マ・ティーダの獄中記「良心の囚人*―インセイン刑務所を通じての私の歩み」を読んで (2)

<総選挙勝利と投獄>
 1990年5月に実施された総選挙でNLDは圧勝しましたが(392/485議席)、軍事評議会SLORCは前言を翻して政権移譲を拒否、民主化勢力は徹底的に弾圧されて冬の時代に入ります。スーチー女史、ティンウー氏、ウィンティン氏ら主要幹部がすべて囚われ組織的抗議行動は終息します。このあとマ・ティーダは軍情報部にマークされながらも、文学雑誌編集の仕事とムスリム系施療院での無報酬での医療活動に数年間に携わります。そしてついに1993年8月、不法な文学雑誌を執筆、編集発行した容疑で逮捕されてテインセイン刑務所に移送され、10月には20年の禁固刑判決をうけます。1999年2月10日に釈放されるまでの5年6ヶ月と6日間、マ・ティーダはインセイン刑務所の女性政治犯として試練のときを過ごすことになります。20年刑期が短縮されたのは、国連やアムネスティ・インターナショナルなど国際的人権団体などの圧力が大きかったからといわれています。
 インセイン刑務所はイギリス支配の時代に造られたもので、独立運動に関わった多くの人士が囚われ命を奪われた血塗られたところであり、人民の怨嗟と憤怒の的になったところのです。監獄は一国の人権状況を凝縮して表すといわれていますが、インセイン刑務所を独立後もそのまま使用したことは、民政期・軍政期を通じて一貫してこの国が人権に必要な配慮を払ってこなかったことを端的に物語っています。
 マ・ティーダによれば、インセイン刑務所は男性政治犯に比べ女性政治犯にはより苛酷な環境であったといいます。男性政治犯は人数も多いので獄内で情報交換や議論ができ、隠れ図書室もあって読書会も催され、ブルティン(小新聞)も発行され、そればかりかラジオを持ち込んで短波放送(BBC,VOA)も聞くことさえできたのに、女子房ではそれら一切が不可能であったそうです。宗教本だけは多少許されることはあっても、外の世界の様子を知る手掛かりになる雑誌類はいっさい禁止されていました。それでも家族との接見の際ひそかに手に入れて信頼できる者同士で回し読みしたといいます。しかし突然の私物チェックがあって所蔵は危険なので、雑誌は読み終えたら紙を水に浸してグズグズにして獄舎の隙間に捨てたそうです(ミャンマーで雑誌類は竹パルプを原料にした紙なので粗悪ですぐ分解できます)。
 驚くのは、房内には水洗器もトイレもないことです。3畳あまりの狭い房内には壺が4つ置かれていて、ひとつは飲み水用、ひとつは生活用水用、もうひとつは生活排水用、そして最後にトイレ用という具合です。自分の用を足した壺からの悪臭対策として、マ・ティーダは看守と猛烈な闘いをしてプラスチックの蓋をようやく手に入れます。不衛生な上に、女性にとっては耐え難い屈辱でしょう。おそらく生理用品などは家族からの差し入れがなければ、自分で工夫して何とかするしかないのです。
 トイレ問題のもつ重大な意味―人道に対する罪について。シベリアに抑留された日本兵捕虜はラーゲリ(強制労働キャンプ)に護送されるとき、すし詰めの貨車には便器用の樽がひとつあるだけで運行中24時間それで我慢させられました。当然貨車の床はあふれ出た糞尿で汚れ、みなは全身糞尿まみれになります。そうなると人間は屈辱と絶望で自暴自棄になり、早々と人間性を失っていくそうです(石原吉郎全集3)。つまり限度を超す不衛生は、人間から文明社会人としての誇りや規律を脱落させて、動物的な水準に貶(おとし)めるというのです。その伝でいくと、ヤンゴンのダウンタウンの路地裏にたまった何十年か分のゴミの山は、軍政50年に対する人々の絶望と恨みの表現だといえるでしょう。要するに、抑圧社会やその凝縮的表現としての監獄制度はみな、罪びとを良心に目覚めさせるような更生的配慮はゼロで、それどころか苛酷な懲罰や非人間的待遇によって人間の抵抗する意志を挫(くじ)き、堕落させて卑屈さを徹底的に叩き込み、人非人に貶(おとし)めるのです。
 マ・ティーダの観察によると、監獄内には不文律があって、刑務所長―看守長―看守―囚人頭―囚人という優勝劣敗の関係が絶対的に支配しており、それに対して反抗を企てることはできない仕組みになっているといいます。まさにこれは軍部独裁下のミャンマー国における人間関係の縮図です。日本の政治学者丸山眞男が、戦前の日本社会を特徴づけるものとした「抑圧の移譲」体系―順次上から受ける圧迫を自分より劣る下の者に転化し、最後に国内で一番下に位置する者は劣等視された中国人、朝鮮人という外国人に転化するタテ関係社会―が、インセイン刑務所でもみられたというわけです。(日本社会の今日の「いじめ」、ハラスメントは、「抑圧の移譲」社会の復活とみるべきです)
 マ・ティーダは幸いなことに軍部独裁と闘う女性作家として国際的にも注目され、1994年2月には米上院議員と国連職員がインセインを訪れ面会、彼女は立ち会った軍人にかまわずありのままの状況を伝えます(そのため報復として図書の差し入れが禁止されます)。このことは国内でも密かに報道され、スーチー女史とならびマ・ティーダは一躍時の人となります。その後国際人権団体や国際ペンクラブからも表彰を受け、それがのちのち待遇面での若干の改善につながることになります。

