テキスト・クリティークによって突き崩された欺瞞的「放射線『安全』論」

島薗進著『つくられた放射線「安全」論』(河出書房新社2013)2800円+税

1.著者のスタンス
著者は「あとがき」で書いているように、もともとは東京大学の医学系(理科Ⅲ類)に入学している。「(母方、父方の)二人の祖父も父も医学者だった」ことがその主な理由だったようだ。入学後に起きた東大医学部紛争により、「医学界の権威主義や倫理性の軽視」と向き合うこととなり、その結果、文学部宗教学科に転じる。しかし、卒論が「フロイトと宗教」だったことからも忖度しうるように、医学への関心と問題意識は依然持ち続けられる。そして2011年3月11日以後の状況の中で、「生命倫理への関心と共に、医学史への関心」が再び呼び覚まされることになる。
著者の基本的な視軸は、「医学や生命科学が『いのちの尊さ』を軽んじたり、人の命をモノのように遇してきた歴史やその度合いを強めるかもしれない可能性についても検討する」という点にあるようだ。この立場は、彼の実父がモットーとした「病む人のために」にも通じている。

2.「テキスト・クリティーク」
この本は序章を入れると5つの章から成っている。大まかにいえば、科学者(医学者、学者、専門家)が民衆(特に被災者)の信頼を失うにいたったのは何故か、ということへの検証が前半で論じられる。ここではいわゆる体制側に取り込まれた科学者たち(「原子力ムラ」、「御用学者」)が「無批判的に」前提としているデータ、論文などの成立根拠の脆弱さが容赦なく暴きだされる。「テキスト・クリティーク」といわれる基本的な手法が、前提されている論文・データ(テキスト)や報道、情報などへの克明な検討を通して駆使されている。極めて地道な作業ではあるが、この著者の誠実さと「いのちの尊厳」への真摯な態度を如実に示す個所として秀逸な輝きを放っている。ここでの精緻な検証を通じて、「信頼喪失」=「不信」を招いた根本原因は、科学者、学者、専門家の側にあることが鮮明される。
その際大きな問題として取り上げられているのが、「安全=安心」という、確たる根拠もなく下される「原発容認派」からの一方的な宣伝のまやかしであり、また低線量の放射線被曝の健康への影響を考える上での「しきい値」問題である。以下にこの問題を考える上で参考となる個所を2,3引用・紹介しておきたい。
最初に、かの山下俊一氏(長崎大学大学院教授・福島県立医科大学副学長)の発言から「安全=安心」論が如何に無責任に主張されているかを見てみたい。

3.山下俊一氏の「精神主義的安全=安心」論
「原発事故以後の山下氏の発言で目立つのは、決意を持って福島の地にとどまるべきだという精神主義的な鼓舞である。3月21日の講演会の筆記録…
『今は非常事態ですからご心配が多いけれども、いずれこれは治まって、安全宣言がされて、復興のいかずちを上げなくてはいけません。しかし、今はその渦中です。火の粉が降り注いでいるという渦中で、これをどう考えるかということを皆様方は念頭に置いて下さい。今その渦中にいる我々が予測をする、あるいは安心だ、安全だということは、実は非常に勇気のいることであります。危ない、危険だ、最悪のシナリオを考えるということは、これは、実は誰でも出来るんです。しかし、今の現状を打破するためにどう考えるかというときに、今のデータを正直に読んで皆さまに解釈してお伝えするというのが私たちの役割であります。』」(p.24)
「放射線の影響は、実はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人に来ます。これは明確な動物実験でわかっています。」などとぬけぬけとおっしゃる山下のこの特攻的精神主義の鼓舞を、著者は怒りを込めて切り捨てる。
「…これはこの分野の専門家として助言を求められていた科学者が、『将来の癌をも恐れず、安全と信じて戦おう』と福島県民に訴えているわけだ。福島県放射線健康リスク管理アドバイザーや原子力安全委員会の委員の公衆の前での発言として適切なものだろうか。また、このような信念のもとで『100mSv以下は全く安全』と説かれているとしたら、疑いの念が起こらないだろうか。」(p.24)
因みにいえば、山下はこの福島の不幸をあたかもビジネスチャンスかなんぞのように考えているらしく、ある講演会では次のようにも発言している。「これからフクシマという名前は世界中に知れ渡ります。フクシマ、フクシマ、フクシマ、何でもフクシマ。これは凄いですよ。もう、ヒロシマ・ナガサキは負けた。フクシマの名前の方が世界に冠 たる響きを持ちます。ピンチはチャンス。最大のチャンスです。何もしないのにフクシマ有名になっちゃったぞ。これを使わん手はない。何に使う。復興です」…
橋下徹大阪市長が、「従軍慰安婦」を「モノ」と考えたように、「命の尊さ」を忘れ、「人の命をモノのように遇」する医学者(科学者、専門家)は、今や再び政・官・財界との固い絆(経済至上主義)に人々の将来像を託そうとしている。

