――八ヶ岳山麓から(242)――
「ロシア革命」はわが20代の憧れであった。レーニンを尊敬してやまなかった。
西ヨーロッパでは1990年前後のソ連東欧瓦解後、各国共産党は名称や路線を変え、あるものは衰弱した。日本共産党(以下日共)は、国民の5%未満の支持しか得られないとはいえ、インドの二つの共産党とともに、中央集権の政党として資本主義国に生残るめずらしい例である。
「ロシア革命100年」にあたり、私は日本のマルクス主義者がロシア革命についてどう評価するか知りたかった。さいわい朝日新聞のインタビュー記事(2017・11・17)で、日共の指導者だった不破哲三氏の発言を読み、赤旗日曜版(以下赤旗)で「ロシア革命100年・世界史的意義と社会主義の未来」を読むことができた(2017・11・19)。本ブログには盛田常夫氏「ロシア革命100年から何を学ぶのか」というご高説があった。
赤旗と不破氏は、ロシア革命がのちの世界に持続的影響を与える世界史的な意義をもったという。ではなぜこれが74年後崩壊したのだろうか。両者ともなぜかこれを語らない。盛田氏はいう。
「20世紀社会主義崩壊の最大の原因は、資本主義に代わる計画経済システムを構築できなかったことに尽きる。ロシア革命直後には、国民経済計画策定のための手段や方法が探求されたが、その実現の不可能性から、経済計画は早々と共産党政治局による集権的管理・配分、事実上の戦時的配給制度に堕してしまった」
1960年代社会主義とは、プロレタリアートの独裁、生産手段の社会的所有、計画経済の三つが指標だとされていた。私は当時農協の全国組織にいたこともあって、計画経済実現について、またそれに必要な価格計算の可否について、同僚と議論したことを思い出す。
「マルクスが生きた時代、イギリスの労働者消費組合の棚には数百の商品しかなかった。これによってマルクスはすべての商品の原価計算が可能だと考え、漠然と計画経済を構想した。だがいま数千万の商品が市場にある。計算は不可能だ」
「ならばソ連のゴスプラン(国家計画委員会)は目見当で生産物の価格を決め、計画経済を設計しているのか」
「それしか考えられない。他に方法がないから」
とはいえ、私たちはソ連には生産手段の社会的所有とプロレタリアート独裁が存在するのだから、それはゆがんでいても社会主義なのだと考えた。すでにこの時代、フルシチョフのいわゆる「スターリン批判」が明らかにされており、いわゆる「トロツキスト」諸派は、「ソ連は、プロレタリアートの独裁ではなく官僚国家だ」といっていたのだが。
赤旗も不破氏も、「レーニンの積極的努力」と「スターリンによる変質」をあげて、後継者スターリンがレーニンのレールを敷いた社会主義の原則を投げ捨てた、崩壊したのは社会主義ではないという。本当にそうなのか。
スターリンの暴政はかなり明らかとなっていたが、ソ連崩壊後、秘密文書が公開されたことによって、それまで霧に包まれていたレーニン時代の実態が世に知られるようになった。
ソビエト法の権威稲子恒夫名古屋大学名誉教授は、レーニン時代の革命的独裁は即ちレーニンの独裁であったという。レーニンは『国家と革命』(1917年)で、議会を常時活動する機関とし、政府の仕事を分担すべき議員を議会が任命することにしていたが、実際にはレーニン率いるボリシェヴィキーの全ロシア中央執行委員会が人民委員(大臣)を任免した。
「(レーニンの時代)プロレタリアートおよび貧農の独裁を掲げる憲法は、選挙権と被選挙権を18歳以上の男女の勤労者とその家族と兵士だけにあたえ、『金もうけのため賃労働を利用している者』、私的な商人などには与えなかった。そのため、徒弟をもつ手工業者、看護婦をもつ医師、事務員をもつ弁護士、零細なものも含めて商工業者は選挙に参加できなかった」
「(ドイツのマルクス主義者)ローザ・ルクセンブルグは、ソビエト政府が作った選挙法は、『ボリシェヴィキ―的独裁理論の驚嘆すべき産物であり』、法と人民代表性に矛盾しているといった」「18年5月作家ゴーリキーは、『ソビエト政権はまたしても自分の敵の新聞数紙を絞殺した。このような敵との闘争方法は誠実ではない』と書いた」(稲子恒夫『ロシアの20世紀』)東洋書房)。
赤旗は、スターリン暴政の例として、農業の集団化、大量弾圧(大テロル)、他国領土併合をあげるが、スターリンだけではない。レーニンも反革命派を残酷に弾圧し、平気でえこひいきをした。たとえば人々に恐れられた秘密警察はレーニンの時代につくられた。彼はロシア正教の聖職者を多数押し込めた川船を沈没させる命令書に署名し、食糧難に際しては、愛人イネーサ・アルマンドの家族に特別に食料を配給するよう命じている。私にはスターリン時代の個人崇拝、粗暴な支配は、レーニンの時代に準備されたものだったとしか思えない。
赤旗は、「ロシア革命は民族自決権を全世界に適用されるべき大原理とした。それはフィンランドなどロシア帝政下のすべての民族の独立を実現し、それは第二次大戦後の植民地体制崩壊につながった」という。そうなのか?
