「森友学園」関連文書改ざん問題をめぐって自死した赤木俊夫さんの妻雅子さんが財務省の「資料不開示」決定に対し、取り消しを求めて提訴しました。毎日新聞デジタル版(10月29日配信)によると<学校法人「森友学園」への国有地売却を巡る決裁文書の改ざんを苦に自殺した近畿財務局職員、赤木俊夫さん(当時54歳)の妻雅子さん(50)は29日、財務省が改ざんの関連資料を不開示とした決定の取り消しを求める訴訟を大阪地裁に起こした。雅子さんが同日、大阪市内で記者会見して明らかにした>とあります。
これに対して「しつこい」という非難があることに驚きました。身近かな人が自死という尋常でない選択をしたことに「なぜ?」と問い、「なにがあったの?」と確かめたいというのに、国が権力をもって「教えない」というのですからおかしいと思う。「知りたい」と思うのは当然ではないでしょうか。ましてやいちばん身近かにいた「妻」がそう思うのは。
話はちがいますが76年も昔、わたしの兄は16歳の少年兵として敗戦2か月前の1945年6月に土浦の海軍航空隊から「特攻要員」としておそらく沖縄戦に投入されるため九州に送られる直前に「戦死」しました。戦死の公報には「B29ト交戦中戦死」とありましたが、戦後現地の土浦海軍航空隊が出した報告書には、応戦どころか防空壕に避難したところへ直撃弾が落とされ、防空壕が崩れて「埋没圧死」となっていました。しかもさらに生き残った同期の少年兵だった方たちを訪ねて話を聞くと、じつは兄は直撃弾が落ちた時そこにはいなかったらしいこともわかりました。わたしは何年もかかって「兄は何処にいたのでしょうか」と探して歩き、ついに兄が爆撃直前に壕を出て本部のある方向に走っていったのを見たという証言を得ました。「おそらく伝令の任務を果たそうとしたのではないか」とその方は言うのです。爆撃が収まってから兄が隊門近くのおびただしい遺体の中に並べられていたのを目撃したという方も現れました。「どこにも損傷がなく、眠るような死に顔だった」と言われ、それは「おそらく爆弾投下の時は強度の爆風によって遺体が損傷するものだが、兵は爆風除けの訓練を受けていたからとっさに呼吸を止めて伏せ、傷を負わなかったのだろう。しかし内臓破裂で即死するケースもある」という推測を語ってくださる方もありました。それらがすべて事実であったかどうかは、当時のことを知る方の多くが世を去られた今、確かめるすべはありません。戦争末期の中国や南方戦線で、また空襲や沖縄戦、広島・長崎の原爆投下等々のなかで「いつ」「どこで」どうやって死んでいったかもわからない方がたくさんいます。東日本大震災をはじめとする災害で、今も遺体さえみつからない方もいます。しかし、わたしは「兄を探す旅」のなかで兄を記憶し、その生と死を見届けようとしてくれたたくさんの人に出会って、ようやく彼がこの世に「生きたあかし」を遺したという思いをかみしめることができました。
もちろん、赤木雅子さんのケースはこういう経験とは違います。しかし、赤木俊夫さんに「どうして?」と問いかけたい思いの深さを「しつこい」とは言語道断ではないか。彼が生きて語ることがない以上、残されたものは「資料」と「証言」によって答えを見つけ出すほかはない。その問いを「余計なことだ」と切り捨てていいか。わたしは、雅子さんの提訴に、国が誠実の応えることを求めます。
そこで、また考えたことがあります。雅子さんは「妻」として愛する夫の死をうやむやにされたくないと願って提訴されたのだと思います。では女性にとって「妻」と呼ばれることにはどういう意味があるだろうか。じつは、わたしもつれあいが不意打ちの病に倒れ、命には別条ないものの長期入院必至という状況を経験中です。わたしはこの間、携帯電話不可、面会禁止を承知で1日おきに病院へ通い、大きな活字で印字した手紙をさし入れ続けてきました。そして10月の終わりに今後の方針を説明してくださる医師に付き添われて姿を現した彼は、まっさきに書きかけの原稿があると言い、「出版社に原稿が少し遅れると伝えてほしい」と意思表示したのです。そのときわたしは自分も「もう先がなく」、書くべき原稿は山のようにあることを知りつつ、彼がすぐに退院できなくてもパソコンを持ちこみ、指一本ででもキーボードをたたいてくれれば清書は引き受けるから、それも無理なら口述筆記でも、と覚悟しました。もともとわたしは60歳過ぎてからパソコンをおぼえたのですが、まったく独習で未だに指一本しか使えません。それで何万字もの原稿を書き、「やまんば日記」まで書きまくっているのですから、指が動きさえすればいいのです。
それにしても、わたしはなぜ彼に自分の「しごと」を成就させたいと思いつめるのか。それは「家族」だから?「妻」だから?それも法律上認知された「妻」だから?病院では入院手続きや治療方針に同意の書類を出すとき、必ず「戸籍名」とともに患者との関係を「妻」と書きます。受付に行くと「入院している方との関係は?」と聞かれます。「配偶者です」というと「奥さまですね」と確認されるからつい「いいえ、ソトさまです」と混ぜ返したくなる(昔、押し売り電話がかかってきて「奥様ですか」と聞かれ、「いえ、ソトさまです」と撃退したことがある)が、もちろん病院ではそんなことは言わない。でも、もしこれが「同性婚」や「事実婚」を選んだカップルだったらどうするのだろう。コロナ禍で面会もできず、法律上の「妻」でないばかりに最後の看取りもできなかったという声を聴きました。そう思うと、わたしが「妻」を振りかざして「面会できますか」と迫っていいのだろうか。
わたしが彼に会いたいと思い、「原稿を書きあげたい」という希望を実現させたいと思うのはなぜだろう。それは、彼が退職してから20年余り自分の研究に熱中、何べんも現地に調査に行き、新しい資料や論点を発見してはわたしに話して聞かせ、それはこれまでの歴史学が見落としてきた「地域民衆」のありようを考える視点に連なると感じてきたからではないか。その道程で東北を歩き、一人旅を心配したわたしがついて行くと「邪魔になる」と言いながら、花巻温泉でデビュー間もない大谷翔平選手の後輩という初々しい仲居さんに出会って意気投合したりしたこともあります。つまりわたしは、彼の「書きたい原稿」への思いをいくらかでも共有してしまったのです。それはもしかすると、かのプレイデイみかこさんのいう「empathy(エンパシー)」かもしれない。わたしは「彼の靴を履いてしまった」のだ、と。
赤木雅子さんの俊夫さんへの思いを「しつこい」というのは論外として、「妻なら当然」と思う人にも考えてほしい。その「妻」とは法律上認知された人間のことだけではないのだということを。そして「empathy」を自覚する人は、きっとこの地上で会ったこともない人びとが抱える「いたみ」を理解する―つまり「他者の立場」に立つだろう。わたしが雅子さんに共感するのは、ひりの人間の生きたあかしを問うことによって、無数の人びとが苦しみながら生きようとする現実を共有しようとされる方だと思うからです。そういう思いを抱きつつ、わたしは「妻です」と名乗りながら病院へ通っています。
(ブログ「米田佐代子のやまんば日記」2021年10月30日付に11月4日補筆)
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