イラワジ紙主筆、久々の論説から思うこと ― 外来と土着との相克と克服 ―

<チョウゾワモー、久々に健筆をふるう>
 亡命先のチェンマイで1992年に反体制新聞「イラワジ」(ビルマ語、英語)を立ち上げた88世代のアウンゾー(その後弟のチョウゾワモーが加わる)、軍部独裁時代からテインセイン政権時代まで、広い視野と鋭く洞察力ある政治批判で―スーチー氏や仏教過激派への批判もタブー視しない―精彩を放っていました。ちなみに彼らを含む88世代の多くは獄に囚われたため、正規の高校・大学教育を終えておらず英語も獄中での習得でした。二人の兄弟の論説の特徴は、亡命知識人の強みでしょうか、88世代の国内派の多くが反イスラムの仏教中心主義を取り、寛容の精神に欠けるところもあるなかで、西欧的知性由来の分析能力とリベラルな洞察力を兼ね備えているところでした。その意味でイラワジ紙は、合法化以降「現実政治家」に転じたスーチー氏に代わって、ミャンマー民主化運動の知的道徳的灯台の役割を立派に果たしてきたと言えるでしょう。ナショナリズムのミャンマー的形態である仏教中心主義・排外主義の強まる風潮のなか、スーチー氏すらその風潮を批判するどころか黙して語らないなかにあって、イラワジ紙のみが多数派に迎合せず批判を続けるのは多くの読者を失う危険を冒すことを意味しており、並大抵の勇気ではできないことなのです。(おしなべて先進諸国でナショナリズムやレーシズムを掲げる右派勢力の抬頭が目立っていますが、イラワジ紙の奮闘は我々にとって叱咤激励の意味を持っています)
しかしそういうかれらでもスーチー政権のこの一年間はやや精彩を欠き、いやそれどころか先般アウンゾーは突然ロヒンジャ問題でのスーチー政権の対応は正しいと雄叫びを上げ、内外のイラワジ紙支持者を驚愕させました。おそらく内部で激しい論争が交わされたのだと推測しますが、それっきりアウンゾーは紙面から消えてしまいました。おそらくアウンゾーは内部論争に敗れ、イラワジ紙は人権的普遍主義の立場を死守することになったのでしょう。スーチー政権との距離の取り方も定まって、リベラルな論調の復活なったと恐らく期待していいでしょう。
そういうイラワジ紙ですが、国内に拠点を移してからは、若手を積極的に登用、しかも女性スタッフが総数5,60名の半数を占めるという画期的な試みで、この面でもミャンマーの民主化運動に新しい息吹を吹き込んできたのです。が、その反面ファクト・ファインディング(事実発掘)の面はともかく、事実の背景への論究や深読みに欠けるところがあり、論説面での物足りなさが目立つようになりました。その原因ははっきりしています。ミャンマーの青年たちは特にこの20数年間、軍政の愚民化政策によって社会科学を始めとする先進の学問の動向から完全に切り離され、世界を科学するための基礎的な訓練に欠けるという猛烈なハンディキャップを背負わされてきたのです。
しかし若手の力不足という問題は、民主化勢力が改革の初心を忘れず、批判的立場から難問に挑戦し続ける限り、早期に克服可能です。現実が投げかける課題を解くべく先進の知識から実践的に学び取ろうとするかぎり、机上の学問による習得よりも何倍も深く早く学びうるからです。NLD政府一年の評価にかんして、主筆であるチョウゾワモーが久しぶりに批判的精神を鮮明にしたことは、民主化運動にとっては大いに励ましになるものです。

簡単に彼の所論を紹介しますと、NLD政府の成果として無条件に挙げられるのは、大臣や高級官僚に汚職がなかったことくらいだとします。その他については誤った政策があり、スーチー氏の誤った指導スタイルがあったとして、厳しく批判します。
