--八ヶ岳山麓から(522)--
この4月30日、信濃毎日新聞は7面のほとんどを使って、「ベトナム戦争終結50年」の記念記事を掲載した。また大阪万博のベトナム館は、この日を期して開館した。1975年4月30日、サイゴン(現ホーチミン市)が北ベトナムと南べトナム解放民族戦線(アメリカ筋の言い方はベトコン)の手に落ち、南ベトナム政府が全面降伏したからである。
第二次大戦終結後もベトナムを植民地としていたフランスは、1954年5月根拠地ディエンビエンフーが陥落して撤退し、54年7月にベトナムは、北緯17度線を境に北はホーチミン(漢語では胡志明あるいは阮愛国)を指導者とするベトナム労働党が支配し、南はフランスに代わったアメリカの傀儡政権が支配する分裂国家の形で独立した。
その後、南ベトナムでは農村を根拠地とした反政府ゲリラが活動していたが、ホーチミンが1966年「独立と自由ほど尊いものはない」とベトナム人民にアメリカとの戦争を呼びかけてからベトナムは本格的な戦場になった。
日本でベトナム戦争が広く注目されるようになったのは、65年1月からの毎日新聞の「泥と炎のインドシナ」という連載からだったと思う。のちにラオス・カンボジアなどインドシナ全体に戦火が拡大し、それと前後して多くのジャーナリストが戦場に入り、なかには写真やルポで名を成すものが出た。高校時代からの友人でカメラマンの柳沢武司君は、1970年5月カンボジアのシハヌーク国王政権に対するロンノル将軍のクーデタ直後のカンボジアを取材中、「クメール・ルージュ」に捕らわれ虐殺された。
ベトナムがアメリカに勝利したとき、わたしは北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線が南のとどのように折り合うのか強い関心を持ち、南ベトナム人による民主政府が成立するのを期待した。しかし、そうはならなかった。簡単に言えば北は南を占領したのであった。
サイゴン陥落後、北ベトナムの支配を逃れようとする人々がシャム(タイランド)湾に小型船舶で漂流し、かなりのものが遭難したりタイの海賊に襲われたりした。難民の多くは旧南ベトナム政府・軍関係者とその家族、金持、華僑だといわれる。南を占領した北ベトナム政府はボートピープルを積極的に止めようとはしなかった。ボートピープルに中国人が多かったのは、中国とベトナムの対立でベトナム政府が華僑を排除する政策をとったためである。日本にも一時は年間1000人超が到着し、政府は2005年末まで8600人余りのベトナム人に定住許可を出した。
1979年には2月17日から3月16日まで中越戦争があった。カンボジアのクメール・ルージュによるベトナム人の虐殺に対して、ベトナムが78年にカンボジアに侵攻し、中国の援助に頼っていたクメール・ルージュ政権を崩壊させた。これを中国が「懲罰」するとして国境3ヶ所から侵攻したという戦争である。 かねてからわたしは社会主義への疑問を抱いていたが、この戦争によってそれは決定的になった。
今日のベトナムについて、1970年代からのベトナム研究者古田元夫氏(ベトナムの日越大学学長)は、「ベトナム国内では戦争がもたらした分断が根深い。(ボートピープル問題もあって)南北のわだかまりは典型的だ。……これまで最高指導者である共産党書記長に南出身者はおらず、最高指導部の政治局員も北部出身者が多い。かつての南ベトナム政府関係者への差別も残る」という(信毎2025・05・01)。
4月27日の日本共産党機関紙「赤旗」は、志位和夫議長のベトナム通信社インタビュー記事を載せた。志位氏は、まず1975年のベトナム勝利と今日の自主独立・全方位外交を称賛したうえで、「国内」について次のように語った。
「国内的には、ドイモイ(刷新)の路線を、1980年代から進めてきた。市場経済を通じて社会主義に進むという路線というのは、合理的で道理のある路線の選択だったと、私たちは思います。この路線のもと、たとえば貧困なども、大きく削減されていく。経済の成長も勝ち取られていく。全体として人民の暮らしが良くなっていく。このプロセスが進み、ベトナムの国際社会における地位も大きく向上したということがいえると思います」
そして、いかに社会主義志向を堅持していくかということは難しい問題もあろうが、ぜひ、ドイモイの路線を堅持し発展させて、さまざまな困難や問題を乗り越え成功させてほしいと強く願う、と発言している。ベトナム礼賛である。
共産党は2014年の綱領では、中国、ベトナム、キューバなどを「社会主義をめざす新しい探求が開始」された国家とした。その理由は、「それぞれの国の指導勢力が社会主義の事業に対して真剣さ、誠実さを持っている」からとした。にもかかわらず20年には
「新しい大国主義・覇権主義の誤り」があるとして、これを取消したのである。
ではベトナムに「新しい大国主義・覇権主義の誤り」があったのか。「あった」とすれば、志位氏のように「(ドイモイの路線を堅持し発展させて)市場経済を通じて社会主義に進む」と褒めたたえるわけにはゆかない。「なかった」とすれば、ベトナムは「合理的で道理のある路線」をとったことになり、2014年の評価は正しく、20年にこれを取消したのは間違いということになる。志位氏の発言からすれば、ベトナムは、依然「社会主義をめざす」国家である。これでは20年の綱領改定の趣旨と矛盾するが、志位氏はこれを承知で発言したのか。まったく不可解である。
ジョン・アクトンの「権力は腐敗する傾向を持ち、絶対的な権力は絶対的に腐敗する」を引くまでもない。かつての社会主義国は冷戦終結後、一党専制の国家資本主義国として存在してきた。その長期政権は腐敗を生んだ。ベトナムも例外ではない。
南北統一後、数年を経ずして腐敗による政府高官の失脚が伝えられた。つい去年の8月3日にも、ベトナム共産党は最高指導者の書記長にトー・ラム国家主席を選んだと発表した。ベトナムは党書記長、国家主席、首相、国会議長の「四柱」による集団指導体制だが、23年以降に国家主席や国会議長が続けざまに任期途中で解任された。今年5月ラム氏の国家主席就任も、前任者の解任に伴う臨時的措置だったという。詳細はわからないが原因は腐敗である。
中国では政権を支配する上層部(あるいはその親族)のほとんどが金権に関係している。2012年、習近平主席が「虎も蠅も叩く」と宣言してから今日まで、軍の最高指揮官クラスが汚職の疑いをかけられて15人も自殺している。
わたしには南北統一後、急に腐敗が生まれたとは思えない。ベトナム戦争のさなかからなんらかの現象はあったはずである。ベトナム報道に活躍したジャーナリストたちに、当時から腐敗現象はあったのか否か、あったとすればなぜそれを報道しなかったかぜひ語ってもらいたい。
1960年の日米安保条約反対闘争の後、ベトナム戦争反対運動に参加しジョーン・バエズの歌声とともにアメリカの反戦運動に共感したものとしては、ベトナムの対米戦争勝利を歴史的なものとすることはできても、その後を手放しでは称賛できない。何のために300万もの犠牲者の血で祖国の大地を染めたのか。
(2025・05・04)
初出:「リベラル21」2025.5.08より許可を得て転載
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-6749.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14207:250508〕