いたのは編集者である。編集にかかわりのある友人たちに電話で、「せっかく神憑り的右翼の稲田朋美氏の言動を批判したのに、この見出しではまずいのではないか」と確かめてみたら、複数の者が「べつに違和感はない」とか、「口語では『のたもうた』とはあまり言わないのじゃないか」などとのたもうた。

少なくなってよかったと思うことばもある。「わたし的には……」と「わたしってこういう人なのよ」である。自信過剰気味の女性に多いことばづかいであった。
ことばは変化するものとは承知している。わかっていながら今日もまたテレビを見ながら、イライラ、ムズムズするのである。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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