このところドイツでも非常に不順な天候が続いている。極端な暑さ(日中の温度が40℃以上)がしばらく続いた後、今度はまた湿度の高い「じめじめ」した日にちが何日も続き、ドイツ各地にGewitter(小台風)による大雨(ところによっては、雹)を降らせ、家屋への浸水騒ぎをもたらすこともある。今年の6月にはエルベ川が氾濫し、沿岸各地で大災害が起きた。とにかく今年は従来にない異常気象が特徴的な年になっている。
われわれのドイツ滞在もそろそろ終盤に差し掛かってきた。少し各地をめぐりながら、感覚的なものにすぎないが、最新のドイツ情報を吸収したいと思い、旅立つことにした。
本当は旧「東ドイツ」、ベルリンから北東の方、ポーランドとの国境辺に行こうかと考えていたのだが、やはり、エルベ川の氾濫の影響が強い様だとの情報から、今回は見合わせることにした。但し、旧「東ドイツ」を見たいという気持ちはなるべく保持した。
1.ノルトハウゼン、クヴェトリンブルク、マグデブルクへの旅
最初に訪ねたのは、テューリンゲン州にあるノルトハウゼン(Nordhausen)という町である。人口45000人ほどの小都市で、まだ周囲には旧東ドイツ時代の遺物が点々とその跡をとどめている。このハルツ台地の南側、ドイツの中央部に近い位置にある町が、かつてのハンザ同盟の一員だったとは、何とも驚きだった。
その後16世紀の初めに、有名な「ドイツ農民戦争」が起きた頃、この戦争での農民側の指導者の一人で、宗教改革者だったトマス・ミュンツァーがこの地にとどまっていた時期があった。ミュンツアーの影響で、この町や他のテューリンゲン州各地に、宗教改革がもたらされたといわれる。ミュンツアーらの最後の拠点が、このテューリンゲン地方だった。彼は、ミュールハウゼンというところで捕えられ、妻と共に斬首になる。
そういえば昨年の夏、同じテューリンゲン州にある「ドイツ農民戦争」を主題にしたMuseum(博物館)―正確な場所と名前は失念したが、に車で連れて行ってもらったことがある。立派な近代的建物の2階部分、かなり高い天井(3,4階部分をそのまま居抜いた高さ)の円形のホールの壁一面にパノラマ式にドイツ農民戦争の歴史が描かれていた。おそらく何人、何十人もの画家が協同して描いたものであろう、壮大な絵巻物が壁一面に展開されていた。残酷な場面も克明に描かれているが、ここではやはり中心は、ドイツの農民であり、そして、その農民軍を率いるハインリヒ・プファイファー(Pfeiffer)と、トマス・ミュンツアーだ。
片隅で、苦り切った、硬直した姿で佇んでいるのが、マルティン・ルターであった。彼は、当初の徹底した宗教改革、農民解放の志を既に放棄した哀れな姿である。周囲の王侯貴族に迎合し、彼らと一緒に、農民の解放闘争弾圧を進め、大量の農民を虐殺した張本人として描かれているのだ。
詳しい説明は、ここでは省かせていただく。興味のある方は、F.エンゲルスの『ドイツ農民戦争』をぜひお読み願いたい。
再びノルトハウゼンに戻る。駅前の割にしゃれた商店街から坂道(路面電車が走っている)を一直線に上ると、やがて左手に市庁舎(17世紀初めのもの)が現れてくる。その後ろの道をもう少し進むと、ドームがあった。これがこの町で最も古い建物(14,15世紀頃)である。ゆっくりとこの周辺の古いたたずまいを味わいながら、急速な再開発化の一方で、点在する旧東ドイツ時代の痕跡という奇妙なコントラストを堪能することができたように思う。時間がなくてこの地の有名なBrauerei(ビール醸造所)に寄れなかったのは残念である。
次に向かったのは、ユネスコの文化遺産に登録され、知られているクヴェトリンブルク(Quedlinburg)という瀟洒な町である。ここは、同じハルツ台地の北東に位置し、ザクセン=アンハルト州に属している。この小さな町は、9‐10世紀頃にザクセン公ハインリッヒ一世によって作られたといわれ、彼の居城だったSchlossberg(シュロスベルク)や、古い教会、多くの木組みの家などで知られている。いかにもドイツらしい、美しい中世の小都である。
しかし、僕自身の興味は、この町に向かう途中に多く見かけた風力発電用の風車であった。かなり広い土地の上に、大体20~30本ほどの風車がまとまって建てられている。そういう風車群があちこちにある。「脱原発国ドイツ」の人々のやる気をひしひしと感じさせる。