4.「低線量被曝のリスク管理」(しきい値問題)とは何か―晩発性障害の問題
次にこの書の中で著者が最も力を入れて論じている「低線量被曝のリスク管理」(しきい値問題)に関する個所を少し長くなるが引用したい。
「2012年末までのところ、事故後の放射線健康影響をめぐる情報が混乱した理由について、まとまった記述がみられるのは『国会事故調報告書』だ。その4・4『放射線による健康被害の現状と今後』はおおよそバランスの取れた記述といってよいだろう。…この度の事故で懸念されているのは、事故時の短い時間に大量の被曝をして現れる急性障害、すなわち『確定的影響』と呼ばれるものではなく、低線量(100mSv以下)の放射線を浴びた場合の晩発性障害、すなわち「確率的影響」と呼ばれるものだ。この低線量被曝による確率的影響については、国際放射線防護協会はLNTモデルを採用している。LNT(linear non-threshold:直線しきい値なし)モデルというのは、100mSv以下の低線量であっても健康被害をもたらす影響がなくなる値(しきい値)を設けることはできず、直線的な比例関係で減っていくと看做すものだ。」(p.26)
「放射線被曝が少なくなれば、それに従ってリスクは減少するが、ゼロになるのは放射線がゼロの場合のみである。この考え方は、放射線影響に関する国際的な機関で広く承認されている。LNTモデルが国際的に合意されているのは、原爆被害者をはじめとする疫学調査に加えて、膨大な数の動物実験や試験管内の実験などから得られた結果を考慮しているからである。」(p.27)
「…『国会事故調報告書』は、続いてIARC(国際がん研究機関)が15カ国の核施設労働者40数万人を対象にして行った、がん死リスクの調査について述べている。
『その調査結果によると、労働者の90%以上は50mSv以下の被曝で、がん死は線量に依存して増え、白血病を除く全固形がんについては1Sv当たりのがん死は対照(汚染による被曝をしていない人々)の1.97倍であり、慢性リンパ性白血病を除く白血病については対照の約3倍になっている。ドイツ、英国、スイスの三国の原子力発電所周辺の線量は年間0.09mSvである。これらのデータから見ると放射線はゆっくり浴びたからといってそのリスクが低くなるとはいえない。(404ページ)』」(p.28)

引用がかなり長くなりましたが、重要な箇所なのでお許し願いたい。目に見える形で現れる短時間、大量被曝がもたらす外部被曝や内部被曝の「急性障害」と異なり、この「低線量被曝」は20年、30年経った後で被曝障害が現れることになりかねない(あるいは遺伝子への影響などをも考慮せざるを得ない)類の問題である。障害が表面化するまでの時間が長いだけに、その原因や責任問題がともすれば看過、あいまいにされかねないのである。だからこそなお、慎重かつ丁寧な調査研究が求められる。被曝地周辺の昆虫などの小動物や植物などには、既にある種の異変(奇形や腫瘍や遺伝子の変異など)が起きていることも報告されている。
ここで著者が言いたいことは、批判=反対者側のデータ(しかも大量のデータや研究結果)を無視しながら上からお仕着せられる専門家の言(「安全」「安心」の説明)とは欺瞞ではないのか、それが無責任な「放射線『安全』論」をつくりだす一方で、他方に、このような「説明」を繰り返す科学者、学者、専門家への不信、不安を募らせる土壌になっているではないかということにある。
「『不安をなくす』ために調べない知らせないという『医療倫理』」に対して、例えば福島大学放射線副読本研究会のように、これではいけないと考える人たちもいる。おそらくいろんな地域、それぞれの専門分野にこのような考えの人たちがいて、地道な研究や活動を続けているのではないだろうか。
「今回の原発事故で教訓とすべき点の一つは、偏重した教育や広報により国民の公正な判断力を低下させるような、いわば“減思力”を防ぐことです。そして、放射線による被ばく、特に低線量被ばくによる健康への影響については、正確なことは分かっておらず、専門家の間でも見解が一致していません。このような『答えの出ていない問題』については、どのように考えていけばよいのでしょうか。私たち、福島大学放射線副読本研究会のメンバーは、学問に携わる者として、また原発事故によって被ばくした生活者として、このような不確実な問題に対する科学的・倫理的態度と論理を分かりやすく提示したいと考え、この副読本をまとめました。今回の副読本では、国の旧副読本・新副読本における記述や、原発推進派の見解を積極的に載せることでバランスに配慮しながら、そこに見られる問題点を指摘することで、判断力や批判力をはぐくむことができるように工夫をしました。」(pp.77-78)
被災者はもとより、われわれ一人一人も、ただ専門家の言説を鵜呑みにするだけではなく、その中身について考える(「判断力や批判力をはぐくむ」)努力をしなければならない。それが自分たちの生命と健康を守るための基本であるからだ。