戦略的な政策上の誤りは、国軍(および政商)との和解を優先させたことであり、そのためにNLD政府はかえって無力化したとします。具体的には前歴が軍人の大臣や高級官僚の多くがテインセイン内閣からその地位を保持したままで、そのため改革に乗り気でなく妨害すらしたものがいた。したがって改革路線を実行するためには、閣僚や高級官僚の入れ替えがどうしても必要ということになります。ただこうした事態は、国軍への妥協という側面と同時に、スーチー氏特有の組織戦略が絡んでいたことによります。つまり総選挙のNLD候補者選定の際、政治経験がありものを言う人間を斥けて、いわばスーチー・チルドレンを多く登用したということの結果でもあります。政治経験者が少ないので大臣職や局長職には適材がおらず、軍人を充てるしかなかったのです。
またロヒンジャ問題では、軍の行動を放置した点が最大の誤りだったとします。たしかにシビリアン・コントロールが制度上効かないにしても、国内外での自身の影響力を使って国軍の行動に一定の縛りをかけることはできたはずです。法制度がなければ何もできないとすれば、憲法改正があるまでは国軍にはやり放題やらせるしかないという恐ろしく退嬰的立場に身をおくことになります。同じことは内戦終結―和平協定問題でも言えます。スーチー氏が国軍との蜜月の一方、諸少数民族組織とは一度も和平会議・協定に向けた話し合いをしていないという点、和平会議と同時並行している国軍の武力攻勢のエスカレーションに対しなんら抑制させる行動もとらず黙認した点―これでは和平会議の交渉当事者(政府、諸少数民族、国軍)が平等の立場でラウンド・テーブルにつくことはできません。現に和平会議にも政治対話にも目立った進捗はなく、NLD政権がみずからの筆頭課題に挙げた国民和解はなかなか実現しそうにもありません。
スーチー氏の唯我独尊的な指導スタイルについては、何度も批判してきたことなので繰り返しませんが、ミャンマーのまだ未熟な民主化運動の発展に著しく有害な作用を及ぼしていることは間違いありません。そのことを指して私は、力なき独裁者、「裸の王様」と呼称したのです。つまりスーチー政権はかつての政治的盟友であった88世代や少数民族組織の指導者たちを疎外することによって、かえって自らの政治的力の源泉を枯渇させ、政治的に無力な「現実政治家」に成り下がる羽目に陥っている――チョウゾワモーと我々はこのような認識で一致しているのです。
逆にスーチー氏の政治的立ち位置は、国軍はじめとする既成勢力にとっては望ましいもので、再分配政策の不熱意、野放図な外資導入と市場主義による工業化近代化、国軍やクロニーの利権保持、労働問題や環境問題の軽視、教育の一元的統制、農業のアグロビジネス化、大都市ヤンゴンとマンダレーの1.5極集中化と国土の不均等な開発、辺境を含む地方自治の軽視等々を遠慮なく展開できるうえ、スーチー政府が民主主義の看板を背負ってくれるので、対外的には少々の開発悪はかえって見逃されるという利点もあるのです。
民主化なき外資導入やクロニー優遇によって、ミャンマー社会の大衆社会化に拍車がかかり、消費社会ブームを呼ぶことが予想されます。しかしタイやインドネシアが開発ブームに沸いた1980年代や90年代とは時代がちがいます。世界の金融システムは依然不安定であるので、債務―借款も債務です―が積み上がり農村はじめ国内の経済的な基盤(ファンダメンタルズ)が脆弱なままでは、一朝何かあった場合には国際市場からの深刻な影響を免れ得ません。先年ある西側の評論家は、スーチーという人はローン経済に裏付けされた消費ブームの悪しき影響についてあまりに無防備だと嘆いておりましたが、まったくその通りだと思います。

<一つの推測―スーチー氏の態度変化の背景>
 自然法的人権観念、国連的人権思想を背負ってミャンマーの民主化運動を先導してきたスーチー氏が、一国の統治に関与し、また責任ある立場になってからどうしてそう易々とリアル・ポリティクス(現実政治)の立場に転じたのか、おそらくミャンマー民主化運動に何らかのかたちで関わって来た外国人にとってなかなか理解しがたいところでしょう。もちろんスーチー氏の態度変化を責任政治家としての成熟の証―花より団子―であるとして肯定的にとらえる人々もいますから、どちらの見方をするにせよ、結果においてその正否を検証する以外の方法はないのです。後者の立場に対しては今までいくつかの拙稿において反証して来ましたので、本日は前者の疑問を少し一般化した地平で考察してみたいと思います。
