メディアだって恥ずべきことをやっている――黒川スキャンダルを巡って

――八ヶ岳山麓から(314)――

1月31日、安倍内閣は黒川弘務東京高検検事長(当時)の定年延長を決定した。検察庁法改正案が国会に提出され、5月に審議に入った。これに対して黒川人事を「後づけ」する意図が見え見えだとして、会員制交流サイト(SNS)には、「ツイッターデモ」といわれるほど多くの反対意見が登場した。検察OBからも反対意見が法務省に提出された。5月18日安倍政権はこれに耐えきれず、法案の成立を断念した。
ところが、日をおかず「週刊文春」(2020・05・28)によって、当の黒川氏が産経現役記者、朝日元記者と賭け麻雀をしていたことが暴露された。安倍政権のメンツが吹っ飛び、黒川氏は袋叩きされ辞職に追い込まれた。

産経や朝日は、コロナ禍の緊急事態宣言のさなかに記者らが麻雀賭博をやったことを恥ずべきことと謝罪した。だが自社の記者が東京高検検事長という権力者にべったりひっついていたという事実に対しては、反省の一言もなかった。
日本のメディアは、古くから権力者・有力者に密着取材して情報を得るのが当り前になっている。この担当記者を「番記者」というそうだ。今回賭け麻雀をやっていたのは「番記者」と「元番記者」であろう。毎日だの読売だの日経だの、その系列下のテレビも、「番記者」については何も言わなかったから同じことをやっているに違いない。地方新聞でこの問題を取り上げたところがあったら教えていただきたい。

ジャーナリストの青木理氏は、歴代政権が自制した放埓人事を安倍内閣が繰りかえした責任を問うたのち、末尾で次のように書いた(信濃毎日新聞2020・05・22)。
「……今回、大手メディアの姿勢にも重大な疑念が突きつけられた。一部の週刊誌が政権の問題を浮き彫りにする特ダネを連発する中、焦点の人物とマージャン卓を囲み、肝心の情報を発信しない新聞記者。緊急事態宣言下、誘いを受けたとしても、なぜ固辞しなかったのか。情報を持つ高官の懐に飛び込むといえば聞こえはいいが、いったい誰のための取材であり、メディアなのか」

私は、黒川スキャンダルは、長年習慣的な「番記者」という取材方法にその根源があるとおもう。青木理氏は、黒川氏から誘いを受けた記者らが、なぜ誘いを断らず出かけたのかと問い、彼らが「肝心の情報を発信しない」と批判している。
だが現役も元記者も誘いを断れず、のこのこ出かけたわけはだれでもわかる。権力者から情報を得るつもりが、哀れな召使になっているからだ。いいかえればこの制度を使って記者に取材させているメディアは、自社の記者を権力の「はしため」として差し出し、記者たちはあたりまえのようにそれに従っている。そんなやり方で、いくら麻雀をやっても「肝心の情報を発信できる」わけがない。
青木氏が権力に取り込まれたジャーナリストを批判するなら、「番記者」方式をはっきりと非難すべきであった。

「記者クラブ」というものがある。中央・地方の役所、警察、裁判所、さらには業界団体に設置されていて、クラブの部屋もそこからタダで借りているという。それかあらぬか、日本のニュースには官庁の公式発表の記事が多い。刑事事件などほとんどが警察発表そのものだ。官庁や警察に情報が集まるのだから仕方がないといえばそれまでだが、労働現場や労働組合、農協や生協、平和団体、学者の地道な研究、ボランティア団体など民間の社会活動など、記者が足で取材した記事はごく少ない。催物の記事でも主催者発表が主だ。こうなると記者クラブは、半分は役所や警察の思惑通りに動く報道機関だといわれて仕方がない。

中国のメディアは中国共産党の「喉と舌」つまり宣伝機関である。特に習近平政権になってから独立したメディアは姿を消した。ジャーナリストらしいジャーナリストは脅迫されて沈黙するか牢獄の中だ。
メディアの報道があてにならないことは、中国の「老百姓=無権の人民」はだれもが漠然と感じている。だから「人民日報」などの記事が話題になることなど皆無。むかしはだれだって「街道消息=うわさ」のほうを信じた。今は携帯電話にどこからともなく瞬間的に流されてくるメールを信じる。
中国のメディアを「中国のマスゴミ」といった日本のジャーナリストがいたが、10年余の中国生活から帰国したとき、日本の大新聞とその系列のテレビも、やはり「マスゴミ」だとおもった。テレビのコメンテーターと称する人々はたいてい現状肯定的で、安倍政権のちょうちん持ちが多い。今はこれにすっかり慣れてしまい、週刊誌やネットが権力を批判する自律的な発言をする人を揶揄し叩くのを見ても、「そら来た」という感じで受け止めている。ただ地方紙にはまだ独立心が残っているのを知って少し救われたおもいがしているが。

中国とおなじく、日本でも記者が権力者の非行を暴いたら配転かクビになることがある。最近では、もとNHK記者で、いまは大阪日日新聞記者相沢冬樹氏の例がある。氏は、通産省職員赤木俊夫氏が「最後は下部がしっぽを切られる。なんて世の中だ」と書いた遺書と手記を明らかにした人だ(「週刊文春」2020・04・02)。
彼はNHK時代森友事件をスクープしたために、2018年5月辞めざるを得なかった。大メディアはジャーナリストとしての精神をもった記者が嫌いなのだ(『安倍官邸vs.NHK―森友事件をスクープした私が辞めた理由』文藝春秋、2018年12月)。

元来は報道には真実性と客観性、また論評には批判性という規範が伴っている。教科書風にいうと、客観・中立・公正がたてまえである。そのためには権力側を支持するか反権力であるかにかかわらず、メディアは権力から独立していなければならない。客観・中立・公正とはその意味であろう。
テレビや新聞、雑誌の報道には、権力への忖度とへつらいがあふれている。だからものを考える読者は、ジャーナリズムに批判精神と倫理を期待するのはあきらめて、裏付けが希薄だと思っても、ネット上の記事に目が行く。欧米のメディアの報道に多く見られるような自主性・主観性をもった記事や論評を歓迎するのである。新聞紙の読者が減るのも無理はない。
とはいえ、私はメディアとジャーナリストを信用してはいないが、絶望しているわけではない。絶望しないからこうして注文を付けるのである。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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〔opinion9858:200619〕