さしもの米大統領選もいよいよ大詰め、投票日まではあと百時間余りとなった。世論調査は最後まで民主党のバイデン候補の優勢を示していたが、なかなか信じる気になれない。4年前のあの予想外の結果がまだ記憶に新しいからだ。われわれが、普段、目にするアメリカ人とはちがうアメリカ人がどこからか湧き出してきて、トランプ候補を天まで担ぎ上げているように感じたものだ。
今回もあれと同じことが起きるのではないかという気がしてならない。他国の元首のことだから、どうしてもそれがいやだとか、逆にそれを強く望むとかではまったくないが、しかし、見たくないものを見続けなければならないのかと、ため息をつきたい気分は否定しがたい。
見たくないものとはなにか。民主主義を馬鹿にし、足蹴にするさまだ。「民主主義は最悪の政治形態と言われる。ただし、これまでに試みられたすべての政治形態を除けば、だ」というのは、かのチャーチルの名言だが、たしかに民主主義はひ弱な制度である。ルール破りに簡単に結果が左右される。日本でも法務大臣をやめたばかりの代議士が所属政党の幹部から大金を渡されて選挙区の地方議員らに配り、妻を参議院議員に当選させたという事例が発生し、夫婦2人ともが裁判にかけられている。
一見、因果応報・信賞必罰のごとくであるが、一番悪いのは、巨額の党資金を自らの采配で「わいろに使え」と言わんばかりに代議士に渡した党幹部である。その男は代議士とその妻が逮捕されたときには、「別に重要人物でもないから、党に影響はない」と言い放って、2人に離党届を出させてそれを受け取り、あとは知らん顔を通して、いまだにのさばっている。
トランプ大統領(以下、敬称略)はこれほど悪辣ではないにしても(実際のところは私には分からないが)、相手候補を公然とののしり、口汚い言葉で人々を扇動し、選挙をただの喧嘩と見まがうばかりの騒ぎに貶めている。民主主義の顔に泥を塗る振る舞いとしか言いようがない。
最近、ベラルーシのルカシェンコ大統領をはじめとして、選挙をなんでもありの乱戦にして力で権力を握る風潮が広がりつつある。その横綱格がトランプである。
私にはアメリカの政治に口を出す気持ちもなければ、勿論、その資格もまったくない。しかし、民主主義がしなびた花のように世人から馬鹿にされ、顧みられなくなることだけは何としても避けたいと願っている。ところが、ここへきて、思わぬ人間、それも押しも押されもしない某大国の首脳がじつはトランプの再選を強く望んでいるのではないかと気が付いて、いささか愕然としている。
それは誰か、答えは中国の習近平国家主席(以下、敬称略)である。アメリカと中国はこの2年あまり、「新冷戦」と言われるほどに対立を深めているのにそんな馬鹿な、と思われるかも知れない。しかし、習近平の言動を見ていると、トランプ再選を望んでいるとしか思えないのだ。まあ聞いていただきたい。
先月、私はこのブログに米中関係について一文を載せた。そこでも触れたのだが、今年の5月以降、習近平の政策遂行が極めて大胆、かつ強引になってきた。今年前半はコロナ禍のために中国の政治日程が例年より2か月ほど遅れ、毎年3月中には終わる全国人民代表大会(代議機関)と全国政治協商会議(諮問機関)という2つの会議が終わったのが5月下旬にずれ込んだのだが、それが終わるや否や、全国人民代表大会の常設機関である常務委員会を開き、そこで「香港国家安全維持法」という、すでに大分穴があいてしまっていた「一国二制度」という香港と中国本土の関係を律する大原則にとどめを刺す法律を制定し、6月30日にそれを施行した。
「一国二制度」というのは周知のように1984年、当時の中国の最高実力者、鄧小平と、イギリスのサッチャー首相(当時)が香港返還にあたっての大原則として合意したもので、返還後も50年間、香港はそれまで通りの法制度のもとに置くという公約である。中国側は「一国二制度」は国際約束ではないと強弁しているが、50年という期限付きである以上、国際約束であることは明らかである。
その後の香港の状況はご承知の通り。民主派に同情的な新聞のオーナーや活動家に対する脅迫とも見える逮捕なども含めて、昨年までの香港とはまるで様変わりして「一党独裁下の香港」となった。
習近平の強気は少数民族自治区にも向けられている。少数民族地区といえば、新疆とチベットが思い浮かぶが、去る8月28,29日の2日間、北京でチベット工作座談会、また9月25,26の2日間は新疆工作座談会が同じく北京で開かれた。これは両自治区についての政策方針を決める最高レベルの会議だが、両方とも数年ぶりの開催だった。
そして2つの会議で強調されたのは「中華民族共同体意識の強化」であり、「宗教の中国化」であった。新疆に住むウイグル族もカザフ族も漢民族とは明らかに異なる民族であり、独自の歴史と文化を持ち、特に信仰するイスラム教は中国の国境を越えて世界の広い地域に信徒が広がる宗教である。チベットもまた独自の文化と独自の宗教を持つ。その他の少数民族もまたそれぞれの独自性を持ち、かつそれを尊重されながら、自治区あるいは自治県などとして、共和国に参加するというのがこれまでの在り方であった。
つまり中華民族あるいは漢民族といっても、これまでの考え方でいえば、共和国を構成する数十の民族の1つにすぎないのだが、今はその名前のもとに他の民族を取り込んでしまおうとしているのである。とくにイスラム教徒もチベット族もいずれも独自の宗教を生活の中心に据えて生きている人々である。それを「中国化」するとはどういうことなのか。当事者にとっては頭から冷水を浴びせられるようなものではないのだろうか。
