1996年から2001年のタリバンの支配下では、タリバンは女性たちの学校教育と雇用を禁止し、彼ら流の解釈による厳格なイスラム法を押し付けた。それには、石投げによる死刑とむち打ちが含まれた。
これまでの人生、アフガニスタンから出たことがないファウジア・コーフィは、このような処罰に耐えてきた人々のことを知っていた。
発言の番になったタリバンの交渉者は、彼女の性の対等要求にたいして応じたー
「女性は首相になれるが大統領にはなれない。女性は裁判官になれない」
コーフィは発言したー「私は同意できない。だが、言い争いはしない」「だが、この会談はどちらでもいいという結論を許してもいない。最近のタリバンの方針では、女性は働くことができるし、教育をうけることも許されるーしかし、イスラム法とアフガン人の文化の範囲でだ」
コーフィのような人にとって、この問題は難問だった。イスラムは一つの聖書コーランしかないのに、多数の理論的思考の流派がある。子供時代から「私は、さまざまイスラム学者から異なった見解を聞いてきました。タリバンは極端なコーランの解釈に従っています」
▽「私はブルカを買ったことがありません」
ファウジア・コーフィは1996年9月に初めてタリバン兵士を見た。
「タリバンが首都カブールを取ったとき、私はカブールで医学を学んでいました。私の住むフラットの5階から、彼らを初めて見ました。タリバンはライフルで武装し、街路で戦闘していました。」
数日後には、子供時代からの野心は壊され、タリバンの命令で医学校から追い出された。彼女はカブールに住み続け、医学校から追い出された女子学生たちに英語を教えた。
「それは落胆の日々でした。」と彼女は振り返った。
タリバンは女性たちに、家の外では全身を覆うブルカを着るよう布告を出した。
「私は、決してブルカを買いませんでした。私は、私たちの文化の一部とは考えられないものに対して、お金を使わなかったのです」
彼女の抵抗は、自らのコストになった。身の安全のために、自らの動きを抑えなければならなかった。
タリバンの「道徳局」は街中をパトールし、ブルカを着ない女性たちを打ち据えた。
「9・11」の後、米国のアフガンへの攻撃によってタリバンが駆逐されたとき、大部分の国民が、救われたと感じた。
「私たちは恐れることなく街を歩き、タリバンに殴られるのを恐れずに買い物ができるようになったのです」
▽銃撃された私たちの車列
タリバン支配の崩壊後、コーフィは国連の仕事―元少年兵たちのリハビリの仕事に加わった。彼女の夫が投獄中に感染した結核で死亡したのち、二人の娘が残されていた。
にもかかわらず彼女は、2005年に国会議会選挙が行われることが発表されると、立候補することを決めた。彼女の父は議会議員で、彼女の当選に父の地盤が役立ったことを認めている。
「でも、私にとっての試練は、父とは別の自分のアイデンティティを創り出すことでした。」と彼女は語る。
議員としての1期目に、彼女は議会の副議長になる努力を続けた。タリバンがアフガニスタン南部で彼女を殺害しようとしたのも、その期間だった。
「2010年3月、国際婦人デーを祝うためにナンガハルに行きました。その帰路、私の車列に銃火が浴びせられました。川の対岸からも、銃撃されたのです。私と娘二人は、私の守護役が山脈のトンネルに導いてくれたおかげで助けられました。そこから私たちはヘリでカブールにつれていってもらったのです。」
▽「誰もが平和を求めています」
10年後、タリバンと米国は和平合意に調印しようとしている。(坂井注:2月末日に調印)
タリバンは追放されてから、復帰して戦闘を再開するまでに数年しかかからず、現在は2001年以来、最大の地域を支配している。
10年間に失われ、傷ついた人間の生命は巨大だ。数万人の一般国民が死傷した。アフガニスタンは世界でもっとも貧しい国の一つのままだ。約250万人のアフガン人が外国で難民登録し、それ以外の約200万人が国内で難民化したまま。未亡人女性は200万人ほどと推定され、生きるために苦闘している。
「誰もが平和を願っています。私たちは戦争の中で生まれ、戦争の中で育ちました。私たちの世代も、その子供たちも、平和の価値を知りません」とコーフィは語る。しかし、それは、どれほどの価値でも取引できないのだ。
「平和は尊厳、正義、自由とともに生きることを意味しているのです。民主主義に代わる道はありません」
タリバンが公然と姿を現すことに合意するとしても、彼らがどれほど変わったのか、不明だ。タリバンのスポークスマン、スハイル・シャヒーンはBBCに「平和に反対する者たちは、女性の権利を交渉材料に使っている」と述べている。
しかしファウジア・コーフィはいうー「女性は非常に多くのものを失いました。これ以上、失なえるものはありません。
彼女の娘さん二人はカブール大学で、メディアとインターネットとともに、成長した。
「私の娘たちも、他の女の子も、彼女たちの家に縛り付けることはできません。この国を支配しようと望む人は、このことを自らの計画に入れなければなりません」とコーフィは語った。(了)
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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〔opinion9548:200317〕