続いて、同じザクセン=アンハルト州の州都である、マグデブルク(Magdeburg)に行く。もちろんここも旧東ドイツ圏である。着いた時には、既に夕方の7時を回っていた。それからの宿探しである。駅のすぐ側にインターシティホテルがあったが、あまり気が進まず、別の宿を探そうと思い、旧市内の方へと歩き始めた。しかし、1時間ほど歩いても、ホテルらしいものが見つからない。どうもこんな経験は初めてで、急に不安になる。インフォメーションはとっくに閉まっていて、どの辺にホテルが在るのかも分からない。とにかく目立つ建物、ゴシック建築の教会が一番目立ったので、そちらの方へ向かって歩いた。途中、フンデルトヴァッサー(20世紀、オーストリアの画家で、建築家)のものと思しき奇抜な形の大きなアパートの前を通り過ぎた。ニーダーザクセン州のUelzen駅(駅全体が彼の作品)より、はるかにこちらの方がスケールが大きく、面白い造形だと思ったが、ゆっくり眺めている余裕はない。ゴシック様の教会の前の広場に来て、あたりを見回してみたが、やはり全くそれらしいものが見当たらない。仕方がないので、公園にいた若い男性に尋ねてみたが、やはり知らないとのこと。あきらめて、駅側のインターシティホテルに引き返して、結局そこに宿をとった。
この日はドイツでも珍しいほどの蒸し暑さ、にもかかわらず、この宿にはエア・コンがなかった。部屋はせまく、窓を全開にしても風通しが悪くて少しも涼しくならない。その上、外から車や路面電車の騒音が入ってくる。シャワーを浴びて、早々に外出した。近くの飲み屋街(Bierdorfビール村と書かれた看板が立つ一角)に行き、何件かの店をのぞいてみたが、何故か、アメリカナイズされた店ばかり(店の名前が英語になっていたり、ビールが「バドワイザー」だったり)で、「ここはドイツなんだから、ドイツビールを飲ませろよな」と二人でぶつくさ文句を言いながら見て回った末に、これまた仕方なく、英語の店名の店に入った。ビールが、ドイツ・ブレーメンの「ベックスBecks」だったからだ。蒸し暑い日だったので、席も道路の席にした。ところがである、何と、飲んでいる最中に数カ所蚊に刺されたのだ。エッ、ここはドイツじゃなかったの?なんでこんなに蚊がいるの?
踏んだり蹴ったりの夜だった。勘定を済ませてからウエイトレスに、「どうしてこんなに蚊が多いの?この辺だけなの、それともマグデブルク中なの?」と聞いた。彼女の答えは、至って明瞭。「エルベの氾濫以来、全マグデブルクで蚊が発生しているわ。ここだけじゃないよ」というものだ。納得。…ところで、この店の名誉のために一言だけ付け加えておく。食事は安くて美味かった。
ホテルの部屋の暑さは、一晩中同じだった。アルコールが入っても寝付けないほどだった。
マグデブルク:聖マウリトス大聖堂(ドイツ最古のゴシック建築)
マグデブルク:エルベ川
2、マグデブルクからハレへ
よく眠れないまま、ぼんやりした頭で朝食をとりにホールへ行く。ところが驚いたことに、かなりのご馳走なのである。贅沢なものではないが、なかなかのものだ。こういうところで高いホテル代(二人で98ユーロ) をカバーしているのかもしれない。
ゆっくりと食事をとって、旧市街地へ出る。昨日見た、ゴシック様式の教会の方へ先ず行ってみた。途中の大通り沿いにも、なかなか見ごたえのある古い建物が並んでいる。また静かな路地などがなかなか良い雰囲気だ。聖マウリトス大聖堂は荘厳な美しさをたたえた教会で、ドイツ最古のゴシック建築だといわれている。そこから少し歩くとエルベ川に出る。橋げたから川を眺める限りでは、この川がつい先ごろ氾濫したとは全く考え難いほど、静かで平和な雰囲気をたたえていた。
この日は、ホテルを出発した段階ではまだ涼しかったのだが、エルベの畔に立った時にはぎらぎらの太陽に照りつけられ、瞬く間に汗だくになった。それでもしばらくは、エルベ川沿いの緑地公園の中を歩き、途中の古い教会や城跡などを見て回ったのだが、それも中途で切り上げて、旧市街地(市庁舎やMarktplatz:市の立つ広場)へと向かった。
市庁舎は割に新しく、こんな規模の町にしては小さいと思った。入口付近に「ローラント」(Roland)の大きな石像が立っていた。Marktplatzは、すぐその前で、既にかなり多くの店が出て賑わっていた。ブラブラしていたら、にわかに大粒の雨が降ってきた。天候の急変は、ドイツでは日常茶飯事だ。急いで駅に向かい、適当な電車に飛び乗ることにした。時刻表は既にかなり狂っていた。
僕らが乗った電車は、ハレ経由でライプティッヒ行きだったが、ライプティッヒには前に行ったことがあったので、途中のハレ(Halle)に行こうということになった。
