昔、天声人語だったと思うが、随筆についてこんな文章を引用していた。「欧米におけるエッセイと、日本の随筆は少し異なるようだ。日本の随筆は、話題の中心から離れたところで始まり、なかなか中心に触れずに、その回りを遠巻きに回るように進む。」というような文章だったと思うが、うろ覚えで、細部はしっかりしない。そして、「話題の中心」「ものごとの核心」みたいなものに、最後に到達するのだったかどうか、そこも覚えていない。
そうした異同はともかく、わたしはこの考え方の骨格を、とても興味深い、と思った。それで、頭のなかに残ったイメージは、「核」のようなものが真ん中にあって、その回りを螺旋のようにぐるぐる巻きの線が回っているもの。外から始まって、徐々に中心との距離をつづめていく。ちなみに、「欧米のエッセイ」がどう解釈されていたかは、忘れてしまった。が、おおかた、論理的なイメージで捉えられていたのだろうと思う。
随筆というものは、おそらく、なかなか核心に触れないのだろう、触れそうで触れない、通り過ぎてゆく、行きつ戻りつ、ぱっと話題が飛ぶ。飛躍したように思えるが、奇妙な近道を通って、戻ってくる。それも、気づくと、ぐっと近づいている、言いたいことはそこなのか、と思う。ついに結論部に至るぞ、と思いきや、ふっとはぐらかされて終わる。それで、終わり。空白なのか、余韻が残る。そんな、もどかしいような、それでいて綾があるような、独特の悠長な語り口。
僕は、そんな「随筆」をとても好ましいものに思う。実際に、日本の随筆がそうなのか、日本だけがそうなのか、欧米のエッセイは論理的なのか、よくわからない。ただ、あの天声人語で読んだはずの「随筆の構図」とでも言うべきものに、とても惹かれる。奥ゆかしい、という言葉がぴったりだ。それでいて、そのゆき方は、たしかに、ものごとを捉えるために、ある種のもっともふさわしい方法でありえるのではないか、と、少し論理的にも考えてみたりもする。
余談:アイデア・ライターの肩書きで、自身のブログに書きたいのは、そういうエッセイなのだ。そして、僕は書き方のベースが西欧の文芸にある。それで、タイトルは「随筆」とせず、「エッセイとはなにか」とした。
初出:ブログ【珈琲ブレイク】http://idea-writer.blogspot.jp/2013/03/blog-post_31.html より許可を得て転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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