アベノミクスの亡霊に支配される日本

政治的暗殺か、それとも怨恨殺人か
 安倍晋三元首相の殺害は政治的暗殺ではなく、怨恨殺人である。しかし、「民主主義 への挑戦」とか「余人をもって代えがたい政治家の抹殺」というような、あたかも「政治的テロ」であるかのような論調が目立つ。日本では死屍にむち打つことは社会的規範 に外れているとされ、故人を称えるのがふつうだが、政治家であればその主張や政策が 及ぼした功績や弊害を整理して評価するべきではないか。
 近年の日本で怨恨殺人が頻発している。京都アニメーション放火事件や大阪北区のクリニック放火事件では、犯人とは縁もゆかりもない多くの人々の命が失われた。自分勝手に恨みを募らせた、きわめて理不尽な殺人事件である。この事件に遭遇した本人やその家族の無念は量り知れない。こういう怨恨殺人事件が起きる日本社会の病理をしっかりと分析し、可能な対策を講じる必要がある。
 他方、今次の安倍元首相殺人には何か吹っ切れないものを感じるのは私だけだろうか。 安倍首相誕生は多くの右翼・極右翼勢力の活性化を促した。日本の右派勢力に充満していた閉塞感の打破が現実のものになったからである。事実、単細胞思考の政治家安倍晋三は猪突猛進で、日本の右派勢力が達成しきれなかった日米集団自衛権行使に舵を切り憲法改正への期待を膨らませた。
 いつの時代にも、単純なスローガンを掲げ、一方的な主張を強引に押す政治家は、デッドロックを打破するために必要とされる。そういうチャンスはめったにないが、忸怩たる思いを抱いてきた日本の右派勢力にとって、思慮に欠けるが無謀なほどに自己主張を通してくれる政治家の出現は千載一遇のチャンスであった。安倍晋三自身もまた、積極的に多くの右派組織との連携を図り、自らの勢力拡大を目指した。旧統一教会へのリップサーヴィスもこうした動きの一環である。
 橋下徹氏は、「統一教会は安倍首相が関わっていた数多くある組織の一つにすぎない」と言っているが、政治家・安倍晋三は自らの思想に近いと考える団体や個人を積極的に取り込んできた。近寄ってくる組織や個人には、その素性にかかわらず、積極的に便宜を図り、影響力の拡大に最大限利用した。森友学園もその一つである。
 忘れてならないことは、安倍官邸が便宜を図ったために、人ひとりの命が失われている。この種の問題が指摘される度に、安倍首相は「自らが直接かかわったことはない」と主張して、責任回避に終始するのが常で、政治家としての潔(いさぎよ)さはみじんもなかった。
 他方、政治家に言い寄り、献金する組織や個人にはそれなりの打算や魂胆がある。とりわけ、反共を掲げて、悪徳商法を展開するようなブラック組織にとって、政治家のバックアップを得ることは、司直の介入を避けるために重要なことだ。ブラック組織が政治家のタニマチになり、政治家はブラック組織から政治献金を得るという「持ちつ持たれつ」の関係が出来上がっている。
 ただ、この関係は常に離反と恨みを買う関係に転化 する。ブラック組織が社会問題化すると、政治家はすぐに身の潔白を主張し、勝手に名前が利用されたと弁明するのが常である。こうした政治家の言動は怨恨と復讐を惹き起こす原因になる。今次の事件でも、旧統一教会との関係を取り沙汰されている政治家は、 皆、逃げの一手である。自らの不明を恥じることがない。まことに潔くない。

アベノミクスという経済犯罪
 もう一つ違和感がある論調は、経済政策イデオロギーに過ぎないリフレ政策=アベノ ミクスの無条件賛美である。 大幅な金融緩和と円安誘導で日本経済は復活しただろうか。長期にわたった金融緩和によって、日銀の国債保有残高は GDP1年分に匹敵するほど膨れ上がった。先進経済国の中で、これほど政府債務を引き受けている中央銀行はない。他方で、政府累積債務はGDPの2.5 倍に達している。事実上、日銀は財政金融を行っている。
 このことが今後の日本経済に重大で危機的な影響を及ぼす可能性は首都圏直下型地震と同じほど蓋然性が高い。最終的な危機を迎えるまでもなく、世界経済の危機が生じるごとに、その脆弱性を露呈することになる。今次の全般的物価上昇はその現象の一つである。
 すでに日銀は金融政策手段を失っている。他の先進諸国は政策金利の引き上げによって物価上昇に対処しているが、日銀は金融緩和政策を転換することができない。政策金利の引上げは国家財政の国債金利負担を高めるだけでなく、日銀の財務バランスの悪化を惹き起こし、場合によっては債務超過をもたらす。