 推察の域を出ませんが、私はスーチー氏の態度変化は、NLDの合法化以前15年以上に及ぶ自宅軟禁期間に徐々に準備されたのであろうと考えています。それはミャンマーの民主革命における国民大衆の力の限界を痛切に感じたところから始まったのでしょう。
――20年の間待っていた国民の決起は起こらず、国民は自力で私を解放することはできなかった。わずかにあの「サフラン革命」において、若い僧侶たちが勇気を奮って自分を訪問してきたものの、それ以上は何ごとも起きなかった。この国では私が先導して国民を導く以外に変化は起きようがないのだ。国軍と対等に渡り合うなど夢物語であり、たとえ非難されようとも必要な妥協を怖れず私が進める以外道は拓けないのだ。
 それは88年から90年にいたるミャンマー民主化運動の挫折についてのスーチー氏なりの孤独な総括であり、自身の体制立て直しの決意だったと思われます。ミャンマー民主化運動は、先ごろの「アラブの春」と同様に「動乱モデル」の改革運動の脆弱性をもっていました。社会の隅々に組織的な根を持たない運動は、国軍の必死の反撃にあってひとたまりもなくつぶされてしまいました。それから2011年以降、NLDの合法化とともに復活しつつあった民主化運動は、釈放された活動家や亡命からの帰還組も巻き込んで、88動乱の負のレガシーである「動乱モデル」から脱却して、いかに新しい民主化運動のモデルをつくるか、そのことの一大論議をすべきでした。動乱モデルとは、ある日国民的総決起によって一気に体制転覆をなしとげるという奇跡のような革命ユートピアで、どこか神頼みの頼りなさがあるものです。残念ながら、このような議論を組織しリードできる指導者は見当たりませんでした。海外の先進的な事例についての知識も政治経験も決定的に欠けていたからです。世界各国の先例で共通するのは、「動乱モデル」においてはたとえ体制転覆に成功しても、新しい政治秩序を作り出すことは困難だということであり、挫折した場合、その反動として政治的ニヒリズムやアパシーを生みやすいということです。
それでも88世代の指導者たちは88年の教訓を踏まえて、民主化のためには狭い政治運動だけではなく、市民社会に広い裾野を持つ自発的な社会運動が必要だという着想で独自の戦略を立てナショナル・センターを設けました。が、今のところ改革をリードする新しいモデルにはなりえていません。自らを社会運動に特化するのであれば、代議制の上に立つ諸政党との連携や同盟が不可欠ですが、NLDとすらそういう戦略構想のための政治対話は行われませんでした。そうしている間にスーチー氏はトラシュエマンらの旧将軍や国軍との関係構築にのめり込んで行き、自分を指導者に押し上げた母体である88世代や少数民族団体とは疎遠になっていったのです。

<外来と土着、その相克の問題性>
 歴史家のE・H・カーはかつて、ロシア革命についてロシアの社会主義化であったと同時に、社会主義のロシア化だったという両側面から見なければならないと指摘しました。ロシアの社会主義化とは、レーニンが指導者として行なった社会主義の理念に基づく権力奪取と国家・社会改造であり、また社会主義のロシア化というのは、社会主義のもともとの理念やビジョンが、実現過程でこの国の特殊条件に規定されて変容を被り独特の特徴を備えた体制が出来上がったことをいいます。レーニン率いるボリシェビキ革命が、やがてスターリン主義体制という全体主義国家成立に至った過程を複眼的視点で見るべきとする洞察は、この歴史家がロシア革命の歴史を深く研究するなかから得たものでしょう。
 しかしよく考えてみれば、この複眼的視点はロシア革命に限らず、普遍的な思想や宗教といったものが他国に伝わり、そこで摂取され定着する際にみられる複合的なメカニズムを解明するのに役立つものでしょう。比ゆ的に言えば、外来種が異国の風土に飛来し、その土地に根付く際に二つの遺伝子要素が相互作用して形態変化を起こし、新たな種ができあがるということでしょう。
