<上座部仏教に由来する道徳的世界観―近代的世界観との比較>
前近代社会における世界観では、存在(何があるか ザイン)と価値規範(いかにあるべきか ゾレン)の区別がなく、すべて(自然、社会)が人間の価値観念によって浸潤されています。たとえば天体の運行軌道に関して、中世的宇宙観では完全なる神が設計し創造した宇宙においては円が完全であり最高のものであるから、すべての天体は真円軌道を描くとします。その意味でケプラーの楕円軌道説はカトリック教会の伝統教義に反しており受け入れがたいのです。完全なる神の創造によって出来上がった宇宙は、天球の複合的な組み合わせの運動として説明されます(プトレマイオス的宇宙観)。つまり神の完全性を模した円や球という形に最高の価値が付与されることによって、天体は単なる物理的なものでなく、神の手による位階秩序という価値的な意義をも与えられているのです。神の位置に近いが故に天上の月世界には最高の精神的価値が認められ、その下位に月下世界として人間界があり、そのまた下位に動物界や植物界があるというように存在のハイアラキー(位階秩序)と価値のハイアラキーが重なっているのです。(現代カトリックの新トミズム哲学も基本的には今でもこの見方をします)
したがって中世的世界観においては、あらゆる社会的秩序の在り方を道徳性に還元する見方が優勢となります。儒教の修身斉家治国平天下―為政者はまず己の身を修め、家庭を整え、その徳で人の心動かして世を治めれば太平となるーがその典型です。マ・ティーダも文字通りこのような見方をしていて、ミャンマーの将軍たちが統治者として10の道徳※を身に着けていないから、国民を敵視する政治を行うのだとしています。
※慈悲、善き道徳、喜捨または庇護、公正さと正直、言動における優しさ、戒律の謙虚な遵守、寛大さまたは怒りの欠如、残忍さの回避、忍耐、人民との抗争の回避
そうすると軍部独裁政治を止めさせるには、孔子が諸侯に対して行ったように将軍たち支配者に道徳を説いて善き仏教徒に変えることが必要だということになります。軍政の克服のためには、仏教的精神革命が先行するという戦略になりそうですが、それはどうもみても時代錯誤にみえます。
現代人であれば、ふつう次のように考えるでしょう。民衆から遊離し、権力と富を貪欲に追求する軍部独裁の仕組みこそが、将軍たちを不道徳ならしめるのであって、もし道徳的でありたいと欲するならば、将軍の地位を放棄して一私人になるか、軍政の仕組みそのものを破棄する変革者になるかしなければならない。したがって将軍の地位にとどまりながら、有徳の統治者になろうとすることは不可能である、と。同じように貧困は貧困者の不道徳性が生み出したのもではなく、社会の仕組みにより生まれてくるもので、貧困解決のためには社会の仕組みそのものを変えなければならない、云々。
おしなべてミャンマーの人々に欠けていると思われるのは、政治悪や社会悪についての歴史的構造的理解です。宗教中心の中世的なものの見方では、政治や社会などの客観的世界と人間の側である主観的世界は分離しておりません。人間は一様に村落共同体秩序の中にすっぽり埋め込まれていて、そこから乳離れしていないのです。ところが近代的な世界観は、主観と客観が一端相互に分離独立することを成立条件とします。近代哲学の祖デカルトが、「われ思う、ゆえにわれあり」と述べて客観的世界の拘束から解き放たれた自由な(思惟)主体の宣言をしましたが、この時同時に客観的世界は主観の価値的拘束から解き放たれて、数学的に厳密に規定できる物理学的世界へと転換されたのです。やがて自然界だけでなく人間世界に対する見方にも同様の思考方法がとられるようになりました。政治、経済、社会などの変革のためのビジョンは、直接個人の人柄や道徳性から引き出されるわけではなく、それらの仕組みや法則性を主観から独立したものとして合理的に探究することが必要だと考えられるようになりました。
