ブタペスト通信

ピントが狂っている日本の政治・政治家

写真歴史的円安
日本円の下落が止まらない。今年2月18日現在のアメリカのBigMac価格(6.12ドル)を基準にしたBig Mac指数(イギリスThe Economist誌)によれば、日本の価格は3.10ドル(指数計算時の為替レート)で、アメリカの価格に比べてほぼ半額である(米ドルに比べて円は49%の過小評価)。ユーロ圏の平均価格は7.15ドルで、アメリカのそれを17%上回っている(米ドルに比べて17%の過大評価)。ユーロを基準に円を評価すると、円は対ユーロで57%過小評価されている。

Big Mac指数そのものは為替の実態を測るための一つの簡便指標に過ぎないが、日常の消費生活の実感にきわめて近い。つい最近、ブダペストのヴェトナム料理店で、フォー1杯と春巻き3個を頼んだら、日本にして4000円(現在の円/フォリント為替レートで計算)だった。日本では800~1000円程度のものだ。もっとも、ハンガリーの消費税は27%で、それにサーヴィス料が加算されているから高くなるのだが、それを差し引いても日本の2倍以上であることは間違いない。欧州に旅行したほとんどの人は商品・サーヴィス価格が日本の2倍以上していることを実感しているから、Big Mac指数は体感的な為替評価を映している。

歴史的円安を前にしながら、日本政府も日銀も為す術をもたない。島国日本の中だけで生きていれば、それほど円安を身に染みて感じることはないだろう。確かにドル債券・債権の為替差益は増えるだろうが、民間と違って、政府は債券売買を頻繁に行わないから、政府会計の評価益は帳簿上の話である。それを円安容認の根拠にする政治家は何も分かっていない。

歴史的円安を歓迎して、欧米から日本へやってくる旅行客が増え、彼らは半額に割引された日本の商品・サーヴィスを享受している。逆に欧米に行く出張者(駐在員)や旅行者は日本と同じ(あるいはそれより劣る)商品・サーヴィスに、日本の2倍以上のお金を使っている。

また、円安は日本に居住する人々にも影響を与えている。欧米並みにホテル料金を引き上げても旅行者が来るので、日本の大都市のホテルは軒並み値上げしている。日本に住む人々は大幅に値上がりした料金を払うか、かなりランクを下げた宿を探すかの選択を余儀なくされている。これも円安の結果である。

日本の労働力が半分以下にダンピングされていることにたいし、国内政治だけに没頭する政党の危機感は乏しい。それに呼応して、政府は口先だけの為替介入でお茶を濁している。高市-植田会談で利上げの再考を求めた首相はアベノミクスの呪縛から逃れることができない。日本の経済社会はアベノミクスの負の遺産の陥穽に嵌って身動きできなくなっている。アベノミクスの批判的総括がなければ、日本の経済社会の方向性を見極めることはできない。アベノミクス2.0vの政策を掲げている限り、日本の経済社会に未来はない。アベノミクスの批判的総括がない「国民会議」が有効な政策を打ち出すことなどできない。

消費税減税(廃止)をめぐる茶番劇
年収の2倍以上の借金を抱え、今なお借入金なしでは成り立たない家計でありながら、「過度な節約は活動意欲を削ぐ。もっと支出を増やして、将来の所得を増やすことが必要だ。所得増があれば、借金返済に使うのではなく、消費の拡大に使うべきだ。そうすれば、もっと所得が増えて、借金をまとめて返すことができる」と、アベノ与太郎のように呪文を唱えているのが日本の政治だ。放蕩息子の言い分を真に受けてはますます道を誤る。膨大な借金を抱えている者が節約の姿勢を示さないでどうする。後世に禍根を残すだけでなく、国際的信用を失ってしまうだろう。「そのうち一発当てるから金を貸してくれ。一発当たれば借金の返済など簡単」ではない。アベノミクスが夢想していた「高度成長をもう一度」という淡い期待に溺れ、与党から野党まで、「消費が増えればGDPも増える」という間違った観念に憑りつかれている。労働人口が激減する今世紀の日本が、高度成長時代を迎えることはない。それを無視した政策が有効性をもつことはない。