5.リスク管理と、つくられた「安全・安心」論
後半の第3章と終章では、専門家という立場からひたすら「安全安心」を言い立てることで、被災者の「不安」を取り除こうとすることの危うさが徹底的に批判される。そして、このような「原発推進派の立場」に迎合し、「原発推進に資する」研究に多くの科学者たちが従事するにいたったことの問題性が検討される。
「安全安心論」の公衆への積極的な「布教」という役割を担って創設されたのが「安全安心科学アカデミー」であるようだ。再び引用する。
「安全安心科学アカデミーという団体は、放射線の健康影響についてのリスク・コミュニケーションを主要な課題としているが、その際のリスク・コミュニケーションとは『安全でも安心できない』公衆を説得する、あるいは『オピニオンリーダーなどを育成して、住民の中に溶け込ませ』心理誘導することと理解されている。」「このような『安全・安心』論を妥当と考えてきた専門家たちが、3.11以後、市民に信頼されるような情報提供ができなかったことはほとんど自明のことではないだろうか。何故なら、安全だから安心せよと説かれてきたのに、安全ではなかったわけだから。」「…低線量被ばくによる健康被害についても、それを懸念すべき科学的データはたっぷりある。」「例えばアメリカの『電離放射線の生物影響に関する委員会』の2005年の報告(BEIR Ⅶ)」「更に小児癌の研究からは、胎児期や幼児期の被曝では低線量においても発がんがもたらされる可能性があることも分かっている。例えば、『オックスフォード小児がん調査』からは『15歳までの子供では発がん率が40%増加する』ことが示されている。これがもたらされるのは、10から20mSvの低線量被曝においてである。」(pp.194-195)
こうしたデータがあるにもかかわらず、そのことを詳細に調査することもせず、また公衆にその事実を知らせようともせず、自分たちにとって都合のよい言い分をあたかも「科学的に裏付けられた客観的な事実」であるがごとく説得する。「モノを知らない素人」である公衆に専門家が上から教え、解説すること、これが彼らの「安全・安心」論の「説明」に他ならない。このことを著者は鋭く指摘する。この「安全・安心」論への批判は、この本の白眉である。
それではなぜ、科学者や専門家たちが、こうした無批判的な状態に追い込まれていったのか。著者は以下のようにその辺の事情を剔抉する。
「…こうした研究や言説を育てるために、政府や電力会社等の関連経済勢力は多大な投資・支援を行ってきた。他方、この時期の科学者は研究費の調達に苦労し、国やスポンサーの求める方向での成果を上げるべく動機づけられる度合いを増していった。研究資金が原発推進に資する研究を歓迎する機関・組織・財源(外部資金・競争的資金)から得られる傾向が、急速に強まっていく時期だった。その結果、全国の大学や研究機関の関連分野の研究に、電中研、放医研、電力会社等が一段と大きな影響を及ぼすようになったと考えられる。また、政府も原発を推進するという立場から、そうした傾向をこれまで以上に積極的に後押しするようになった。」(p.256)
かつて「産学協同路線反対」のスローガンを掲げて学生運動が闘われた時代があった。今、「学問の自由」「大学の自治」などと共に、再び「産学協同」とは学問にとって何なのか、が真剣に問い返されなければならないのではないだろうか。
この本を読み終わって、著者の真面目さ、学問的な誠実さ、他人(特に被災者)への思いやりなどを感じるとともに、改めて自主的で、自由な学問の在り方を考えさせられた。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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