新疆、チベットのほかに北方には「内モンゴル自治区」という少数民族地区がある。ここは建国以来、漢民族が多く住みつくようになり、現在では区内人口の8割が漢民族と言われ、民族問題は薄められて、これまで民族間の確執はほとんど伝えられず、「少数民族地区の優等生」とまで言われてきたところであるが、最近、モンゴル族の子弟が通う民族学校でこれまで少学3年になってから始まった中国語による「国語」の授業を1年からにするという方針がうちだされ、それではただでさえ影が薄れつつあるモンゴル語の将来が危ういということで、「モンゴル語を守れ」という声が上がり、100人近いモンゴル族の人々が拘束されたと伝えられた。
いったい中国の権力中枢はなにをしようとしているのか?その答えを示唆するこんなニュースを、最近、目にした。
フランス西部の都市、ナントの歴史博物館が来春、「チンギスハンとモンゴル帝国の誕生」という展覧会を計画していたが、協力を求めた中国側と意見が合わず、開催を見送ったというのだ。どんなことで意見が合わなかったのかというと、ナント側が予定した上記のタイトルを中国側が認めず、逆に「一体化、相互学習、統合」をタイトルに、「12世紀以降の中国の北方草原」をサブタイトルに提案してきた。これではなんのことやら意味が分からないと言っても、中国側は譲らず、結局、話は壊れたのだそうな。(「産経新聞」10月22日電子版)
たしかにこれでは何を見せてくれるのかさっぱり分からない。フランス側が開催をあきらめたのは理解できる。しかし、こんなタイトルを強要してきた中国側の意図はよくわかる。つまりチンギスハンもモンゴル帝国も彼らの言う「中華民族共同体」に属するのだ。したがってチンギスハンによるモンゴル帝国の成立も共同体内部の「一体化、相互学習、統合」の過程であって、その1つが「12世紀以降の中国の北方草原」で起きた、というわけだ。
トランプの「Make America great again」に対する習近平の「中華復興の夢」といってもいい。しかし、「中華」は漢民族の自己に対する美称であるから、その中にモンゴル族ほかの民族を包み込んで「中華民族共同体」の一部にしてしまうのは、ちょうど第二次大戦中に日本が唱えた「大東亜共栄圏」のように組み込んだ側の自己満足とはなっても、組み込まれた方はうれしいはずがない。
習近平はなぜこんなことに力を入れるのか。自己の権力に正統性を付与したいのだ。習近平が中国共産党内部の談合によって総書記のポストにつき、そこから自動的に国家主席の座に座ったことは世界中が知っている。習近平の負い目であったはずだ。
ところが昨年6月末の大阪でのトランプとの首脳会談では、トランプが大統領の外交権を行使して、選挙の票集めに米国からエネルギーや農産品を大量輸入するよう習に求めてきた。それが習近平に「選挙とはこんなものか、民主主義恐れるに足りず」と自信をつけさせたのではないかというのが前回の文章の趣旨だった。
その自信が今年に入ってからの習近平の香港や少数民族地区に対する力の政策の基礎にあるというのが、私の見方である。「中華民族共同体意識」を少数民族に植え付け、その独自の宗教を「中国化」し、彼らの歴史をも「中国史」の一部に取り込んでしまうのは、国内における彼の威信を高める材料にはなるだろう。
しかし、その威信は国民に選ばれて身に着けたものとはちがう。古めかしい皇帝型権威である。となると、民主主義は今や習近平にとっては敵といっていい。地上から消し去ることはできなくても、踏みにじられ、汚され、不信の目で見られるような存在になって欲しい、はずだ。
ここにうってつけの人物がいる。ほかならぬトランプだ。トランプの言動は民主主義の敵といっていい。習近平の敵は民主主義だ。敵の敵は味方ではないか。トランプにはもっともっと民主主義を踏みにじってもらいたい。習近平はこう考えているはずだ。
以上が「習近平はトランプの再選を望む」の理由である。勿論、推測にすぎない。しかし、こう結論づけてから思い返すと、いくつか裏付けになるのではないかという事実もある。
1つはこの夏から秋にかけて、アメリカの要人から数多くの中国非難、批判の声が聞かれた。トランプも相変わらず「チャイナウイルス」をことあるごとにやり玉に挙げていた。ところが、中国側の反論、批判はポンペイオ国務長官を標的にしたものが圧倒的だったと思う。なんらかの配慮があったのではないか。
2つ目は最近のことである、今月23日、中国は北京で朝鮮戦争参戦70周年を記念する大会を開いて、習近平が長い演説をした。その内容は報道されているから繰り返さないが、私がオヤと思ったのは、習近平は「帝国主義侵略者」あるいは「侵略者」、さらには相手側という意味の「対手」という言葉は使っているが、「アメリカ帝国主義」、あるいは「アメリカ」(中国語では「美国」)という言葉は1度も使っていなかったことだ。アメリカを意味する「美」という文字が登場するのは「抗美援朝」(アメリカに抵抗し、朝鮮を助ける)という参戦目的の定型句(何度も出てきた)が登場するときだけであった。何かのサインではあるまいか。
ともあれ、選挙は目前だ。この仮説を頭に入れて、開票およびその後を見物するつもりだ。(201028)
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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〔eye4778:201029〕