<次々襲いかかる病いとのたたかい、ヴィパッサナー瞑想の試み>
 生来丈夫でなかったマ・ティーダは、獄内で健康が著しく悪化します。まず結核に感染します。夕方からの微熱や発汗、背中の痛みなど結核の症状はひどくなるので、X線診断を要求しますが、所内の医師は神経性の病気だといってダラダラと長引かされて、両親との接見にも介添えがないと歩いていけない状態になってから、ようやくX線で結核という診断がなされます。誤診した医師は反省するどころか、自分の不注意で感染したのだから、自己責任で治療せよと治療薬を両親に差し入れするよう言い渡します。その上ようやく差し入れられ薬は医師自身が管理すると取り上げたので、マ・ティーダは猛然と抗議、必死の抵抗に所側はあきらめて彼女に返します。彼女はこの闘いを通じて、自分の行っていることは精神の自由を死守する闘いなのだと自覚します。獄中では万事がカネ(賄賂)次第、相手のハラスメントはワイロの要求だと分かっているので、マ・ティーダはどんなに苦しくとも堕落する行為を自分に許しませんでした。
 このころ同時に腹部の激痛に悩まされます。外にいるときに子宮内膜炎と診断されていたので、それが悪化しているのだと推察できました。今度もはげしい抗議行動で超音波診断を勝ち取り、結果は重度の子宮内膜炎で病巣は腸にまで拡大し癒着しているとの診断でした―彼女は出獄してから子宮や片側卵巣などの摘出手術を受けています。
 しかし抗結核薬も子宮内膜炎へのホルモン療法もともに肝臓に負担がかかるので、調整しつつ治療に励むことになります。このころから国際的に注目されているためか、軍政もマ・ティーダの健康状態を管理するようになりました。彼女は自分の要求を通そうと頑なに抵抗するので、所側は扱いにくいトラブル・メーカーとみなすようになったそうです。
マ・ティーダは入獄してしばらくしてから、ヴィパッサナー瞑想(上座部仏教の瞑想法)に取り組み始めていました。はじめ拘禁による自由剥奪や結核の苦しみ、子宮内膜炎の激痛から遁れるためのものでしたが、1995年、結核も快方に向かい始めた頃本格的なヴィパッサナー瞑想に専念することを決心します。
 蛇足ですが、ひとつのエピソードを紹介しておきます。マ・ティーダは外科手術の手技を忘れないために、イメージ・トレーニングや野菜を使ってカットの練習を積み重ねたといいます。その努力とさらに瞑想の賜物でしょう、驚いたことに6年以上のブランクがありながら、外科手術のメスを再び執ると以前より腕前が向上していることに気付いたといいます。緊張する場面でも精神が安定して集中力が発揮できるようになったせいだと自己分析しています。

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