1956年10月に勃発したハンガリー動乱は社会主義諸国のみならず、資本主義国の左派に大きな衝撃を与えた。左派知識人たちが得られる情報はソ連共産党が発する公式声明であり、動乱を惹き起こした背景や戦後東欧社会主義国の社会主義化が抱えていた深刻な問題を知ることはなかった。ソ連共産党による「ハンガリー動乱は社会主義を転覆させる反革命」という規定は20世紀末の体制転換に至るまで、公式見解として維持されてきた。ヨーロッパから遠く離れた日本では、ソ連共産党の見解を受け入れるだけで、それ以上に議論は進展しなかった。
スターリンの愛弟子ラーコシ
戦後ハンガリーの社会主義化を担ったのは、ソ連帰りの共産党指導者である。ラーコシ(1892-1971年)は1919年のハンガリー・ソヴィエト共和国樹立に際して、商業副大臣、社会生産大臣に就任し、社会主義政権が崩壊した後は長くホルティ政権の監獄にあった。その後、ソ連に亡命して、第二次大戦後にハンガリーに戻った。
ラーコシの片腕だったゲルー(1898-1980年)もまた、第一次世界大戦中に共産党に入党し、ハンガリー・ソヴィエト共和国樹立時に青年運動に加わり、赤軍兵士にもなった。1924年に捕虜交換でソ連に渡り、内務省の諜報部員になった。その後、スペイン内戦の国際部隊指揮団に加わり、トロツキー主義者の抹殺で活動した経歴をもつ。そして、ラーコシとともに、終戦後にハンガリーへ戻った。
レーヴァイ(1898-1959年)は1918年に共産党員になり、ハンガリー・ソヴィエト共和国樹立時にはクン・ベーラやルカーチ・ジョルジュの影響を受け、革命の理論的な作業に勤しんだ。革命政権崩壊と共にウィーンへ逃れ、ルカーチとともに雑誌編集の仕事を行い、ハンガリー共産党の再建会議に加わり、ルカーチとともに中央委員となった。その後、ハンガリー国内で逮捕されたが、釈放後にソ連に渡り、コミンテルンで仕事をしながら、理論活動を行った。
これら3名に加え、やはりソ連滞在が長かったファルカシュ(1904-1965年)を加えた指導部が、4人組を形成していた。皆、ユダヤ人であった。
戦後ハンガリー共産党はソ連帰りの4人組と、ライクやカーダールの国内活動組から構成されていたが、実権を握ったのは4人組であり、なかでもラーコシはスターリンに絶対服従を誓う「東欧の小スターリン」と呼ばれた。スターリンと直接電話できる関係にあった。その彼が起こした最初の党内粛清対象が国内組のライク・ラースロー(外務大臣)だった。ライク外務大臣は1949年5月に逮捕され、10月に処刑された。彼が標的になった詳しい事情は省くが、ラーコシ粛清はスターリンの了解を得て、ラーコシがすべてを仕組んだものだった。これを手始めに、ラーコシは党内外の政治家の粛清に手をつけるが、ライク粛清はラーコシ独裁の始まりとなった事件である。この粛清事件はハンガリーのみならず、中・東欧社会主義国における粛清事件の先駆けとなり、チェコスロヴァキア共産党スランスキー書記長他の粛清は、ライク粛清をチェコスロヴァキアに適用したものだった。
ライク夫人
ライク外務大臣逮捕と同時に、スペイン内戦を夫と共に戦い、婦人運動の全国組織を率いるライク夫人ユーリアもまた逮捕された。「アメリカのスパイである夫と共謀した罪」である。処刑されたライク外相ほか3名の遺体は、ブダペストから30km程離れたグゥドルー郊外の森の中に無造作に掘られた穴にまとめて埋められた。
ライク夫人はライク逮捕から間もなく保安警察によって連行され、幼子は祖母に引き取られた。保安警察地下の留置場に留め置かれ、連日、トロツキー主義者であることを自白するように迫られた。主が居なくなった家屋は保安警察によって整理され、別の人物に貸し出された。母子が切り離されて間もなく、1歳に満たない息子(ライクジュニア)は党の児童施設に偽名で預けられた。ライク夫人は1950年5月の裁判で有罪判決を受け、保安警察の留置場から収監された。ライク夫人が釈放されるのは、1954年6月である。こうして、ライク母子は再び一緒に暮らせるようになったが、釈放の条件としてライク夫人は別名を名乗ることを強制された。
