その孤独と哀愁 啄木没後百年にあたって -『啄木を支えた北の大地―北海道の三五六日」』(長浜功著 社会評論社)を読む-

 石川啄木は、明治40年から翌年にかけて、356日を北海道に滞留していたという。函館、札幌、小樽、そして釧路へ。貧乏という重い袋を痩身に背負い、風のように漂泊しつつ、作家の道へ全力疾走した。いかにもドラマチックな啄木の26年の人生とその全体像を、著者の長浜功氏は、克明に追跡する。

 著者は長年の研究をとおして、啄木の日記と手紙にひそむ彼独特の粉飾と作為に気づくのだ。多くの啄木研究家はそれに気づかず、彼の記録をそのまま信じている。啄木一流のはったりを見ぬいた著者は、彼の陰湿な性格やしたたかな策士ぶりまで暴いては、啄木を等身大に近づけようと努める。宮崎郁雨、金田一京助、野口雨情など、啄木をとりまく人間関係も多彩に浮上させていて面白い。

 夕焼けの美しさに見とれるような多感な少年は、盛岡中学時代に同人誌を、上京後に19歳で初の詩集「あこがれ」を発行する。帰郷し失意の日々を過ごしていたところに舞いこんだ文学愛好家の手紙がきっかけで、村を脱出する。内地にはない、北海道の革新的な気質と風土のなか、啄木は自らの才能を開花させていく。各地で新聞社に勤めるが、小樽日報では三面記事も担当していた。彼の記者魂は本物に近い、と著者は認める。

 著者は、啄木の詩、短歌、評論、小説を解読しながら、彼の文芸の特徴を指摘する。1年に満たぬ北海道滞留の意味を問うては、啄木に思想的な深まりと人間的な成長をもたらし、彼は大きなものを獲得したと、いうのである。

 さらに、恋多き啄木は当地で橘智恵子と出会っている。「山の子の/山を思ふがごとくにも/悲しき時は君を思へり」。啄木にとって智恵子は特別の存在で、彼女への思慕の念は極限にまで美化され、一種の虚像にまで昇華されたと、著者は説く。智恵子の存在がなければ啄木の名歌は生まれなかったとも。歌集「一握の砂」に22首が収録される。

 今年が没後百年の啄木の歌うたは、いまも私たちの心に響いてくる。自尊心の高い啄木は、苦難に悲観せず、強気で創作という希望へまい進した、しかしその孤独と哀愁は、人生の本質にせまる歌うたにこそ、濃い影を落としてはいないだろうか。
                              
初出・2012年9月23日付「信濃毎日新聞」朝刊 許可を得て転載
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