冒頭で述べた「自然法的人権観念、国連的人権思想を背負ってミャンマーの民主化運動を先導してきたスーチー氏が、一国の統治に関与し、また責任ある立場になってから・・・リアル・ポリティクス(現実政治)の立場に転じた」過程にもこのE・H・カー的法則は貫徹されています。つまり自然法的人権思想という外来思想(ミャンマーにはもともと存在しなかったもの)は、仏教的な土着思想と拮抗し宥和しアマルガム(合金、合成物)となるべく作用するものの、伝統的精神風土の厚い壁阻まれて同化に失敗して挫折するか、または原型をとどめないほど変形して土着思想の一部となる場合があるということです。ロシア革命の例でいえば、スターリン主義は外来の社会主義思想がロシア正教的精神風土に癒着同化するなかで、もともとの普遍思想である側面―自由、人権、民主主義、多元的価値など―を切り捨てて一枚岩的な全体主義へと変形して成立した社会主義だったということができます。スーチー氏の場合、土着的なものとの激しいせめぎ合いにある段階なので断定的な言い方はできませんが、土着的なものとの相克に耐え切れず外来思想の方を棚上げして、既成性(仏教排外主義、国軍支配)に屈服しつつあるとみることもできます。
もしミャンマーの民主化=民主主義の土着化をどこまでも貫きたいと思うならば、必要な妥協や譲歩、あるいは迂回をしつつも民主主義の原則や価値観との緊張関係を維持し、自分の為すこと為したことを絶えずそれらの原則に立ち返らせて検証してみる態度が不可欠です。スーチー氏が一国の代表者としてありながら、ロヒンジャ問題など困難な諸課題については沈黙を決め込むという姿勢は、統治の透明性や政治家としての説明責任という原則に照らしてみれば、妥当性を欠いていることは明らかですし、過去の言動に照らしてみて政治家としてあまりに不誠実というほかありません。

<相克の克服としての政策>
 さて、スーチー氏の現実政治家への転身はどの程度已む終えないものだったのでしょうか。スーチー氏がミャンマーの民主化闘争において闘いの武器としてきた人権概念は、何ゆえに(スーチー氏においては)武器として通用しなくなったのでしょうか。端的に答えをいうと、普遍的な人権概念が抽象的なままに放置され、土着的な状況に合わせて具体化され、実践可能な状態におかれなかったからです。このことは、科学的命題は観察や実験の結果によって否定・反駁される反証可能性を有する理論(仮説)形式でないかぎり、その真偽を決定できないとしたK・ポパー流の科学理論を参考にしても、理解できることです。人権に関する普遍的な概念が、それに基づいて変更されるべき現状の特殊性・具体性を顧慮せず適用しようとすれば、現実とは噛み合わず跳ね返されてしまいます。普遍概念は状況の特殊性に媒介され具体化されて初めて実践可能となり、検証(反証)可能となるのです。そして政治においては特殊に媒介された普遍概念、つまり中間命題こそ、なにあろう「政策」なのです。政策まで具体化されてはじめて政治ビジョンは、集団実践による検証が可能となるのです。そして同時に政策は、国民大衆にとって自分たちの日々の生活上の必要を一般化したものであるという意義をもちます。政策は生(なま)の生活要求の集合ではありません。後者は普遍命題に媒介されて一般性を付与されて初めて政策になるのです。だからこそ人々は政策を学ぶことによって、抽象的な人権思想をそれ自体として知らなくとも、人権の何たるかを日々の生活のなかでひとつひとつ習得する結果になるのです。
 NLDの政策活動上の非力さとスーチー氏の現実政治家への転身は、じつは内面的に呼応し合っています。スーチー氏においては普遍的人権概念と土着的現実との間を仲介すべき中間概念=政策が不在なため、両者の距離が遠すぎて橋渡しできないでいるのです。これがスーチー氏の沈黙と無力さの正体なのです。たしかに軍政50年の統治によって国は疲弊し、民主化運動の中核的担い手となるべき中間階級がきわめて薄い層でしかないという現実はあります。しかしそれは民主化運動の困難性のひとつではあっても、不可能性を証明するものではありません。現にネウイン治政以降、民主化闘争は連綿と続き途絶えることはなかったのです。