1917年のレーニンの「平和に関する布告」が、1918年1月のウィルソン米大統領の民族自決をうたった「14ヶ条」に影響を与えたことは事実だ。ところが実際にはソ連加盟国は民族を問わず一律にロシア共産党に支配され、自治のかけらもなかった。しかもソ連加盟国でも東欧各国でも指導者は、たいてい小スターリンとしてふるまった。そのためだろう、ソ連解体後独立した15国家では、かなり多くの指導者が、ロシアのプーチンを含めて独裁者である。
赤旗は、ロシア革命が人権概念を自由権から生存権・労働基本権・社会保障など社会権に拡大したこと、「勤労被搾取人民の権利宣言」が社会権の確立に大きな役割を果たしたという。その宣言はたしかに、1918年ソビエト憲法前文に入っているが、現実にはレーニンの時代もスターリンの時代も、17世紀イギリスの人身保護法が存在する余地はなかった。基本的人権は存在しなかったのである。
今日我々が知る社会権と、ソ連人民の目の前にあった社会権とは似て似つかぬものであった。ソ連人民の生活は貧しく、社会保障は貧弱だった。私が1978年(ソ連軍のアフガン侵攻の前年)中央アジアからアフガニスタン・インドを旅行したとき、ハバロフスクやブハラやサマルカンドで見た人々の食事や衣服はカブールの人々のそれに似て、きわめて質素なものであった。
これについて盛田氏はこう指摘している。
「西欧福祉国家は市場経済をベースにしつつ、巨大企業の社会的制御を強め、社会保障制度の充実を図って、ソ連型社会主義よりはるかに高度な福祉国家が建設することができたのである」
「医療制度や年金制度を比較すれば一目瞭然である。旧社会主義国は体制転換から30年近くを経ても、いまだに旧体制の医師主権の権威主義的システムから脱皮することができず、医療サービスの質はきわめて低い」
このことは、1980年代に市場経済を取りこんだ中国にそのまま当てはまる。今日でも毛沢東時代の貧弱な医療制度を引きずって、医師の水準はまちまちで、庶民がまともな診療を受けるにはいくつもの関門があるのに、幹部には特別病院がある。国家公務員を除けば社会保障が貧弱だから、町には老人や障碍者を組織した乞食軍が徘徊している。
赤旗は、中国、ベトナム、キューバはいままだ社会主義ではなく、それへの途上にあるという。そして社会主義への道の指標として、○人民が主人公という精神が現実に生きているか、○人権と自由への拡大の努力がされているか、○核兵器廃絶や地球温暖化など人類的課題で積極的役割を果たしているか、という3項目を挙げる。
ところが中国の現状はこの3項目のすべてに反しているのだ。それは赤旗日曜版(11月5日)の中共第19回大会についての記事を見ただけでもわかる。
中国やベトナムやキューバがやがて到達するという社会主義は、まぎれもなくいま同様の専制国家にほかならない。それと日共のめざす社会主義は同じなのか。違うとすればどう違うのか。
マルクスとエンゲルスが生きていれば、ロシアと中国の革命をなんと言うだろう?レーニンの革命は悲劇、毛沢東の革命は茶番だったというだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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