ここから、ライク夫人は長い戦いを強いられた。夫の名誉回復のみならず、自らの氏名を取り戻す戦いになった。スターリンの死後、ソ連と東欧ではスターリン時代に粛清された政治家の名誉回復が行われていたが、ラーコシが健在なハンガリーでは遅々として進まなかった。ようやく1955年7月にライク外相の名誉回復が実現したが、粛清を実行したラーコシが居座るハンガリーではそれ以上の具体的な取り組みはなされなかった。ライク夫人は夫の遺体がどこに「埋葬」されているかも知らされず、自らの名誉回復のために闘わざるを得なかった。スターリンの死後、ハンガリーでも言論の自由化が一定程度許容されたが、党指導部に批判的な知識人党員は除名された。その彼らがライク夫人を助け、共産党指導部と妥協しないようにライク夫人に種々の助言を与えた。
フルシチョフ「秘密報告」の後、ハンガリー共産党ではラーコシ時代の粛清者の完全名誉回復、とくにライク外相の再埋葬式が最大の課題になった。しかし、ラーコシが依然として党組織を牛耳っている状態で、ライク粛清事件の全容を公開することは共産党権力崩壊のリスクがあった。そのために、再埋葬式は日程に上らなかった。しかし、共産党内の動きに押され、最終的に1956年7月にラーコシはソ連へ「亡命」した。これ以後、ライク外相の再埋葬式がハンガリー共産党に残された課題になった。
再埋葬式
ハンガリー共産党は再埋葬式の準備のために、ライク外相他3名が埋められているグゥドルーの森へ夫人たちを案内して、遺骸の特定を依頼した。1956年9月末のことである。夫人たちが骨格からそれぞれの夫を特定することはできたが、ライク夫人は埋葬状況にショックを受けた。ゴミを投げ捨てるかのようにまとめて埋められていたのである。
党指導部は近親者を集めた少人数の埋葬式を提案した。しかし、ライク夫人はその提案を拒否し、公開埋葬式にすることを求めた。10月5日、党指導部は渋々これを容認し、ブダペストのケレペシ墓地で公開の再埋葬式を翌6日に執り行うことを決定した。公開決定から24時間の猶予すらなかったにもかかわらず、ライク埋葬式には10万人とも20万人とも言われる人々が参列した。これほどの大衆が自発的に集まったのは、社会主義政府が樹立されて初めてのことだった。
予想もしない数の大衆が埋葬式に参加したことに、党指導部は驚いたに違いない。しかし、そこから教訓を引き出すことはなかった。ライク再埋葬式はその後の大衆的蜂起の出発点になった。この式に参加していた学生の一部は、式終了後に「バッチャーニィの永遠の炎」に参集し、政権への抗議の声を上げた。1949年10月に、対ハプスブルグ独立戦争で敗れ処刑されたバッチャーニィ・ラヨシュの精神を祭る祈念碑である。ここから学生たちの活動が一斉に活発化することになった。ライク埋葬式は17日後の人民蜂起の前哨戦になったのである。
他方、ゲルー書記長を団長とするカーダール他の党幹部が、10月15日からユーゴスラヴィアとの関係改善の旅に出かけた。1週間にわたる長期の隣国訪問だった。党指導部には危機意識が完全に欠落していた。その間、ハンガリー国内では学生組織を中心に大衆的な行動が組織され、事態は緊迫の度を増していた。ユーゴスラヴィア訪問を終えた一行が23日にハンガリーに戻った時には、すでに動乱が始まっていた。これを慌てふためいたゲルーがフルシチョフにソ連軍による平定を求めたことが、軍事侵攻の発端になった。ハンガリーを混乱に陥れたラーコシやゲルーの罪は非常に重い。言うまでもなく、ソ連帰りの指導者を経由して東欧社会主義国を属国支配したソ連共産党の罪は深い。
ライク母子
動乱がソ連軍によって制圧される11月4日、ライク母子はナジ首相グループの一員として、ユーゴスラヴィア大使館に亡命した。その後、ナジ・グループはルーマニア幽閉され、半年後、男子のみが裁判のためにブダペストへ戻されるが、女子と子供は引き続きルーマニアに留め置かれた。ライク夫人は残されたグループの指導者として、種々の情報の開示を求め、子供たちの教育を組織した。
ライク母子は1958年にブダペストに帰還し、図書館司書の仕事を与えられたが、引き続き婦人運動に加わりながら、粛清された家族の支援にあたった。1981年に77歳でこの世を去った。一人息子のライクジュニアは工科大学建築課を卒業して、各種の構築物のデザインを手がけた。1991年の体制転換後の総選挙では反体制知識人の党であるSZDSZから立候補して当選した。本年、2019年9月、70歳の若さで他界した。
戦後の一つの時代が終わった。
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