<圧政への土着の抵抗運動と結べ>
 特殊的土着なものは遅れた意識であり、人権的な普遍思想にいつでも抵抗する壁になるというわけではありません。圧政に抵抗する民衆運動は、すでに潜在的に普遍思想を受け入れる条件を大いに具えているものです。率直に言って、エリート出身で大衆政治家としての出自をもたないスーチー氏にはこのあたりの本能的嗅覚が欠けています。
 NLDが合法化して以降、全国的な意義を持った草の根の闘いは陸続として途切れることはありません。筆頭はテインセイン政府を計画中断に追い込んだ「ミッソンダム」をめぐるカチン州住民の闘い、レッパダウン銅山をめぐる農民の反対運動、政府提案の教育法反対の学生行進、国軍やクロニーに対する農民の無数の土地返還闘争、石炭火力発電所計画への住民の反対運動、ティラワ経済特区などの公共事業による強制立ち退き反対闘争、言論の自由をめぐる闘い、外資系縫製業での賃金闘争等々、数え上げればきりがないくらいです。こうした下積みの農民、労働者、住民のエネルギーを民主化勢力の力に換える方針―政策、運動、組織―を、残念ながらNLDは持っていません。草の根の国民の諸要求に耳を傾けながら、戦略的方向性に照らして調整しながら、一貫性のある政策に仕立て上げるという最も基本的な政党活動ができていないのです。
 自由、平等、人権、民主主義といった普遍的な価値を掲げる改革構想は、一国におけるその具体化にあたっては依拠すべき「土着」と闘うべき「土着」とのえり分けが必要となります。過激派仏教勢力にみられるような排外主義的で狭隘なナショナリズム(ゼノフォビア)と、ローカルな生活要求に根差し変革のエネルギーを秘めた国民主義との区別が重要です。後者の国民主義は一国の、さらには地域、地方の自立性を重んじながら、多国籍企業主導のグローバリゼーションに抗しつつ国際連帯にも拒絶反応はありません。
その典型例が、日本が官民一体で取り組んでいるティラワ経済特区事業においてみられました。ヤンゴン郊外にある全2400haの対象地域で第一期分400haの造成が2013年11月に着手されました。日本の国際NGOメコン・ウオッチによれば、「2013年1月31日付で、ティラワSEZ開発予定地(2,400 ha)内の各戸に立退き通告『14日以内に立ち退くこと。立退かない場合には30日間拘禁する』。住民を 『不法占拠者(スクオッター)』とみなし、移転・補償措置は一切提示されなかった。住民によれば、この通告を受けたのは901世帯(1017家族、3,869個人)にものぼった」とあります。まさに軍政時代と同様、移転補償なしの即刻立ち退きという無茶苦茶な通告でありました。
これに対し立ち退き対象住民は住民組織を結成、代替地の提供や移転補償を求めてミャンマー政府と交渉しましたがなかなかラチがあかず、メコン・ウオッチが介入して事業責任者のひとりであるJICAの倫理規定を活用、日本政府を通じてミャンマー政府に圧力をかけさせ、事態は著しく改善したのです。もちろん生活再建補償という観点からみれば、補償は職業、教育、地域生活の保全などまだまだ不十分です。しかし公共事業にかかわる立ち退き補償で、数十年にわたって無権利状態におかれていた事態をひっくり返したという意味で画期的な成果であり、これからの公共事業や資源エネルギー開発に伴う移転補償のモデルとなりうるのです。メコン・ウオッチの仲介で、住民代表が来日して三菱商事などコンソーシアム当事者とも直接交渉したことも忘れてはなりません。
