なぜ20世紀社会主義は狂気の独裁者を生み出したのか

 ソ連邦社会主義はスターリンのような独裁者を生みだし、第二次大戦後の中東欧諸国にはスターリン率いるソ連型社会主義が移植された。治安警察が超法規的権限をもつソ連型社会主義は人々の社会的自由を奪い、共産党統治に反対する政治家の生命そのものも奪った。1953年のスターリンの死は中東欧諸国で社会的自由を求める運動を活性化し、それがポーランドやハンガリーの人民蜂起を惹き起こした。1956年のハンガリー動乱はソ連の軍事介入によって抑圧されたが、ソ連軍との交戦で多くの犠牲者が出ただけでなく、動乱鎮圧後の動乱参加者の逮捕や処刑が相次ぎ、ハンガリー社会は暗黒の時代を迎えた。
 1960年代には平和共存路線への転換によって、動乱で重刑を受けたほとんどの人々が減刑・恩赦で放免され、チェコ=スロヴァキアでは政治的自由化を求める運動が高揚を迎えた。しかし、1968年8月に、ソ連軍は再びチェコ=スロヴァキアに侵攻し、自由化運動を圧殺して、ソ連型社会主義国家からの離脱を阻止した。2度にわたって東欧社会の抑圧に成功したソ連だが、1980年代に中東欧社会全域に噴出した怒涛のような社会変革を求める運動を抑圧する余力はもっていなかった。
 しかし、1989年から中東欧地域で始まった社会変動は、暴力的な悲劇からの解放を意味しなかった。ユーゴスラヴィア連邦の解体は1990年代初めに、きわめて残虐な内戦を帰結した。欧州の地で、隣人同士が血で血を洗う憎悪の殺戮が展開された。ソ連型とは違う自主管理社会主義を標榜してきたユーゴスラヴィアを構成してきた民族が、相互に殺戮し合う内戦が勃発した。いったい自主管理社会主義とは何だったのか。崇高な理想社会を構想してきた民族が、なにゆえに凄惨な殺し合いに陥ったのか。もしかして、自主管理社会主義はたんに、異なる民族をつなぎとめる政治的スローガンに過ぎず、実態はソ連型社会主義と大差なかったのか。自主管理社会主義の素晴らしさを称賛してきた人々は、このような内戦の悲劇をどう説明するのだろうか。
 そして今、ロシアはウクライナを侵略した。なにゆえに、ソ連邦社会主義はプーチンのような独裁者を生んだのか。なにゆえに、ソ連型社会主義は暴力から無縁でないのか。ソ連型とは違うと自負していたユーゴスラヴィア自主管理社会主義は、残虐な殺戮をもたらす必然性をもっていたのか否か。これらはすべて、20世紀社会主義の歴史的総括を必要とする。少なくとも、私は中東欧社会主義の歴史的総括を行った(拙著『体制転換の政治経済社会学』日本評論社、2020年)が、世界の識者のなかでソ連型社会主義やユーゴスラヴィアの自主管理社会主義の総括が行われたとは言い難い。

20世紀社会主義の特質
 私は1990年に上梓した『ハンガリー改革史』(日本評論社)において、20世紀社会主義の特質を分析した。簡潔に表現すれば、「20世紀社会主義は、その生誕から崩壊まで、戦時社会主義という性格を超えることはなかった」と結論している。20世紀そのものが二度の世界大戦を挟む戦争の世紀だったという歴史的制約をもった社会主義であった。戦時社会主義の基本的特性は次の通りである。
 1. 労働者階級啓蒙主義にもとづく共産党独裁
 2. 軍事組織を真似た党組織
 3. 政治警察による敵対者の圧殺
 4. 共産党独裁が生み出す個人(崇拝)的独裁政治
 5. 戦時的配給制度にもとづく「計画的経済管理」
 6. 批判を封じ込める鎖国
 7. 戦時体制を永続化させる反帝国主義イデオロギー

