<ヴィパッサナー瞑想による解脱をめざして>
正直私は上座部仏教の信者でもありませんし、瞑想の何たるかも実際感覚としてよく分かりません。したがってマ・ティーダの瞑想法実践の適否も判断できません。ただ結果からみて、仏法への絶対的帰依が彼女に非凡な精神力を与え、苛酷な獄中生活をのり越えさせた事実は否定できません(スーチー女史やティンウー議長も自宅軟禁や獄中にあっては、瞑想を実践したそうです)。したがって私は上座部仏教=ヴィパッサナー瞑想が、個人のレベルを超えていったいミャンマーの民主化運動にとってプラスの意義をもつのかもたないのか、もつとすればどのような意味でそうなのかを、ひとつの試論として以下考えてみたいと思います。ただ議論が多少煩雑になることをおゆるし下さい。
瞑想によって集中力を高め自我を滅却する過程は、宗教的修行であると同時に道徳的自己改造の試みのようにみえます。自我への執着心を捨てることによって、固定観念、欲望、自己抑圧から解放されて無我(anatta)の状態になり、自由に自足する状態なるといいます。雑念が消え去ることによって、過去や未来への思い煩い(苦 dukka)がなくなり、現在のこの一瞬に集中して生きられるといいます。すべては流転しあらゆる出来事や行為,状態は一瞬のことでしかないので(無常anissa)、苦悩も苦悩として固着することはなくなるのです。獄中にいることも煩いでなくなり、世に出て成功したいという欲望も消えて、心身がすべての拘束から解放されるのです。また心が空の状態になるので、他者を受け入れやすくなり寛容になるともいいます。西欧哲学風に言い換えれば、おのれの相対性有限性を自覚することによって、自ずと謙虚になり他人に心開くのです。
これだけの修行の限りでも、マ・ティーダは診察した医師にすらどうして激痛に耐えられるのか不思議だと言わしめたほど、悪化した子宮内膜炎からくる腹痛に獄中で耐え抜いたのです。一種心身の離脱状態に自分を置くのでなければ、不可能ではないかと思います。
しかし精神力や胆力は鍛えられたとしても、これだけでは道徳的自己改造には十分ではないと考えたのでしょう。道徳というからには、生き方の態度を導く戒律なり法があって、それに従って自己を自力で導いていかなければなりません。マ・ティーダはヴィパッサナー瞑想の質を上げ、解脱と悟りに至るという目標を見すえて修行に励みます。そのためには輪廻転生(samsara)を中心とする仏教的世界観への洞察を深めます。仏教は業(karma)の支配する宿命的な因果論的な流れとして世界を捉えます。業とは人間の行いであり、善い行いをすれば次にはよき転生に恵まれ、悪しき行いをすれ悪しき転生を被るのです。インテリのマ・ティーダですら自分が悪しき行いによって畜生に生まれ変わるかも知れないと考えると、ぞっとしたとしていますから、この国では輪廻転生説が人々の善行へのモチヴェーションを高める役割を果たしていることはよく分かります。
ただカントに代表されるような自由意志的な道徳観を理想とする西欧人から見ると、悪しき転生への恐怖から善行に励むというのはいかにも非自律的、他律的態度です。しかしマ・ティーダは八正道などの伝統的な実践修行を行ないながら、その行から功利性がことごとく脱落させ徳のために徳を行なうと境地に変わってきているようにみえます。いわば伝統を踏襲しながら、そこを突き抜け近代的な道徳主体に転換しているようであり、実質的な道徳的態度としてはカントの定言命法(kategorischer Imperativ)※ に近いと感じられます。
※ドイツの哲学者カントは、本来の道徳律は仮言的であってはならず、定言的(無条件的)でなければならいとしました。たとえば、正直に生きると人から信用されてなにかと便宜が得られるから、正直に生きるべきだとするようなあり方は仮言的(条件的)である一方、定言的とは普遍的道徳律に対して人間が人間たる以上無条件で守るべきあり方を指します(普遍的道徳律とはたとえばモーセの十戒)。
仏法僧への帰依というかぎりでは一般の在家信者と同じようにみえますが、マ・ティーダの場合はあくまで自由意志を介しての、自由な道徳主体としての帰依であって、一般の場合の宗教的権威への受動的服従、いわゆる恭順とは明確な違いがあるのです。このことをマ・ティーダ自身がどこまで意識しているか不明ですが、実践的には自由と人間的矜持を賭けた彼女の獄中闘争がそれを示しています。
脇道に逸れますが、ここで仏教教説についての疑問をひとつ提示しておきます。輪廻転生説の中核をなす業(ごう カルマ)の教説について、私にはこれが仏教の核心的教義だとはどうしても思えないのです。歴史的経緯からいってもバラモン教などの影響で釈迦以後に教義に付加されたもので、釈迦仏教の合理性にはそぐわない呪術的(迷信的)要素の色合いが濃いものです。釈迦没後、民衆教化のために便宜的に土俗的な信仰説話からピックアップされたものではないかと思います。(昭和二十年代、高度経済成長前の私の小さい頃は、嘘をつくと閻魔様から舌を抜かれるぞと大人から脅され、いくらか恐怖を感じたものでした)
