ミャンマー軍のクーデターに怒りを込めて抗議する アウンサン・スーチーさんを直ちに解放しろ

 ミャンマー国軍は1日朝、クーデターを起こし、最高指導者のアウンサン・スーチー国家顧問とウィンミン大統領はじめ一部閣僚、州知事、与党・国民民主連盟の主要幹部らを拘束した。国軍はまもなく「軍が国家権力を掌握した」と発表した。この平和で美しい国を、クーデターでぶち壊すビルマ軍に怒りを込めて抗議する。
 アウンサン・スーチーさん(75)は、ビルマの英国からの独立運動の最高指導者で独立達成の直前に暗殺された「ビルマ建国の父」アウンサン将軍の娘。
 ミャンマー(旧ビルマ連邦)は、第2次大戦以来、東南アジアで日本との友好的な関係が最も深い国。第2次大戦では、日本軍と英軍の悲惨な戦場となった。戦後の1948年、英国から独立。62年に国軍がクーデターを起こし、以後国政を支配した。80年代、民主化運動が次第に高まり、86年に日本で10か月間の客員研究から帰国したアウンサン・スーチーさんらが国民民主連盟(NLD)を結成した。軍はスーチーさんを自宅軟禁にしたが、90年の総選挙でNLDが勝利。しかし軍は政権移譲を拒否。91年、スーチーさんはノーベル平和賞を受賞。
 95年に軍はスーチーさんをようやく自宅軟禁から解放した。
 2003年、軍政は「民生移管計画」を発表。その一方で、次第に高まる国民の反軍政運動を武力で鎮圧。08年にようやく、民政移管を含めた新憲法が国民投票で承認された。
 10年、民政移管のための総選挙が行われ、国軍と緊密な連邦団結発展党が勝利。NLDは選挙をボイコット。
 11年に民政移管が完了。自宅監禁を解かれたスーチーさんは、12年の下院補選で当選した。
 15年11月の総選挙で、ついにNLDが軍の議席(全議席の4分の1)を除く全議席の8割を超す396議席を得て大勝、NLD政権が発足した。スーチーさんは外国籍の家族がいるため大統領になれず、側近のテイン・チョーが大統領に就任、スーチーさんは国家顧問に就任した。国家顧問は、大統領に政治上の「助言をする」役割。さらに彼女は外相、大統領府相、教育相、電力・エネルギー相の4大臣を兼任し「事実上の首相」と見なされる立場になった。
 スーチーさんは2019年10月訪日、21日に安倍首相と会談、22日には即位礼正伝の儀に参列している。
 昨2020年11月の総選挙でNLDは、軍に割り当てられている全議席の4分の1を除く、全改選議席の8割を超す396議席を獲得して大勝利。国会で単独過半数を占めることになった。一方、国軍系の最大野党USDPは、議席を41から33に減らした。
 スーチーさんが事実上率いる新政権と議会が、ミャンマーの民主化をさらに進めることへの国民の期待が一層強まった、
 そして、新発足の議会が開会する日の2月1日朝、軍がクーデターを起こしたのだ。

▼京都で出会ったアウンサン・スーチーさん
 アウンサン・スーチーさんは、1985年10月から86年7月まで。国際交流基金の支援で京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、東南アジア政治研究の矢野暢教授の研究室を拠点にして、研究を重ねていた。当時、共同通信社京都支局にいた私は、矢野教授に紹介されて、研究室で2回、近くのお寺で和楽器の演奏と食事の会で、お会いしたことが忘れられない。スーチーさんは、矢野教授の東南アジア諸国の調査・研究に協力するとともに、日本語をしっかり学習していた。私はスーチーさんと主に日本語で話し、ほとんど不自由は感じなかった。彼女は決しておしゃべりでなかったが、ビルマはじめ東南アジアでの出来事を、簡潔にしかし確固とした感じで話してくれた。
 90年代の後半、2度ミャンマーを訪れたさい、できたらお会いしたいと郊外の自宅を訪れたが、自宅周辺がなんとなく緊張に包まれ、案内してくれたビルマ人の友人の話では、「必要な要件がある方以外はお断りしているとのことです」とのことだった。(了)

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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