イデオロギーと化した金融緩和至上主義 -現代経済学の貧困と経済学者の劣化(その5)

著者: 盛田常夫 もりたつねお : 経済学者・在ハンガリー
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イデオロギー化する経済政策
 世の中、根拠のない「非常識」や誤解でも、それが流布され蔓延すると、あたかも「常識」のようになってしまう。とくに経済学はその誕生から現在まで、精密科学であったことはなく、常に、経済現象の部分的で不正確な分析を行う学問に過ぎなかった。社会主義社会でも資本主義社会でも、為政者は経済政策をあたかも自然科学のような確実性をもつものと錯覚させ、国民支配の道具に利用してきた。ソ連型社会主義の「5カ年国民経済計画」や中国の「大躍進」、日本の「アベノミクス」などはその典型である。どれも皆、権力を維持するためのスローガン(国民への号令)の域を超えるものではない。
 経済政策は常にイデオロギー的性格をもち、政策の有効性が実現しないまま、経済危機によって経済政策の無力さが露呈するまで堅持されるのが常である。しかも、無効になった経済政策をきちんと検証し、将来の政策に活かことなど稀である。経済政策が効かなかったのは、想定した条件に変化が生じたからと説明されるのが落ちで、それぞれの政策がきちんと総括された例(ため)しがない。それで済まされるのは、大仰な経済政策スローガンが時の権力の経済イデオロギーに過ぎないからだ。
 経済学者と称される人々もまた、権力に寄り添った提言を行うことによって、イデオロギー的な支援を与える。なぜなら、権力に歩み寄ることで政府の関係ポストを得て、それなりの社会的地位が獲得でき、経済的な利得も期待できるからだ。だから、この種の経済学者には俗物が多い。こういう人々は政治家と同類で、自らの提言が間違っていても、決して誤りを認めることはない。

「物価目標」政策は経済学の未熟さの現れ
 そもそも、複雑な国民経済を制御するのに、「物価目標」がほとんど唯一の核心的政策目的になっているという事実が、現代経済学の貧困を教えてくれる。「物価を上れば、景気が良くなる」という単純な発想が、どうして一国の経済政策の中心的な政策になるのか。あまりに安直だ。政府債務を増やし、将来の経済運営のリスクを増大させて金融緩和に突き進む政策は尋常ではない。デフレ脱却をスローガンに、「物価上昇目標」を金科玉条のごとく錦の御旗に掲げる政府は、「金融緩和翼賛政治」と言われても仕方がない。
 欧米でも金融緩和政策は実行されているが、当初からそれは当座の政策に過ぎないことが了解されている。絶対目標になっていないのは、その政策効果に確信がないからである。しかも、その政策の副作用が大きいことは十分に理解されており、常に金融緩和策からの撤退が意識されてきた。
 ところが、日本では金融緩和は絶対的な目標とされ、それで問題がすべて解決されるかのように喧伝されてきた。日銀金融政策委員会の緩和に慎重な委員が退任した後に、政府は緩和に積極的な委員を補充して、事実上、「緩和翼賛委員会」を作り上げている。金融政策委員会も、その周辺のエコノミストも、物価目標に到達するまで金融緩和を続けるべきだという「アベノヨイショ」一色である。こうして、物価目標=金融緩和政策がますますイデオロギー的な色彩を帯びるようになっている。

GDP操作で済まされる実体経済分析
 「物価上昇目標」が金科玉条の目標になるという貧しい現実は、経済学が実体(実物)経済の分析ができないことの裏返しの現象である。実体経済は膨大かつ多様な異種の産業分野(商品生産)から構成されている。異質な商品から構成される実体経済は、そのままでは数値分析することができない。だから、経済学はその誕生から、異質で比較不能な商品生産からなる国民経済活動を一元的に捉える手法を編み出そうと四苦八苦してきた。その一つが国民所得(付加価値)統計で、これは異質な生産(商品)に「共通する長さ(付加価値ノルム)」を与えたものだ。他方、付加価値ノルムで国民経済活動を捉える方法は、実体経済の複雑性の理解を失わせる。なぜなら、付加価値集計による国民経済活動の把握は、種々様々な産業活動の使用価値的差異を捨象することを前提しているからである。
 多くの経済学者は集計的な付加価値ノルムであるGDPを操作すれば、実体経済を理解できたと錯覚しているが、これは完全な間違いである。GDPは国民経済をひとまとめに価値操作するための手段にすぎず、国民経済活動の多様性を分析するものではない。人間の頭で編み出された付加価値ノルムと、実体経済(無数の使用価値から構成される商品生産)の現実は、まったく別物である。GDPを操作すれば国民経済が理解できると考えるのは、頭脳の産物を現実だと錯覚する倒錯にすぎない。国民経済の実体分析を捨象したGDP分析は、「GDP至上主義」という罠に嵌った一種の観念論である。
 同様に、世間であたかも常識にように唱えられている、「GDPの7割を占める個人消費が増えれば、経済は成長する」という呪文は、付加価値ノルムの統計的恒等式(GDPの定義式)を解釈しただけのことで、同義反復以上の何物でもない。恒等(定義)式は因果関係を規定したものではない。定義式を構成する個々の要素の現実的変化は、それぞれの構成要素を規定する諸原因の変化にもとづく。だから、「消費が増えれば、GDPが増える」というのは、定義式を言い換えているだけのことで、「どのようにして個人消費を増やすことができるのか」について、何も語っていない。