 なによりもまず20世紀社会主義は啓蒙君主制の影響を受けた存在だった。労働者階級独裁とは、君主(王)に代わって労働者階級(共産党)が権力を握る啓蒙政治、つまり労働者階級(共産党)による啓蒙主義的統治であった。
 共産党統治を支えるのが軍隊的な党組織である。労働者権力樹立には堅固な党組織が必要である。指導部には相互競争による討議(政治的闘争)の場はあるが、下部組織の議論が党の上部機関に反映されるという下からの民主主義が働いたことはない。封建的な君主制から生まれたばかりの独裁下の共産党では、「民主集中制」は飾り言葉にすぎず、実態は軍隊的な上意下達組織であった。しかも、それは初期の党組織に限定される特性ではなく、社会主義崩壊まで維持されてきた組織原則であった。
 さらに、君主制下の軍隊と同様に、権力を守る実力部隊が治安を任された(政治的治安警察)。社会主義政府樹立と同時に、政治警察による反対者の摘発と弾圧が行われ、政治的治安警察は権力を維持するための不可欠な実力権力機構として法治を超える特権を享受してきた。政治的治安警察が睨みを利かせる暴力性は、20世紀社会主義の誕生から崩壊まで変わらなかった。
 王政に代わるはずの共産党独裁は、必然的に「世俗の王」を生み出した。政治的統治には全知全能を体現する「世俗の王」を必要とした。共産党第一書記(書記長)は労働者階級を指導する最高の指導者であり、「世俗の王」として崇められることによって神格化が図られ、個人崇拝的独裁が誕生した。
 ロシア革命後、ソ連邦では計画経済の理論や実践の工夫がなされたが、紙と鉛筆でできる計画には絶対的な限界があった。「出来ないことを、出来たことにする」のが、戦時経済的な配給制度である。戦時配給制をベースにした経済管理制度が主要な「経済計画手段」になった。「国民経済計画の不可能性」(筆者の用語)は社会主義体制崩壊まで本質的な変化をみなかった。
 「社会主義経済計画管理」が強権的な配給制度を超えることができず、国民経済は停滞し、西側諸国との経済発展格差が拡大し続けた。それに応じて、国内でも体制を批判する知識人も増えた。だから、体制批判者を取り締まり、国民を西側の影響力から遮断する必要があった。
 かくして、20世紀社会主義はその崩壊に至るまで、上述した特性をもつ社会から本質的変化を遂げることができなかった。世界全体が戦争の世紀から平和的共存の世界に移行しつつある時代に入っても、戦時社会主義の特性はあたかも本質的慣性のように、20世紀社会主義を貫徹してきた。「戦時に強いが、平時に弱い社会主義」こそ、20世紀社会主義の歴史的限界を教えている。持続的に発展する平時の社会主義社会を構築できなかった現実が、その歴史的限界を教えている。

啓蒙主義と暴力性
 労働者階級を指導する共産党に絶対的な正義があり、その正義に立ち向かう者には容赦ない攻撃を仕掛けるという信念には、絶対主義的な権威主義と宗教的な偏狭さが混ざっている。ロシア革命によって樹立された社会主義権力は、啓蒙君主制のアンチテーゼとして自らの存在意義を肯定するという、20世紀初頭の歴史的制約をもつものであった。
 しかも、政治的反対派を実力で徹底的に排除するという暴力性は、啓蒙君主制下の警察権力に勝るとも劣らないものだった。社会主義権力の下で、治安機関は超法規的な存在に格上げされ、政治権力行使の重要な手段として位置づけられた。政治警察の創出と存在は東欧社会主義樹立の過程でもっとも重要な統治手段であった。この治安警察の役割と機能は東欧社会主義崩壊に至るまで、権力機構の重要な統治手段を構成していた。
 社会主義権力の暴力性は、ロシア革命以後、70年にわたって社会主義権力を特徴づけた。暴力機構を掌握することによって権力を維持するという20世紀社会主義の特性は、20世紀という戦争の世紀に規定された戦時社会主義を貫く本質的な特性である。
 このような戦時的封建性をまとった社会は、たとえその政治体制が変わっても、旧来の本質的性格を自己改革することが難しい。なぜなら、体制転換は人々の社会的関係や役割を変える社会的な変動であり、同じ人々が新たな社会関係を取り結ぶだけだから、人々の社会意識が革命的に変化することはない。古い社会意識や倫理は、新しい社会においても生き続ける。ここに社会の変化と継続性の二つの矛盾した現象が現れる。
 社会の表層での変化と深層での継続性という相矛盾した社会変動が、新たな質を持つ社会を創り上げることの難しさを教えてくれる。戦時社会主義体制は崩壊したが、しかし戦時社会主義的思考や価値観はかなり長期にわたって社会に生き続ける。とくにロシアのように体制転換に成功していない国では、旧体制の治安機関が権力の一部を構成し続け、権力者がそれを統治手段として利用するシステムが残存している。
 ロシアあるいは北朝鮮のような国では、共産党による労働者階級独裁政治が崩壊あるいは有名無実化しても、治安機関による暴力装置を使った統治が継続し、その権力維持機構を掌握したものが独裁権力を行使することを可能にしている。戦時社会主義の暴力装置を利用した個人的独裁制は封建的君主制への退化であり、20世紀社会主義の負の遺産だけを継承した封建制への回帰である。まさに20世紀社会主義が進歩発展する社会ではなく、限りなく退化する社会だったことを教えている。その帰結がロシアや北朝鮮の封建的権威主義的抑圧体制への退化なのである。

