フランスではムスリムは差別されている

――八ヶ岳山麓から(131)――

1月7日フランスで悲惨な事件が起きた。週刊新聞「シャルリー・エブド」のパリ事務所で、フランス国籍ムスリムが風刺漫画作者と編集者らを銃撃した。これに関連する死者多数。テロリストは9日射殺された。
これによりフランスではモスクへの報復襲撃が頻発するなど反ムスリムの感情が昂揚している。ドイツでも、今回の事件で一般民衆の間にムスリムへの排外主義が広がるだろう。反イスラムの極右勢力が勢いづき、移民規制を訴えて伸長することは間違いない。以前から反ムスリム・デモはしばしば起こった。いまではそれを扇動し、フランス的ドイツ的価値を強調する極右政党が欧州議会で一定の地位を占めるにいたった。

事件に際し、各国政府はイスラム教徒全般への憎悪が高まらないよう苦慮し、オランド仏大統領は今回のテロとイスラム信仰とはまったく別だとして、国民に理解を求めている。だがそんなバカなことはない。テロリストは「アッラーは偉大なり」「予言者(ムハンマド)の復讐をした」と叫んだ。イスラム信仰そのものではないか。
さらに欧米首脳は今回のテロを言論の自由への侵害だと発言している。どうかしている。言論の自由とは次元の異なる問題である。「シャルリー・エブド」の漫画の内容検討ぬきに、事件を見極めることはできない。私はこれからもこの種のテロは起きると思う。フランスなどヨーロッパ諸国の自国国籍ムスリムにたいする考え方と政策がまちがっているからである。

フランスには600万ムスリムが生活している。このムスリムは父祖の時代から今までフランスの旧植民地から移住したものだ。在日韓国人朝鮮人のおかれた状況に似ている。フランスでもドイツでもムスリム移民とその子供たちは就職を差別されて貧困状態に置かれ、日常的に嫌われ排斥されている。しかもかなり前から反ムスリム・デモがしばしば起こり、いまや狭隘な民族主義を強調し、移民を排斥する極右政党は欧州議会で一定の地位を占めるにいたった。
フランスでは20世紀初頭以来、国家とカソリック教会とを分離することが厳しいたてまえとなった。いわゆる「世俗主義」である。行政・司法・立法の公的領域に宗教が介入することは禁じられている。またその逆も許されない。学校で宗教教育をするなどもってのほかである。ただ例外はある。フランス東部のストラスブールへ行ったとき、大学に神学部があると聞いて意外な感じを受けたが、あとでドイツとの国境地帯のアルザス・ロレーヌ地方は別あつかいであることがわかった。
フランスは「世俗主義」のたてまえをムスリムにも適用し、2004年から法律によって、官公庁、公立学校、公立病院など公的領域でのイスラム信仰を表わすスカーフやヴェールの着用を禁止した。この法律立案にあたった委員会の答申には、公立病院で患者が性別によって医師を選んではならないとある。ムスリム女性が男性医師を嫌がることを念頭に置いての見解だそうだ(内藤正典『ヨーロッパとイスラーム』岩波新書)。ムスリムを見下した、性的嫌がらせ以外のなにものでもない。
さらに2011年4月からはブルカとニカブも禁止した(ところが首に吊るす十字架は小さな目立たないものならば許される)。ベルギーでも同じころブルカとニカブを禁止し、着用する女性は罰金を課されることになった。オランダでも同じころ同様の法が閣議決定されている。
ブルカは頭からかぶって裾までを覆う袋状の女性用外出着である。顔の部分だけ網状になっており、外を見ることができる。地方によって違いがあるが、顔だけ露出すものはニカブと呼ばれる。私は1970年代に初めて旧ソ連共産党支配下のウズベキスタンでブルカ姿を見た。無神論のソ連共産党もブルカを禁止してはいなかったのである。