日本社会にとって消費税減税が焦眉の課題であるはずがない。有権者の票の取り込みだけを考えているから、自民党から共産党に至るまで同じスローガンになる。消費税減税に反対の党が、消費税廃止の党の議席をはるかに上回ったことをみれば、ほとんどの政党が唱えている消費税減税を疑いの目で見ている国民がそれなりの数でいることを教えている。また、最近の世論調査(「毎日新聞」2月23日)によれば、「(財源の裏付けのない)減税をすべきでない」という意見が6割を占めている。「消費税減税を唱えれば国民が喜ぶだろう」という国民を見下した与野党の政党より、一般国民の方がはるかに日本の将来社会を憂いている。不定見な政策を掲げる政党が議席を失うのも当然である。

欧州のほとんどの国では社会保険料を納めている有資格者であれば、基本的に医療サーヴィスは無償である。ただし、その財源は天から降ってくるわけではない。国民は毎月の社会保険料のほか、20%を超える(ハンガリーは27%)の消費税を負担しなければならない。それでもなお欧州各国の医療財政は赤字状態だ。社会保険制度の維持には莫大な費用がかかる。それをどうやって負担していくのか、それを議論しないで消費税減税だけを叫ぶのは詐欺である。

消費税減税ではなく、いかにして財政状況を改善して社会保障制度を維持していくのかを議論しなければ、日本社会は持続可能ではない。しかし、増税を口にすると票が減るから、消費税を上げるなど言い出せない。借金している者が収入を減らしてどうする。数年間だけ減税して何の意味がある。再び税率を戻すときに、無駄な政争が起きるだけだ。社会保障費を削るのか、赤字国債が積み上げれば、日本の将来選択は狭められるだけでないか。

そもそも、GDPの2倍以上の累積債務を抱える日本に、どのような未来が待っているのか。それを議論することが先決ではないか。債務を積み上げてきた責任政党が率先してこの問題を議論しないから、国民は債務が増えても大丈夫なのではないかと考えている。それに乗じて、野党もポピュリスト政策を掲げて、票の獲得ばかりに目を奪われている。与党も野党も無責任極まりない。公的債務を積み上げて大丈夫なはずがない。借金の付けは倍返しで国民にはね返ってくる。

労働人口が減り、税収が減っていく時代を迎えているのに、さらに借金をしても大丈夫だと主張するのは無責任だ。そういう無責任な言動を放置しているから公的債務は積み上がるばかりだ。いったい誰の責任でこのような状況に陥ったのか、償還不能な累積国債はどのようにして処理されるのか、税収を減らして如何にして社会保険サーヴィスを維持するのか。この深刻な問題の議論を回避し、当座の消費税減税だけを唱える政党は、近視眼の亡国政党である。

日本は人口激減時代の入り口に立っている。将来的に税収が減るにもかかわらず、社会保険の負担は膨張していく。それほど遠くない時期にやっている大規模な人口減少は産業構造の転換を余儀なくさせ、地方自治体の基本的インフラの維持管理をますます難しくする。日本だけでなく、先進経済諸国はこれまで人類の文明社会が経験しなかったような経済社会の縮小時代を迎える。

日本には、GDP集計値という抽象的な交換価値だけを議論をし、「人口が半分に減っても生産性を倍にすればGDPは減らない」と唱えるエコノミストがいる。これは経済分析ではなく、ただの算術にすぎない。算術計算で人口激減の経済社会を構想できると考えるエコノミストは、一知半解の似非エコノミストだ。GDP概念を知らずに、GDP集計値があたかも国民経済の本質を語っているかのように考える。このような算術計算経済学に嵌っていては縮小時代の経済社会の構築への準備ができない。

もはやGDPの成長を語る時代は終わった。縮小の時代にはGDPも縮小する。文明社会が初めて体験する成長から縮小への転換の時代が始まる。その認識から出発することが肝要だ。

「成長の経済学」から「縮小の経済学」への転換

これまで経済学は「成長の経済学」だったが、これからは「縮小の経済学」の時代になる。縮小する経済社会の課題は抽象的な交換価値(集計値)であるGDPの縮小問題ではない。GDPは付加価値を単位にした集計指標として使用されているが、正確に定義すればGross Domestic Product (国内総生産)という生産概念である。

付加価値生産の集計値であるGDPは、具体的な商品やサーヴィスの膨大な生産活動総体を交換価値面から捉えたものである。交換価値の源は使用価値の生産(実物経済)である。したがって、商品生産と同様に、集計されたGDPもまた、交換価値と使用価値という二つの側面をもっている。