社会的規範と倫理
 -なぜ20世紀社会主義で市民社会的規範や倫理が育まれなかったのか
 20世紀社会主義社会では市民社会的な規範や倫理が育まれることはなく、別の社会的制御規範が社会行動を制御していた。社会主義体制が崩壊したときに、多くの識者は社会的規範も変化し、新たに生まれ変わった社会では市民社会的な規範が社会的行動を制御することになると考えた。しかし、社会的規範や倫理の転換は政治体制の転換によって自動的に生まれるものではない。逆に、政治体制が転換しても、旧体制下の社会的規範や倫理は長期にわたって、当該社会に生き続ける。なぜなら、旧体制の権力者も反体制派の人々も、同じ社会的規範や倫理にもとに育ち、その同じ人々が社会的な役割と機能を変えながら同じ社会に生き続けるのだから、一夜にして社会的規範や倫理が変わることはない。
 市民的社会規範や倫理の形成には、人々の平等=対等性の規範形成を必要とする。それは社会を構成する人々の対等性を保証する「交換(exchange)関係」の広範な広がりを前提とする。対等的社会関係は市場経済の発展を前提して初めて堅固なものになる。しかし、体制転換はそのような関係を自動的に生成するものではない。市場的関係性(社会的平等性)の発展と広がりには長期の歴史時間が必要であり、政治体制が変わっただけで実現されるものではない。
 しかし、数十年にわたって戦時社会主義社会を経験してきた諸国で、短期間に市場経済を発展させることはできない。何世代にもわたる試行錯誤の時間が必要である。しかも、この過渡期において、市場経済の発展が進まない旧社会主義社会には、新しい権力者が戦時社会主義の社会規範や倫理に回帰して、専制政治を進める脆弱性が存在する。それが旧ソ連邦共和国や北朝鮮にみられる封建社会への回帰現象を説明している。
 このような体制転換社会の考察には、社会哲学的分析を必要とする。拙著『体制転換の政治経済社会学』(第2章)において、市場をベースとする社会統治ロジックを「交換(exchange=give and take)」と捉え、戦時社会主義を支える基本的な社会統治ロジックを「配分(allocation=give but obey)」システムとして捉えている。20世紀社会主義を規定したものは、政治的統治における共産党独裁であり、経済管理としての配給制度である。この社会的制御を規定するのが上からの配分行為であり、それは社会的制御における上下関係の存在を前提とする。しかも、その関係性が持続する限り、市民社会的な平等性や対等性にもとづく社会制御関係が育まれることはない。give but obey原理が社会を貫徹する限り、社会は常に専制政治への回帰への脆弱性をもつ。
 20世紀社会主義は啓蒙君主制から共和制への人類社会の歴史的移行過程の初期において出現した壮大な社会的実験であった。しかし、共産党による啓蒙主義的統治は必然的に「世俗の王」=共産党書記長を生み出した。その結果、20世紀社会主義は社会を共和制へと発展させる過渡期社会となることなく、それとは逆に19世紀的な封建制をまとった社会への回帰を帰結し崩壊した。しかも、20世紀社会主義崩壊後の混沌とした社会で、市場経済的社会関係を発展させるのは容易でない。事実、市場経済の発展から取り残された諸国において、戦時社会主義の母斑を抱えた封建的社会への回帰を帰結した。人類が完全な共和制社会を樹立するには、まだ100年あるいは200年を要するだろう。20世紀社会主義=戦時社会主義はその社会的転換の初期における一つの社会的実験であったが、それは失敗に終わった。今、我々は20世紀社会主義崩壊後の混乱を目の当たりにしている。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1210:220318〕