私見ですが、ティラワ特区においてメコン・ウオッチが果たした役割を、本稿のテーマに関連させて総括すると、国際人権・環境団体という普遍的価値を基準として活動をする組織が、土着の住民組織とタイアップして大きな成果を上げたという点で、人権運動の旗手とされたスーチー氏が土着の壁に阻まれてもっとも保守的反動的な勢力への屈服を強いられていることとまことに対照的あり、そこから多くの教訓を引き出すべきでしょう。コスモポリタンと揶揄されることもある国際NGOが、国内の住民組織と提携して主権国家の政府に影響力を及ぼしたことは、グロバリゼーション世界における運動の新しいあり方として注目されていいと思います。
 しかしそのことは同時にNLDが本来果たすべき役割を果たさず、その空白を国際NGOが埋めたということでもありました。ミャンマーで最初の経済特区の建設というこれほどの大事業で多数の住民が被害を受けるというのに、NLDの国会議員も地域支部も一切姿を現さず、政治的に関与することもありませんでした。権力者の横暴から国民の人権と生活を守ることを標榜してきた政党であるにも関わらず、党の実態は議員政党よろしく、議会内での政党間の駆け引きに終始しているのではないかと疑問を持たれます。
 さて、民主主義は国民一人一人が自立した主体であることを条件としています。半世紀にわたる軍部独裁のもとでほとんどいっさいの権利を奪われてきた国民は、面従腹背を習い性にしています。何かあれば、首をすくめてやり過ごす、あるいは見て見ぬふりをすることを習慣化してきました。しかしいまそのことを放置していては国民の受動的な意識のあり方は変わらず、既成勢力との間の力関係を変えることはできません。スーチー氏のように一度現実政治の罠にはまると、既存の力関係は変えることができないようにみえ、したがってその枠内でなんとかNLDの権力維持を図ろうと、多数派に迎合し無原則な合従連衡に走る危険性も生まれてきます。
 ヤンゴンで12年間暮らした経験から言えるのは、理不尽さが蔓延している社会の中では、どんな些細なことであれその理不尽さにノーということが意識変革の出発点になるということでした。特にお上からの理不尽な要求に対してノーという権利を行使できるかどうか――そのためにはまずは複数人で協力し合ってものを言うことです。見ていると、権力の側も相手を試しています。どこまでなら要求しても相手は何も言わないか、その閾値(境目)を探っているので、もし抵抗する姿勢を示さなければ、次には要求はエスカレートするでしょう。そのようにして何十年も閾値を狭められ、国民は徐々に権利を奪い去られていったのです。そういう意味では民主化とは日々心と心との闘いです。これをひっくり返すべく大切なのは、教育改革も含め国民の市民としての成長戦略を民主化勢力は打ち立てることです。理不尽を理不尽と感じる感性を磨いて正義感を触発し、市民的な不服従と合わせ自分というものを確立すること、それを家庭から学校、社会を貫いて積み上げていく地道な営為が大切だと思います、
 かつてのスーチー氏の金言の数々はすっかり色あせた感がありますが、それでもまだ生きている言葉があります。それは「民主化闘争は第二の独立運動である」というもので、いわば自分たちの闘いは未完の独立運動を仕上げるものだとする自己定義です。父親の代の闘いで、ミャンマーは形式的には主権独立国家になったが、実質はまだ具わっていなかった。なぜならば、内戦によって諸民族は分断され、近代の国民国家(民族国家)としての統一性・統合性を満たしていなかったから。また軍隊への文民統制が欠けており、政教分離も十分でないという意味で、近代国家としての資格をまだ十分満たしていないからです。したがって内戦終結・全面和平と連邦制確立、軍隊への文民統制、そしてそれらを可能にする条件であり集大成でもある新憲法制定は、三位一体の民主化運動の課題としてどうしてもやり遂げなければならないのです。

2017年4月24日             野上 俊明   

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion6634:170425〕