小一時間ほどでハレ駅に着いた時には、天気は再び真夏の青空に変わっていた。照りつける太陽を避けながら、路面電車の線路を横切り、なるべく日陰を選びながら商店街に入る。同じ大学町とはいえ、ゲッティンゲンなどよりもかなり大きな、美しい商店街が開けていた。少し歩くと、正面に大きな教会が現れてきた。教会の正面に立つ、威厳ありげな顔つきの像は、作曲家のヘンデルで、この地の出身だという。この辺の広場が、ハレのMarktplatzであるらしい。そこからまた少し歩いて、ハレ大学まで行く。割に小さな大学で、ゲッティンゲン大学に比べると、キャンパスも一所にまとまっているようだ。夏休みのせいか、学生もちらほらとしかいない。行く途中の道で、目ざとく学生が立ち入りそうなKneipe(飲み屋)を見つけ、よし、いつかは行ってみようと思う。
この日の予定は、ハレからイエナか、エアフルトか、アイゼナハ辺りに行って、泊まりはイエナあるいはアイゼナハ(両方とも、僕には行きつけの居酒屋があるからだが)にしようと考えていた。ところが、マグデブルクを出るときに見た時刻表の狂いが、ここではまともに作用して、エアフルト行きは2時間ぐらいの遅れ(それゆえ、アイゼナハも同じ)、イエナ行きは、途中で水たまり(池)ができたため(Teich gegeben)、11分の歩きの後、バスに乗り継ぐようになっていた。こういう報告が、僕らが駅で2時間ほど待たされた挙句舞い込んできた。もうどうしようもない。ここに泊まるしかない。
幸い、今回は、駅のすぐ近くにホテルを見つけたのでそこに転がり込み、先ずはシャワーを浴び、街に繰り出した。蒸し暑さは依然そのままだ。もちろん目指すは、先ほど目をつけた「学生の行きそうな居酒屋」である。
ここの場所が、少し移動していたため多少手間取ったが、当初の目的通りこの居酒屋に落ち着き、勿論ピルスナービールを頼んだ。出てきたビールは、僕は初めて聞く名前だった(Ur-Krostitzer)が、大変おいしいのでびっくりした。後で知ったことだが、ライプティッヒの小さなBrauereiで作られているビールだとか。あっさりした味のビールだと思った。1.5リットルほど飲んだ後、黒ビール(dunkles Bier)を頼んだ。これがすごく美味しいのである。本当に驚くほど美味い。甘からず辛からず、しかも僕の気のせいか、なんだかフルーティな味までする。銘酒である。ウエイターにこれはどこのビールかと聞いてみた。「Tschechienチェコのものだ」という返事であった。なるほど、これが「名にし負う」チェコの黒ビールか…、としばし感嘆した。メニューやジョッキーに名前も書いていたが、残念ながら僕にはチェコ語は読めない。その後、Gewitterになり、稲光と雷鳴と豪雨の中で、この黒を堪能した。
ハレのマルクトプラッツ(市の立つ広場)
3.小括
旧東ドイツ圏ほどアメリカの影響が強いように思った。多分、「影響が強い」というよりも、流行に乗り遅れないように、いち早くアメリカ流の文化を、表面的にも取り込んだ結果、こんなちぐはぐな、「ドイツらしからぬ」町の様相をみせているのかもしれない。これが僕の印象だった。なんだか終戦後の日本によく似ているな、と思った。
駅前広場あたりにたむろしている若者たちを見ても、公園でバイクなどで騒いでいる輩を見ても、旧西ドイツ圏(ボン、ケルン、ハノーファー、ゲッティンゲンなど)の若者とは、なんとなく違っている。以前にケムニッツ(Chemnitz:旧名はカールマルクスシュタット)に行ったときと同じ、殺伐たる感じをもった。
マグデブルクの市場(Marktplatz)は、並んでいる商品を見ても実に粗末なものばかりで、なんだか田舎の「雑貨屋」さんの店先を覗いているような思いだった。
その半面で、異様に近代化されたビルも建てられている。中には、例外なく、スーパーや薬屋などのチエーン店が入っている。資本主義の波が、否応なくすべてを飲み尽くして行くさまが垣間見える。貧富の格差の増大、若者の失業率の増加、地方に行くほど老人世帯が目立つところは、日本の現状と同じだ。派手なビルが建設される一方で、古い伝統的なドイツ風住居が次々に廃屋に追い込まれている。「Vermieten:貸間あり!」「Verkaufen:売家」という紙きれの貼られた家や商店もずいぶんあった。
今、ベルリンやハンブルクのマンションや土地は、大変なバブルだと聞いている。大変な違いだ。
2013.8.12記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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