業の教義は文字通りに解釈すれば、非常に不合理な結論に達せざるを得ません。なぜならミャンマーで軍部独裁が半世紀続いたのも、2008年にサイクロンに襲われ14万人の犠牲者が出たのも、すべて前世のカルマによるものであり、この必然性は受忍するしかないとすれば、人間の自由を入れる余地はこの世からまったく消え失せてしまうからです。せいぜい来世でのカルマの上昇をめざして、今生でより道徳的な生活を送るだけです。
さらに現代の我々にとって、「善因楽果」、「悪因苦果」という因果論の考え方の難点は、社会機構や人間関係が複雑化し、人々の価値意識も多様化多元化すれば、道徳的善悪を一義的に決定するのは困難であり、出来事の因果関係は善が善を呼び悪が悪を呼ぶというような単純なものではなくなるというところにあります。善き意図が悪に結果することもあれば、悪しき意図が善に結果することもある訳です。
封建社会での発想では、「勧善懲悪」的観念にみられるように善と悪は固定化されていて(善悪概念の実体化、例えば悪の権化としての悪代官)、人間の行為が善か悪かは事柄の条件次第であるという柔軟な考え方はできません。事柄の入り組んだ関係の中では善は悪にもなり、悪は善にもなるという「善悪の弁証法」こそ近代的な発想なのです。ただし善悪の弁証法は善悪の決定は一筋縄ではいかないと言っているだけで、善悪の決定を不可能とする道徳的不可知論とは区別されます。
それでもなお業の教説を維持しようと思えば、たとえば人間の有限な知見の及ばないところに超越者、つまり善悪を誤りなく判定できる絶対者がいて、すべての人間の過去、現在、未来をすべて管理して勤務評定していると想定しなければなりません。ところが釈迦も含め仏教では、不滅なる霊魂も天地創造を行なう超越神も否定していますから、そういう想定は成り立たないでしょう。
いずれにせよ輪廻転生説の業に関わる部分は、中世社会のように身分制で人間関係と習俗的規範が伝統的に固定していて、比較的善悪の判別が容易であった前近代的な閉鎖的農村型社会でのみ通用する教説であると思います。したがってミャンマーがこれから近代化し脱農村型社会に移行すれば、おのずと業説の影響力は薄れていくでしょう。ただ都市型社会になっても、いや都市型社会になればなるほど人間の煩悩は複雑化し深くなるともいえるので、煩悩と迷いの世界から脱出して解脱したいという人間の救済願望はなくならないでしょうから、迷いの世界とそれからの救済を象徴するものとして輪廻転生説は残るかもしれません。あるいはインド科学の父と呼ばれるジャガディス・チャンドラ・ボース(1858-1937)のように「生物界の変転と均衡」を司る摂理として輪廻転生を読みかえる方向もあるでしょう。この方向性は現代のエコロジーの考え方に通じるものです。
恐縮です、もうひとつミャンマーで長期に暮らしていて気になったことがありました。それはミャンマーではサンガに属する僧侶は別にして、一般の在家信者の間で強く意識されている功徳を積むとする慣行には、日常眺めていて「現世利益」を期待する功利主義への傾きがつよく見て取れたことです。つまりなにをもって功徳とするのかに関し信仰の純粋性や信仰の内実を必ずしも問わないで、外面信仰というか、寄進、お布施のパフォーマンスの方に価値を置く傾向があるようにみえました。驚いたことに功徳をもたらす行為にランク付けがあるのです。仏法僧に深く帰依して、貧しい生活の中からわずかであれ浄財を喜捨する娘の行為と、国家財産を私物化し贅沢三昧の暮らしをする富裕層の巨額の寄付行為と、どちらに宗教的にみて価値があるのかは問うまでもないでしょう。たまに有名な映画俳優などが、最高の功徳行為とされるパゴダの寄進―何千万、何億円とかかります―を行なって世の中の話題をさらったりもします。しかしこのようなこれみよがしの誇示的寄付conspicuous donation、つまり信よりも行を重んじるあり方に対しては、内面的な信仰や厳しい道徳的自己審査を要求するマ・ティーダの厳格主義はおそらく批判的であると思います。
大乗仏教との比較でもう一点。マ・ティーダは両親への感謝の思いを込めて、自分が修めた功徳をなによりも両親に差し向けたいと述べています。大乗仏教で言うところの「廻向(えこう)」ですが、とくに浄土宗では廻向往相―他力本願によって阿弥陀如来の浄土に往生することーよりも、廻向還相―浄土に往生したものが、再び此岸に還ってきてすべての衆生を教化して仏道を成就させることーを重視します。自力と他力の違いにもかかわらず、マ・ティーダも廻向還相を重視しているようにみえます。ただ家族といった狭いサークルに功徳を差し向ける上座部仏教と、衆生済度で万人に救済の道をひらこうとする大乗仏教との違いはなお残っています。
ともかくこの時期、公式的な言い方をすれば、マ・ティーダは煩悩に支配された輪廻転生の迷いの世界から瞑想修行を通じて解脱しニルヴァーナ(涅槃)に到達するために、徹底した強い意志による自己抑制に専念し、自力本願の道を究めようとしたのです。
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