――八ヶ岳山麓から(172)――
中国でプロレタリア文化大革命(文革)が始まってから、今年でまる50年経つ。
日本では文革といわれても、もはやぴんと来ない人のほうが多いかもしれない。中国でも50歳以下の人は、1960年代半ばから全土でどんなに悲惨な事件が連続したかよくは知らない。一番の原因は、中国では1958年からの大躍進や、10年続いた文革の歴史を、学校でまともに教えないからだろう。
文革は国際的に関心を呼んだ事件だから、いろいろな見方の本が何百冊もあって、いまさら私が何かいう余地はない。ここに文革を経験した人から聞いたことを記して、あの歴史の犠牲者の記念としたい。
1960年代のはじめから、中国ではなにか異様な事態が生まれているようだった。1966年8月中国共産党主席毛沢東は党中央委員会のさなか、みずから壁新聞を書いて、「私の大字報――司令部を砲撃せよ」と全国の若者に訴えた。
あとからわかったことだが、「司令部」というのは中共序列第二位の劉少奇以下の国家指導部である。自分の革命盟友を資本主義の道を歩む実権派だといい、これを打倒して政治路線を社会主義の正道に戻そうと呼びかけたのである。
たちまち「革命的青少年がブルジョアジーの代表に断固として打撃を加えている」状態が生まれた。革命的青少年とはのちの紅衛兵である。ブルジョアジーとは劉少奇以下の毛沢東の幕僚である。
天下人のお墨付きを得て、首都北京をはじめ中国各地で紅衛兵が起り、地方政府や工場の幹部、学校の教師を吊るしあげ、殴りつけ、殺した。作家・芸術家・宗教関係者に対する監禁と暴行、殺害があった。さらには文化遺産の破壊と抹殺も例外ではなかった。これから2年間紅衛兵は気ままにふるまい荒れ狂った。
友人に文革でやられっぱなしだった男がいる。楊兵さんは文革期に、小学校4年生で退学させられ、電気工場にやられた。それは父親が右派分子、「走資派」とされたためである。親が悪いからといって、その子供が教育を受けられないのはいかにもおかしいが、そう思うのはブルジョア民主主義の洗礼を受けたもの、漢文化圏でいえば香港人や台湾人である。
大陸には「竜生竜、鳳生鳳、耗子生児会打洞(竜や鳳は竜や鳳を生み、鼠の子は鼠で穴を掘るだけ)」という考え方がいまでもある。「親が悪けりゃ子も悪い」というわけだ。だから紅衛兵だって最初は革命幹部の子弟で組織した。ところが民衆にとって、文革はイデオロギーなんかそっちのけで革命幹部をやっつける運動だから、親が打倒されたとたんその子供らもやっつけられた。
その後の紅衛兵は、労働者・農民・兵士と革命的幹部・革命烈士(犠牲者)の子弟などの「先進部分」で構成され、これは「紅五類」と呼ばれた。もちろん「黒五類」もあった。地主・富農・反革命分子・ヤクザなどのワル・右派分子の子供らである。このため楊兵さんは紅衛兵になれなかった。
楊兵さんの父親はなぜ右派分子になったか。
彼は解放軍あがりのさる省政府幹部だった。毛沢東が主導した大躍進のとき、全土で農村人民公社が組織され、在来法の製鉄所だのの小工場がたくさんできた。まもなく大飢饉がやって来て人がばたばた死んだ。
劉少奇や鄧小平は農民を救うために、わずかの耕作の自由と市場を許した。調整政策である。楊兵さんの父親は工業担当だったからそれ従い、役に立たない工場の整理をした。文革がはじまり劉少奇や鄧小平が打倒されると、父親は劉・鄧につづく「黒線人物」とされて打倒され、「牛棚」すなわち私設監獄に閉じ込められた。
省都の紅衛兵は、父親に「工賊(労働貴族)」「走資派」などと書いた長い円錐形の紙の帽子をかぶせ、さらに両手を後ろ手にねじりあげ頭を押さえつけ(ジェット機式)、首に重い名札を下げさせて大通りを引回した。中国ではいまも人にレッテルを貼るのを「帽子をかぶせる」というが、それはこれから始まった。
さて、楊兵さんは子供ながら写真の技術が少しあったので、工場の撮影係にされた。ある日小部屋をフィルム現像用の暗室にしようと新聞を窓に貼り付けた。ところが部屋を見に来た紅衛兵が突然「反革命!」と叫んだ。窓に貼った新聞に毛沢東の写真があって、彼は毛沢東の肩の部分を鋲でとめていたのである。