集計値としてのGDPはマクロ経済勘定体系(System of National AccountsあるいはMacroeconomic Accountsと呼称される)の一つの数値に過ぎない。現在のマクロ経済統計は国民勘定体系として構成されており、GDPはGDE(Gross Domestic Expenditure)の対概念として統計表示される。

国内総生産額は国内生産を付加価値の集計(交換価値)として捉えたもので、国内総支出は実物的な商品・サーヴィスの生産を支出面(使用価値)で捉えたものである。支出面からGDPを捉えるのは、異質の商品・サーヴィス生産の使用価値そのものを集計できないから、支出を把握することで使用価値力GDPを代替している。

このように、GDP統計はたんなる一つの集計価値ではない。GDP(集計)値は、GDPの使用価値的側面を捨象して、GDPの交換価値(付加価値)側面だけに焦点を当てたものである。もともとマクロ経済統計の出発点になった国民所得という概念は、国連の分担金の割合を決めるために、国際比較可能な数値を求めて考案されたものだ。つまり、日常的に使用されているGDP値は異種の商品・サーヴィス生産を単一価値指標(ノルム)に転換したものであり、GDP統計の一つの便宜的な統計値なのである。それを唯一無二の絶対的な指標と考えてはならない。

他方、実物経済の実態に迫るためには、集計値の背後にある具体的な商品・サーヴィスの実在(実物経済)を捉える必要がある。それは支出面からアプローチした国内総支出(統計)概念によって近似されるが、さらにそれぞれの商品・サーヴィスの内容(構造)を分析しなければ国民経済の実態像を理解することはできない。だから、GDP集計値(交換価値)を掛けたり割ったりするだけの算術計算で実物経済を理解することはできない。

国民経済が金融業だけで成り立っているなら交換価値だけを議論することで済むが、日常の生活を支えているのは各種の商品・サーヴィス生産活動である。だから、それぞれの商品・サーヴィスを生み出す構造やその変化を議論しないと、国民経済の全体像を描くことができない。GDP集計値の大きさだけを問題にする議論は、この生産活動の基本認識を欠く。GDP集計値で国民経済の概要が理解できると考えるのは、GDPがどのような概念で構成されているかを知らない、たんなる思い込みである。それを絶対的な指標であるかのように考えるのは、GDP信仰(崇拝)である。

経済社会の余剰価値(交換価値)が膨大に膨れ上がり、それを扱う金融業が発展したために、「市場」と言えば「金融市場」を指し、金融市場の観察を集計的な実物経済に適用すれば経済を理解できると考えるようになった。しかし、実在するのは具体的な労働の結晶として存在する商品・サーヴィス生産である。抽象的にノルム化された数値を比較するだけでは、具体的な経済社会生活を知ることができない。だから、金融市場から実物市場を類推する思考は間違いを惹き起こす。GDP概念の背後にある実在として生産(活動)の個別の考察なしに、経済社会の真の姿を捉えることができない。この視点はマルクスの商品生産の分析を国内総生産に適用するものだが、『資本論』を経典化し、「資本論を読めば世界が分かる」と主張する硬直した宗派とはまったく異なるアプローチである。

いかにして社会経済構造の効率的縮小転換を図るか、それが労働力の激減に見舞われる21世紀先進諸国の最大の課題になる。この分析にはGDPの使用価値側面の分析が不可欠である。抽象的交換価値の議論から、生産すべき商品・サーヴィスの使用価値(生産構造)の議論への転換が必要だ。これこそが将来社会構築の核心的課題である。そこでは、エセンシャルワーク(産業、サーヴィス)の議論が重要になる。縮小する経済社会を維持するために、商品・サーヴィス(産業や公的なインフラ管理)生産に優先順位を付けることが必要になる。これも、マルクスの生産的労働論の創造的展開の一つである(拙著『幻想と現実』https://www.morita-from-hungary.com/j-02/02-02.html#gsc.tab=0, 176-184頁を参照されたい)。

この課題に比べれば、消費税減税の方法を議論することなど、ほとんど意味のないものだ。長期の難しい課題の議論を避け、当座の集票を競う日本の政治に未来はない。消費税減税競争は日本の政治家・政治の劣化を象徴している。【ブタペスト通信2026年No. 7(2月24日)から】

初出:「リベラル21」2026.03.06より許可を得て転送
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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