 さらに、金融緩和政策の転換は金融市場に流れ込んでいる資金の引揚げを帰結し、株式市場の崩壊を帰結する。10年もの長期間にわたって続けられた緩和政策によって、金融機関だけでなく、製造業や商社でも余剰資金や借入資金を金融投資で運用している。緩和資金の多くは実物経済の拡大ではなく、金融投資に回っている。金融緩和政策は実物経済を活性化するより、金融投資を活性化させている。金融投資できる余裕を持つ大企業や富裕な投資家が アベノミクスの最大の受益者である。
 もしここで金融引き締め政策に転換すれば、金融投資に深入りした企業の業績が悪化する。さらに、もっぱら輸入に頼る企業は輸入物価の高騰で苦しむが、海外子会社の収益を連結決済できる大企業には、持続的な円安が濡れ手に粟の為替差益をもたらしている。だから、金融引き締めで円高誘導ができない。 景気の腰折れを惹き起こすからというのが、岸田内閣の言い訳である。
 他方、このまま金融緩和政策を続け、さらに国債発行による財政出動に支えられた景気浮揚政策を実行すればどうなるのだろうか。日本経済はますます「債務の罠」から抜け出すことができなくなり、いずれ超円安とハイパーインフレによって、日本経済は沈没していくだろう。
 要するに、現在の日本は金融緩和政策を続けても、緊縮政策に転換しても、大きな打 撃なしに切り抜けることができなくなっている。「進むも地獄、退くも地獄」が待ち受 けている。こういう状況をもたらしたのが、いわゆるアベノミクスと呼ばれる思慮なき経済政策が、10 年もの長期にわたって続けられてきたからである。
 この段になっても、現在の日本では、いまだにアベノミクスを唱え、赤字国債発行による財政出動で景気回復を主張する政治勢力が多数を占めている。無策の野党もまた、与党の主張に同調するか、「れいわ新選組」のように与党以上の思慮なき政策を主張するのみである。
 プーチンのウクライナ侵略が戦争犯罪だとしたら、アベノミクスは日本経済に重大な禍根を残す経済犯罪である。にもかかわらず、当該社会の多数は、それぞれの政治指導者を礼賛するだけだ。これをファシズムと言わずして、なんと言おうか。
 ロシアと日本は、戦時と平時の違いはあっても、社会の多数がもろ手を挙げて、誤った政策を展開する政治指導者を賛美する点で同質である。ロシア社会を批判する前に、自らの社会の異常さに気づくべきだ。

経済学という似非科学
 それにしても、浜田宏一イェール大学名誉教授の言には驚かされた。経済学を勉強したこともない「安倍首相から学んだことが多かった」(「朝日デジタル」7月22日) という。この言動ほど、現代経済学の無力さを教えてくれるものはない。経済学を勉強してもしなくても経済政策を語ることができるのなら、経済学にどんな存在価値があるのだろうか。
 もともと、浜田氏のように、きわめて限定された抽象的問題を数理モデルで議論している「経済学者」には、自らの議論がどれほど現実世界を捉えているかという問題意識 はない。抽象思考の結論が現実世界の理解に資するという錯倒した観念論に捉われている。これは抽象的な数字や論理だけで議論している「現代経済学」に共通している致命的な欠陥である。これではいくらノーベル賞学者が輩出されても、現実世界の解明に役立つことはない。
 もっとも、会社を経営したこともなく、もっぱら研究室で思索している学者だけがこのような錯覚に陥るのではない。自分の財布で航空券を買ったことがなく、ホテル代を払ったこともない黒田日銀総裁のような高級官僚や政治家も、円安や消費者物価上昇を実感することはない。しかし、現実を知らなくても、2%の物価上昇目標や円安誘導政策を唱えることができる。これが現代経済学と経済政策の実態である。
 物価が下がり続けているというデフレ認識も奇妙だ。物価が上がりはしなかったが、 「下がり続けている」という事実はない。ここ10 年、明らかに下がり続けているのは円為替である。日常の買い物をしたことがなく、航空券もホテル代も所属組織に払ってもらえば、現実の消費経済を知ることができない。そういう人々が国の経済政策を決めている。これが正常な国家的意思決定だろうか。