「毛主席を傷つけようとした証拠だ」というので、たちまち彼の糾弾大会が開かれた。紅衛兵2人に抱えあげられて壇上に連れて行かれた。リーダーの演説が終わると、「反革命楊兵を打倒せよ!」「牛鬼蛇神(ばけもの)楊兵をやっつけろ!」という声が広場に響き渡った。彼はそのたびわけがわからず、恐ろしさに泣くばかりであった。
母親は意を決して指導者に会い「まだ子供です」と抗議した。これは当時としてはきわめて勇気のある行動で、まもなく糾弾大会は終わった。
楊兵さんは吊し上げだけで済んだが、毛沢東の写真を粗末に扱ったとみなされたとき、監獄入りは免れなかった。ときにはそれ以上の恐ろしい結果を招いた。当時民衆の毛沢東崇拝は皇帝、あるいは神のレベルに達していたからである。日本人はこれをそうそう笑ってはいられない。1945年まで天皇を「あらひとがみ」としていたのだから。
1966年12月になって、紅衛兵の吊し上げ大会で、党と国家幹部の彭真・劉仁・万里・鄭天翔・陸定一・羅瑞卿・楊尚昆らがジェット機式にやられた写真が日本の新聞に掲載され、人々をびっくりさせた。私は漢の劉邦、明の朱元璋が功臣をかたっぱしから抹殺した歴史を思った。
67年1月、劉少奇は「党内最大の実権派」として逮捕監禁され、激しい吊し上げと暴行ののち痴呆状態となり、69年11月獄死した。劉少奇に次ぐ実権派とされた鄧小平は、1968年に実権を奪われ、翌年江西省南昌の工場に追放された。
満蒙開拓団生残りの橋本さん一家によって、私は紅衛兵集団の「武闘」の片鱗を知った。彼はいわゆる残留孤児だった。模範労働者だったから、1976年毛沢東が亡くなる前に帰国許可を得ることができた。彼は私の日本語学生第一号になった。
文革が始まったとき、彼のいた大都市には二つの紅衛兵集団ができた。互いに相手を反革命とののしりあったが、どちらが毛主席に忠実か、革命的かを争ったものだった。争いは棒や青竜刀を持った暴力沙汰に高まった。なかにピストルや手榴弾で武装するものが出てきた。それに小銃が加わって相手の立てこもる建物を銃撃するようになった。
この戦闘では死者が出た。しかも捕虜を拷問、虐殺した。橋本さんは命の危険を感じたので、弟は相手側の集団、自分はこちら側の集団に加わった。どちらかが捕虜になったとき、命乞いをするためである。
しまいに解放軍が介入した。すると機関銃が、あとになって大砲と戦車が出てきた。このあと革命委員会という権力が成立するまですさまじい戦闘が続いたという。
68年になると、毛沢東は紅衛兵の暴れ方があまりに凄まじく、コントロールできなくなったものだから、学生を大学に帰し、卒業生は農村へ追いやることにした。農民に学んで「思想改造」をせよという口実である。これを「上山下郷」といった。さきの楊兵さんものちに農村へやられ、ひどい目にあいながら青春を過ごした。
1976年毛沢東が死ぬと、まもなく毛夫人ら文革主導者が逮捕され、78年末に鄧小平が実権を握るに及んで文革は終わった。1981年に中共11期6中全会で採択された「決議」では、文革は「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」とされた。「反革命集団」は毛沢東夫人らである。文革発動者毛沢東を反革命といわないところがこの「決議」の泣きどころである。
毛沢東は、自分が皇帝の地位にあることをよくわかっていた。だから文革を発動できたと私は思う。彼はなぜこんな理不尽なことをやったのか。国政の主導権を失いそうになっていらいらしていたのか、もうろくして頭が変になったためか。
ところが、楊兵さんや橋本さんには文革の責任を問う考えはない。彼らはどうしようもない天災のように思っているらしい。なにしろ橋本さんの奥さんなどは、毛沢東死去のニュースを聞くと声をあげて泣いたのだから。
中国では大躍進や文革の研究は、中共の公式見解の枠から離れて自由にやることはできない。したがって文革で亡くなった人がかえりみられることはない。10年余りの間に殺された人は7000万人とも8000万人ともいう。大躍進で餓死した人は3000万とか4000万というからそのおよそ2倍だが、はっきりとはわからない。いずれも犬死である。
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