シリア内戦の重荷をどの国よりも背負っている、レバノンの首都ベイルートに住みつづけている親しいレバノン人の友人、イブラヒム・フーリが、FACEBOOKに2枚の写真を載せ、送ってきた。
(1)「リビア独立の父」といわれる、オマル・ムフタール(存命1862-1931年)の肖像と説明=このリビアの植民地解放運動の最も偉大な戦士は、生き残った二人のイタリア人捕虜を保護し、「われわれは捕虜を殺さない」と言った。部下の兵士たちが「奴らは我々にそうしている!」と抗議すると、オマルは「彼らは我々の教師じゃない」と威厳をもって応えた。
(2)卵を割る写真の説明=もし外部からの力で卵が割れれば、生命は終る。もし内部からの力で卵が割れれば、生命が誕生する。偉大な出来事は、いつも内部から始まる。
1枚目の写真のオマル・ムフタールは、リビアの大学と故郷の村でイスラム教学を教えた著名なイマーム(宗教指導者)。1910年ごろ、イタリアに対する反植民地抵抗運動に加わり、指導者として約20年戦い続けた。1931年9月にイタリア兵捕虜殺害の濡れ衣を着せられ、死刑判決を受けて処刑された。
二つの事件のあと、イブラヒムがベイルートから何を訴えたのか。多くのフォロワーが、熱い賛意を表明した。
ベイルートでは、パリの連続テロ事件が起きた前日の12日、爆弾テロで市民43人が死亡、239人以上が負傷した。どちらの事件も、イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」が犯行声明をだした。
パリの事件と関連ニュースは最大級のニュースとして、いまも世界に報道されているが、ベイルートの事件は、まるで忘れられたように報道されなくなった。米国のCNN・TVはパリの同時テロ事件の4日後「パリの事件が起きて、世界中が哀悼の意を示すなか、前日にテロが起きたレバノンでは、自分たちは西側に見放されたという失望感が市民の間に広がっている。二つの事件で浮き彫りになった偏りの大きさに、批判の声も強まっている」と現地ベイルートから伝えた。イブラヒムが2枚の写真を発信したのは、その数日後だ。
ベイルートのテロ事件は、ベイルート市南部のブルジュ・バラジュナで起きた。同地区は貧しいシーア派市民が密集して暮らす地区。レバノンの強力な議会政党でもあるシーア派武装組織ヒズボラの重要拠点でもある。ヒズボラはシーア派の一派であるシリアのアサド政権軍を支援して、世俗派の反政府武装勢力と戦ってきたが、最近はシリア領内でISとの戦いが拡がっている。今回のテロ事件は、ISがヒズボラとの戦いをレバノンに広げたことを改めて示す最大のテロだった。
レバノンは長い国境線でシリアと接する小国。国民はイスラム教徒とキリスト教徒がほぼ半々で、人口は480万人程度。シリアからの難民が10月までに人口の4分の1を超えた。1国のシリア難民数では180万人のトルコより少ないが、レバノンの国土面積はトルコの54分の一、人口は16分の1、GDPは18分の1。レバノン政府と国民の負担は非常に重く、難民の大部分の生活状態は、やっと命をつないでいる過酷な実情だ。そのなかでISによるシーア派住民と政治武装勢力ヒズボラへの大規模テロが起こったのだ。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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