スーチー氏やNLDなど民主化勢力が、なぜ変革のためのビィジョン・政策の策定や制度設計が苦手なのか、その理由の一班は今述べたことと関係があるでしょう。仏教的道徳主義的な発想に引きずられ、自然や社会を対象化して(主観から突き放して)見る見方が苦手なところにあります。ただマ・ティーダ自身はすでに獄中記を書いた時点とは違った観点に立っているようです。昨年の10月にはイラワジ紙(10/18)のインタビューで、彼女は「ミャンマー人にはおしなべて社会システムや歴史的見通しの知識が欠けている」としているからです。国民を抑圧している物理的・構造的・文化的暴力のシステムへ有効な闘いを挑むには、それらに対する歴史的構造的理解が必要だとしているのです。88世代が期待したほど政治的に伸びていないのも同じ理由からでしょう。ネウィンの鎖国政策と言論統制によって最も大きな打撃を受けたのが、ミャンマーの知的世界でした。ほぼ半世紀にわたって世界の先進的な知的進歩から取り残され、上座部仏教という宗教世界に閉じ込められてきたのです。信仰篤きミャンマー人というのは確かにそうでありますが、そのために失ったものの大きさに、もし私がこの国の知識人ならば、たじろぎ絶望的な気分に陥ったかもしれません。歴史的構造的理解があってはじめて個人個人への道徳的説得という方法を超えて、集団的な民衆成長戦略が構築できるようになるのです。足りないのは知識だけでなく、近代的なものの見方考え方である以上、ミャンマーの民主化運動はたんなる政治改革だけでなく、パラダイム(知的枠組み)変換という重い課題をも背負わされていることになります。
ただし現代社会の裏の側面として、科学技術とその巨大システムが大きな壁に突き当たり(原発!)、我々に対し便益を与えつつ同時に自然と生命を全面的な危険にさらしていることも事実です。遅れていることが必ずしも不利益ばかりではないのです。ある面では進んだ東洋、遅れた西洋といいうる事態も現出しているのです。
経済や社会の動きは、無数の人々の意欲や企図をもってなされる活動によってつくられるものですが、それらの活動が織りなして出来上がる世界は相対的に人々からは独立して機能しています。現代の先進社会では分業化が進み、複雑化した社会システムは人間の制御の能力をときに超えて、むしろ人間がその全体機構の一歯車として押しつぶされそうになりながら必死で順応せざるをえない事態に立ち至っています。そのことが手に取るように我々に分からせてくれたのは、2008年のリーマンショックと2011年のフクシマの原発事故でした。あのとき世界の金融システムは制御不可能になって破綻一歩手前までいきました。人間が作り出した超効率の金融システムが機能障害を起こして人間の手に負えなくなり、通常の経済生活を大規模に破壊する結果になりました。それはニューヨーク、ロンドン、東京のような24時間世界都市が典型的でありますが、活動と休息の生物学的リズムを無視して、時間空間を利潤追求のためにむさぼり利用しつくそうとする現代の市場至上主義経済の究極がどうなるかの予言的象徴的出来事でした。フクシマについても同様なことが言えます。24時間不眠都市を維持するために最高度の科学技術を駆使して運転されているはずの原発が、いかに脆いものであるかを我々は思い知らされました。制御不能になった原子炉がメルトダウンを起こし、未曽有の大災害をもたらしたのでした。あのとき私がいち早く、原子炉がメルトダウンを起こしている可能性が高いので、すぐ避難すべきだという情報を得たのは、ドイツの報道からで日本のそれからではありませんでした。危険物に対しては厳しい危機管理システムが必要なのですが、その一翼を担うべきマスメディアが危機に際して有効に機能しなかったという事実もまた危機を深めることになりました。
いずれにせよ、超過密と超高層、超高速と超効率によって磨滅させられた時間と空間を人間の手に取り戻すこと、そのためには仏教含め宗教と哲学の遺産を総動員する必要があるのです。わが尊敬するL・マンフォード(1895年~1990年アメリカの都市計画家、文明批評家)は、仏教哲学の泰斗中村元博士によると、行き過ぎた専門化を抑制し多様性を原理とする人間の全体性回復の方向を「マイトレーヤ(弥勒菩薩)への道」と名付けたそうです。陳腐な言い方になりますが、マンフォードのひそみに倣って東洋の宗教思想と西洋の自由思想とがお互いを認め合い、協同し合う道を拓かなければなりません。
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