「窮余の浅知恵」
 実体経済の分析とは正反対に、金融経済の分析はここ数十年、金融市場の拡大と複雑化を通して、大きな進歩を遂げてきた。それは貨幣(おかね)という同一単位で一元的に測定し分析できる同質市場だからである。その結果、一部の経済学者は金融市場で得られた分析結果を、実体経済の分析に使えるのではないかと考えた。しかし、金融市場の分析を実体経済に応用できると考えるのは、「窮余の浅知恵」以外の何物でもない。物価目標政策はまさに、この金融市場の分析から得られた「窮余の浅知恵」なのである。
 そもそも、それぞれが異質な商品生産を行っている実物経済を、貨幣(おかね)で同質的に分析できる金融経済と同列に論じることはできない。金融の世界では、株価であれ為替であれ、1~2%の変化は収益に作用する極めて大きな変化である。したがって、予想変化率は投資家の行動を左右する。これにたいして、実物経済の世界で1~2%の価格変動は大きな変動にはならない。「数年のうちに消費者物価が2%上がると予想できれば、消費者は将来の消費を早めるので、消費の増大が見込める」という想定は、金融経済で観察できる行動様式を、実物経済の消費者行動に「適用」しただけの「浅知恵」でしかない。
 消費者の基本的な消費行動を決めるのは将来の物価上昇予想ではなく、到達された消費水準と所得水準である。消費が飽和状態にある現代の日本で、将来の物価上昇を見込んで、お金を借りて外食を増やし、乗用車やテレビをもう1台購入しようと考える消費者などいない。1~2%程度の価格上昇が予想されても、それで消費を増やす消費者などいない。だから、金融緩和しても一般消費者の消費が増えることなどない。金融緩和で消費を増やすことができるのは、ほとんど無利子の借入金で動産や不動産に投資できる余裕があって、その収益で奢侈品を購入できる一部の富裕層だけだ。無償の贈与ならまだしも、返済しなければならないお金を使って、一般の消費者が消費を増やすなど、今の日本では考えられない。
 もっとも、クレジットで耐久消費財を購入するアメリカ国民の場合には、金融緩和政策はそれなりの効果があろう。それが可能なのは貧富の差が大きく、貧者の消費を増やすのに、低金利の融資が不可欠なアメリカにのみ当てはまることだ。
 日本の主流経済学者の多くはアメリカで経済学を学んだ者が多いから、思考がアメリカナイズされている。アベノミクス・イデオロギーによって、図らずも、経済学分野もまた対米従属が著しい分野であることが、明々白々となっている。

「デフレが元凶」という誤解
 「景気低迷の元凶はデフレにあり、一般物価が上昇しないのは通貨量が足りないからだ」、だから「通貨量を増やせば、消費が増え、一般物価も上昇する」というが、デフレ脱却を目指す金融緩和政策だ。ここでは二つの命題が主張されている。一つは「デフレが問題の原因で、これを解決すれば景気は良くなる」と短絡的な問題認識、もう一つは「通貨量を増やせば、消費が拡大し、一般物価も上昇する」という因果関係の単純化である。
 まず、「デフレが元凶」という認識だが、デフレはあくまで現象であって、経済停滞を惹き起こした本質的な原因ではない。ここに躓きの出発点がある。現代経済学が現象論の域を出ず、本質と現象を区別できないことが問題認識を誤らせている。
 デフレ現象を生じさせる原因は、消費水準を含め、現代日本経済の発展水準が一定の飽和状態に達しているからである。通貨量が足りないからではない。経済も生き物であり、若い労働力が不断に創出され、貧困からの脱却意欲が強い青年時代には、労働人口の拡大とともに、生産も消費も急速に拡大し高度成長が実現する。しかし、現代日本はそういう時代を遙かに以前に終えており、消費水準はきわめて高い飽和状態にあり、労働人口が減少していく時代を迎えている。このような壮年時代に達した経済では、消費水準が停滞するどころか、人口減少によって、消費の絶対量そのものが減少していく時代に入っている。こういう時代認識を欠いた政策は有効性をもたない。こういう歴史的変化の時代に、付加価値ノルムをいじるだけの算術計算思考は何の役にも立たない。
 こうした誤った認識にもとづき、通貨量を増やせば問題が解決すると考えるのは、あまりに浅はかである。実際、通貨量を増やしても、お金を借りて動産・不動産に投資できる一部の富裕層以外の資金需要はない。だから、金融緩和された通貨は株式投資や不動産投資に向けられ、それぞれの市場は活況を見せても、一般消費財市場は拡大しない。当然のことである。事実、通貨量を大幅に増やしても、一般物価の上昇が観察されない状態が5年も続いている。
 明らかに、金融緩和政策を裏付けるはずの現状認識が間違っていたのである。しかし、政府と日銀はこれを公に認めることができない。それを認めれば、アベノミクスの失敗を認めることになるからである。このことも、アベノミクスが経済イデオロギーに過ぎないことを明らかにしている。
 
 赤字国債の発行と、事実上の国債の日銀引受けによる金融緩和政策は、長く続ければ続けるほど、将来の経済運営に大きな負の遺産を積み上げていく。欧米の金融当局のように、2%の物価上昇に拘ることなく、金融緩和政策の手仕舞いを実行していく時期に入っている。事実、日銀もまた、市場に公言することなく、債券の購入額を目標額以下に抑えて、事実上の緩和策からの撤退を準備しているようだ。緩和策からの撤退を公言すれば、政策の失敗を認めたことになるから、暗黙のうちに撤退の道へと軌道修正しているようだ。なんとも姑息なことだ。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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