イスラム的規範では、女は頭髪など男を惑わせるような美しいところを人目にさらしてはならないとされる。外出のときブルカを被るのは体を隠すためである。頭髪だけを隠すスカーフはブルカとニカブの延長上にある。戒律の内容と厳しさはイスラムの宗派や地方によって異なるが、中国青海省の民族高等師範専科学校での私の経験では、回族(漢人系ムスリム)の学生はスカーフを被ることは当然で、そうでなければ体の一部を露出することになり恥ずかしいと感じていた。日本留学中の回族女性は、「スカーフはたしかにムスリムの象徴ですが、民族服でもあります」と語っている。西ヨーロッパではブルカなどを女性抑圧の象徴と見なして、これを脱ぐことが「解放」とされるが、ムスリムの女性がいやいやブルカやスカーフを身につけているのではない。

ここで思い出すのは中国新疆(東トルキスタン)の現状だ。ここでもフランスやベルギーオランダと同じような措置がとられている。
新疆当局は、首までを覆って眼だけ出すベール、頭髪から首までを隠すが顔全体は出すリチェク、頭から足首まですっぽり覆って眼だけ出す衣服ジリバプすなわちブルカあるいはニカブ、ムスリムの象徴「星と月」の模様のついたシャツ、男の頬ひげ・あごひげを禁止している。近頃では未成年の信仰を禁止する命令を出した。
女性のムスリム衣服を禁止するのは、フランスと同じように強制的な戒律破りであり、性的嫌がらせである。新疆のタリム盆地で警察官が女子中学生のベールをはずさせようとして暴動が起きたことがあるが、あたりまえである。中国での禁止事項は、新疆のチュルク系民族に対する同化政策の一環であるが、ムスリムにとっては西欧諸国のやり方も同じ宗教上の嫌がらせ、正確には宗教弾圧であること間違いない。中国政府が新疆で少数民族の人権を蹂躙しているというなら、フランスでも同じことをやっているといわねばならぬ。

イスラム教経典では、内なる信仰だけでなく、外での行動規範が定められている。神を信じるだけでは済まない。信者となればやらねばならぬ信仰の実践項目がある。内藤正典によれば「行為の規範は、絶対にすべきこと、したほうがよいこと、してもしなくてもよいこと、しないほうがよいこと、ぜったいにしてはならないことに分類される。行動規範は、礼拝の仕方から、食事、性生活、結婚、離婚、遺産の相続、商取引、社会の在り方にまでおよんでいる(前掲書)」
ムスリムが宗教上のシンボルをつけ、ムスリムであることを表わす行為は、西ヨーロッパでは公的領域への宗教の侵入と受止める。だがムスリムは異なる。ある回族の友人は仏教徒であるという私に誇らしげに語った。
「僕が白い帽子をかぶっているのは、ムスリムとして清潔であることと、信仰の純粋さを表わすものである」

テレビの映像で見る限り、今回の「シャルリー・エブド」の漫画はイスラム極端主義への諷刺の程度も低くガラの悪いもので、イスラム教に対する侮辱である。「さあ、テロをやれるものならやってみろ」というたぐいで、普通は「挑発」と呼ぶべきものである。
たとえば日本における天皇崇拝は、人によっては宗教といえる程度のものがある。今回の「シャルリー・エブド」の漫画のように、今上や今上崇拝を侮辱すれば、日本でもやはり平静ではいられない人が生まれるだろう。日常的に差別と抑圧を感じているムスリムがフランスに数百万いて、予言者ムハンマドに対する侮辱がこのような漫画で繰返されたら、ムスリム全体に激しい憎悪の感情が生まれるのは必然である。テロの遠因はここにある。
西欧のムスリムのあるものはアルカイーダやタリバン、ムスリム国など極端派との結びつきがあるかもしれない。だがムスリムの置かれた状況からすれば、外部との連携なしに、普通の市民として生きるムスリムの中からテロに走るものが生まれるのは必然だ。今回のテロも彼らがやらなかったら別なムスリムがやっただろう。西欧諸国は今回のテロを機に、もっと寛容なものにムスリム政策を変えるべきである。日本政府はいたずらに欧米諸国に追随してはならぬ。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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