今回のパレスチナの旅の最後に、シリアとイスラエルの国境地域にあるゴラン高原とレバノンとの国境地帯を見に行った。
イスラエルは、67年の第3次戦争、73年の第4次戦争でシリア領のゴラン高原を占領、領土とすることを一方的に宣言した。もちろん国連もすべての国も領土化を認めず、シリアへの返還を求めたが、イスラエルは全く無視し、領土宣言を押し通した。わたしは73年戦争当時、共同通信社のベイルート特派員をしていて、ゴラン高原での戦闘を報道した。停戦が成立して、国連がシリア側に残されたわずかな地域に、停戦監視団を派遣、日本の自衛隊もそれに加わったので、2回現地取材をしたことがある。
ゴラン高原は、イスラエルの北東端の山地にあり、最高点は標高2814メートルのヘルモン山。そこからキリストの布教でも有名な、ヨルダン川の上流部にあるガリラヤ湖の東岸へと広がる高原で、1948年の第1次中東戦争でシリアが占領。シリア領となった。
第4次戦争では、イスラエル軍が激しく攻撃、戦闘がヘルモン山の山頂近くまで広がったが、全体で1、800平方キロ(香川県と同じぐらい)のうち、イスラエル軍が3分の2の1200平方キロを占領、600平方キロをシリア軍側が支配あるいは交戦している段階で停戦となった。イスラエルは一方的に占領地の領土化を宣言。国連は兵力引き離し監視軍(UNDOF)を派遣して停戦を監視。現在も1,000人が駐留を続けている。
▼こぎれいなユダヤ人入植地
ヨルダン川を越えて急坂を上がっていった。2車線だが幅広い舗装道路。はじめにドルーズの大きな村落がいくつもあった。ドルーズはレバノンからゴラン高原、シリア、ヨルダンにかけての山間地などに居住地がある、イスラム教の独特な密教宗派だ。ゴラン高原では、しっかり自衛態勢を取りながらイスラエルの侵攻には武力抵抗をせず、村落が無傷で存続できたようだ。
さらに坂を上がって、涼しいと感じるあたりから、ユダヤ人入植地の町が次々と現れた。こぎれいな街というか別荘地というか。食料品店やカフェもあらわれる。ドルーズ村とは全く別世界だ。イスラエル政府は、ゴラン高原の入植地への移住勧誘を、とくに米国でやったのだという。事情通の方の説明では、リタイアしたユダヤ人の金持ちがおおく、別荘地の価格として米国では高級だという。シリアとの国境に近い激戦の跡地でもあり、映画館も劇場も全く縁遠い場所なのになぜ?と思わずにはいられなかった。
さらに上がって行くと、スキー場があった。3本リフトがあり、ホテルやレストランもあった。イスラエルは唯一のスキー場をここに作ったのだ。リフトで上がると、ヘルモン山の山頂が近くなる。目の前の尾根には、イスラエル軍の施設があり、近づけなかった。
▼平和なレバノン国境
イスラエル領最北端のレバノン国境の村にも行った。レバノンは第4次戦争に加わらなかったので、戦争直後、首都ベイルートから何回もこの国境に来たことがある。当時は、イスラエル側が国境に通路を開いて、レバノン側からイスラエル側の村に野菜を買いに行っていた。
今回はイスラエル側の低い丘から緑豊かなレバノン側の草原、農地を見渡した。国境には金網のフェンスがありフェンスに沿って両側の道路を、普通の乗用車やトラックが走っていた。
1970年にヨルダン内戦からベイルートに逃れたパレスチナ解放機構(PLO)を壊滅すべく、イスラエル軍が82年、この北部国境から侵攻して、レバノンを過酷な戦場に変えたのだった。
今回、国境は平和で、緑に輝いていた。温暖で果物が豊かに実るレバント(地中海東部の沿岸地域)、「乳と蜜が流れるパレスチナ」(聖書の言葉)なのに・・・と思った。(了)
(1) ゴラン高原のスキーリフト(写真右側にワイヤが見える)の終点から見下ろす。左後方にはイスラエル軍の基地がある。
(2) イスラエル北端の丘の入植地から、すぐ向こうの国境とレバノン側を見下ろす。
国境のフェンスの両側に道路があり、トラックや農業用車が時々走っていた。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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