フランシスコ・ローマ教皇の訪日について思う

著者: 岡本磐男 おかもといわお : 東洋大学名誉教授
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 以前から、今年の11月23日には、バチカンのローマ・カトリック教皇が訪日され、同月24日には長崎、広島において核兵器廃絶について演説されることが決まっていた。
 日本では11月初旬から新天皇が即位の祝賀会において世界の平和について祈っておられその祈りは印象的であった。それは日本の平和憲法に基づくものとの言及もあったためである。だが、当然のことながら核廃絶については何らの言及はなかった。それはいうまでもなく象徴天皇制のもとでは、天皇には政治的発言は許されておらず、もし核問題について言及すればそれは政治的発言とみなされ象徴天皇制から逸脱したものとして非難を受けるためである。
 それでは、近年の世界の核兵器状況についてはどんなことがいえるかといえば、例えば東京大学の国際政治学者、藤原帰一氏が本年9月18日発刊の『朝日新聞』に書いているように、米ソ冷戦終結後、米国、ロシア、中国の核戦力は削減されるどころか、むしろ増強されており、かつてオバマ大統領がプラハ演説において、核兵器のない未来について語った流れはいまや逆転して、これら3国の軍事的緊張が高まるなかで、核兵器への依存が復活しようとしているという。そして「核戦争は決して遠い将来の危険ではない。日本政府は、緊急の政治課題として核軍縮を実現しなければ現在の平和が失われるという緊張感のなかで核兵器の削減に努めなければならない。」と結論する。また氏は最近の日曜朝のNHK討論会においても「戦争の可能性」について発言していた。
 こうした世界の厳しい情勢については、私も皮膚感覚で感じている。とくに私のような戦争体験者からみれば、現代の戦争を知らない日本の政治家達の戦争に関する発言等は危うい感じがして聞いていられない。現在の安倍政権の人達は、単に米国の核の傘に依存していれば安全だとして、何ら主体性のある政策をとっていないのではないか。
 私が常日頃不思議に思っていることは、今日の肥大化した軍事技術のもとでも核兵器は突出した武器であり、一発の核爆弾の投下で100万人の死傷者が出るといわれながら、その投下を命令する者は本当に納得しているのだろうかということである。自分が命令することによって100万人が死ぬというその絶対的権能は誰によって与えられているのだろうか。それは例えば神のような絶対者でなければ、与えうるものではないのではないか。そう考えれば核保有国の
誰しも命令者にはなりたくないと思うであろう。さらに核保有国の政治家達は、このような非人道的な、非倫理的な核爆弾を単に所有しているだけで、非核保有国の人々に対して脅威を与えているということをどう思っているか、である。この脅威に対して核保有国の政治家達が非核保有国の人々に何らも矣償もしないということは理不尽だということを訴えたい。
 これまで核兵器廃絶への取組みに熱心であったといわれるローマ教皇の、11月24日における長崎、広島でのメッセージはどのようなものであったか、というとそれは、全くこれまで、いかなる国の政治家や識者が発信したスピーチよりも感動的なすばらしい言説であった。25日の『朝日新聞』ではこれを要約して掲載しているので、これをも援用しよう。その第1面では「核の威嚇や抑止力に頼って平和の提案ができるのか」と指摘している。今日平和の問題を論ずるさいには、核兵器問題と結びつけて論ぜねばならないのにこれを切り離して論ずることは自己矛盾に陥っていると指摘し、米国の核の傘に依存する日本を暗に批判している。これは全くその通りであると思う。さらに軍拡競争を行い核兵器開発を行う等ということは、一種のテロ行為であり、また核兵器の使用は、犯罪的であるといえると指摘している(後半は別の個所での指摘)。この点も全く賛同したい。この第1面では新聞記者によって「フランシスコ教皇が出したメッセージのポイント」がまとめられているので、これを引用しておきたい。
 「相互不信が対話を阻み、世界は分裂の中にある=長崎。軍備拡張競争は貴重な資源の無駄遣いだ=長崎。核兵器は、安全保障への脅威から私たちを守ってくれるものではない=長崎。核兵器の使用も所有も倫理に反する=広島。世界は相互に結ばれており、共通の未来のために、それぞれが排他的利益を後回しにすることが求められている=広島」というものである。
 翌25日には、教皇は広島から東京に移り、早朝から東日本大震災による大勢の被災者達と面談した。
 その後には、皇居に赴き天皇陛下に面会された。天皇は大層お喜びになられたと思う。それは天皇自らが最も気にかけておられる核廃絶の問題について、教皇が自らに代わって大衆に語りかけて下さったからである。当然に大きな感謝の気持ちを抱かれたに違いない。それに加え近年の天皇家はキリスト教と浅からざる因縁がある。平成天皇であった上皇は、学習院の初等科から中等科の時代にかけて米国のヴァイニング夫人の薫陶を受けられたが、同夫人は米国の著名なキリスト教指導者であった。また上皇后は、カトリック系の大学といわれる聖心女子大学の卒業生である。さらに最近の皇族の中には、伝統的に皇族が入学されるものと目されていた学習院の大学には入学せずキリスト教関係の大学に入学する人もでてきたからである。
 午後には、ローマ教皇によるミサが文京区の東京ドームで行われたが、50,000人の大衆の参加によって会場は熱気に包まれたという。これは、単に多くの人々が、庶民的で気さくな、そして人間味があることで人気の高い教皇の姿を一目見たいということ許りでなく、核を含む軍拡の情況が世界にもたらされており、大衆の危機意識がそれなりに高まっているためでもあろう。
 ついでローマ教皇は、同日夕方には安倍内閣総理大臣とも面会した。安倍総理は表面的には核廃絶に賛同するような教皇の立場を支持する如き歓迎的姿勢を示しながら、実際には、核保有国と非核保有国との間に立ってその間の橋わたしをすることが重要であるとするユニークな立場に立つことを示した。だが、この見解は米国の立場に遠慮した中途半端な立場であると云わざるをえない。唯一の被爆国といわれながらも、日本が2年前に国連が提案した核兵器禁止条約の提案に対して、署名も批准もしていないことは、きわめておかしい。安倍総理は数年前からローマ教皇の訪日には賛同した、といわれるが、実際は今回の訪日にうしろめたい思いを抱いたのではなかろうか。それに核保有国と非核保有国の間にたって橋わたしをする等といっても、そうした事業が進捗しているとは全く思われない。実際には何もしてないのではないか。
 今回のローマ教皇の訪日は、若き日に宗教の偉大さに感動した私自身を想起こさせていただいた。今日、世の中を真に改革できるのは、政治家や官僚ではなく、宗教家なのではなかろうかとの思いを深くした。とくにローマ教皇は、13億人のカトリック信者を率いる、信者の頂点にたつお方である。教皇のスピーチの影響力が絶大であることはいうまでもない。今回の訪日によって核廃絶への前進が単に日本においてのみならず。世界においても達成されねばならぬ。26日にバチカンの政府専用機で帰国の途についた教皇のうしろ姿をテレビでみて、このことを祈らねばならぬと深く思った次第である。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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