 また、GDP に占める消費が7割を占めるから、消費を拡大させることが景気回復の道だと、物知り顔に主張する御仁や政治家もいる。この主張は生産概念である GDPを支出構成という現象(結果)から見たものだが、これは現象のみを見て本質を判断する間違いである。7割という数字だけを取り出して、この部分を増やせば GDPが増えると考えるのは単純なトートロジーで、間違った算術計算である。
 GDP はたんなる算術計算ではない。GDPの大きさを決めるのは労働力の質と量である。成熟した経済では新規の労働力が増えず、逆に労働力は減少に転じている。技術革新による生産性の向上も限られる。人口が減少し、労働力が減少していく経済では、GDP そのものが長期的に縮小していく。それでもなお、社会的に安定した持続的可能な経済社会を構築していくことが、これからの日本社会の目標であるはずだ。
 GDP という抽象的で無機質な数値を延ばすことが社会の目標であるはずがない。日本の高度経済成長時代はとっくに終わっている。その認識を前提に、社会経済政策を組み立てる必要がある。経済学の議論が無機質の数字や数理にもとづくモデルに劣化していることが、経済学の議論の質を低下させている。
 だから、首相を引退した故安倍晋三氏が、「日銀は政府の子会社だから、紙幣をどんどん刷れば良いのです」と主張しても、「経済学者」からはまっとうな批判がない。浜田宏一氏はこの荒唐無稽の主張を判断する能力もないのだろうか。まことに奇妙な社会現象だと言わざるを得ない。
 政府は「政府と日銀は親会社と子会社の関係にない」と答弁しているが、アベノヨイショの三文学者以外の経済学者はどのように考えているのだろうか。いわゆるマクロ経済学者から明確な批判がなされていない。批判がないことは、容認していると思われても仕方がない。それほどまでに、現代経済学は無力なのだろうか。
 GDP の 2 倍以上に膨れ上がった政府の累積債務はおよそ 25 年分の税収に匹敵する。 問題は簡単である。この累積債務は返済する必要がなくいずれ「チャラ」にできるのだろうか、それとも日本の将来世代が長期にわたって背負っていかなければならない負債なのだろうか。
 「親会社と子会社の債権-債務は相殺されるから、日本の債務問題はない」と考えるのが、アベノヨイショとそれに乗っかる故安倍晋三氏である。このデマゴギーを流布し、公的債務の積上げを誘導するのは霊感商法と同じ経済詐欺で、明らかな 国家的経済犯罪である。
 「政府と日銀は親会社と子会社だから、債務は消えてなくなる」と主張するのは、頭の中の架空問答だ。頭の中では消えても、現実には政府債務と日銀債権は相殺できない。 実際に日銀が相殺を公言すれば、日銀は一挙に膨大な債務超過に陥り、日本の国家信用は崩壊し、円の大暴落が生じる。頭の中で相殺している限りは信用崩壊が起きないというだけのことである。
 こういう自明の理も、数理モデルを展開している経済学の大家とされる先生方には理解し難しいようだ。それとも、政府財政や日銀政策は経済学者が考える問題ではなく、 政府や日銀の官僚が考える問題だと考えているのだろうか。「なぜ浜田氏がアベノミクスのお目付け役に」と疑問に思った学者関係者は多いが、経済政策に無縁の「大家」が 安倍元首相に媚び売り、学歴コンプレックスのある政治家安倍晋三が「イェール大学教授で経済学の大家が賛同」という箔付けを得る「持ちつ持たれつ」の関係ができただけ のことだ。学者の晩年を汚すのではと心配した人もいたが、政治の表舞台で脚光を浴びる機会がなかった学者が、晩年になって世俗的な名誉に目が眩む事例は少なくない。それにしても、現代経済学の無力さを実感するのみである
 安倍元首相にはアベノミクスの行く末を見届けてもらいたかった。アベノミクス 10 年で積み上がった公的債務が、どのように日本の経済と社会に災禍をもたらしたかを。 もっとも、原発は 100%安全と謳ってきた自民党は原発事故の責任を一切とっていない。 東電もしかりである。潔くない政治家安晋三が生きていたとしても、将来の災禍がアベノミクスによってもたらされたとはけっして認めないだろう。所詮、政治家とはその程度のものだ。むなしさだけが残る怨恨殺人である

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