東欧社会主義の成立過程で、冷戦が始まり、ユーゴスラヴィアが国際共産主義運動からの「破門」された1948年以降、ソ連共産党の指示で、各国共産党では「共産党内の敵を摘発する闘い」が始まった。1949年10月のハンガリー外相ライク・ラースロー処刑に始まり1952年12月のチェコスロヴァキア共産党書記長スランスキー処刑にいたる共産党内外の政治家粛清の嵐は、「共産主義ファシズム」=スターリン主義に侵された東欧社会主義国家に重大な人的犠牲を強いた。
東欧社会主義国における粛清の先駆けとなった「ライク・ラースロー外務大臣処刑」について、1990年以降に入手された資料にもとづいて、これまで長期にわたって秘匿された事実関係を明らかにして、その全容を明らかにしたい。
ライクを標的
スターリンの歓心を惹くために、1948年からラーコシは積極的に「共産党内の敵」摘発を企てていた。インパクトのある政治家でなければ意味がない。ラーコシは国内組の中でもっとも人望のあるライクに目をつけていた。小太りのラーコシとは正反対で、端正なマスクと長身のライクは政治的ライヴァルになる可能性もあった。しかも、ライクの弟は戦前のホルティ政権時代のファシスト組織矢十字党幹部であり、非合法活動で逮捕されたライクは弟の手助けで釈放された過去をもっていた。また、スペイン内戦に参加した経歴のある者には、いろいろな難癖をつけることもできた。とりわけ、内戦に参加しながらソ連共産党の指示に従わなかった者は「トロツキー主義者」とされていた。これらライクの履歴に何かもう一つ、アメリカとの関係を暗示するものを付け加えることができれば、ライク粛清のシナリオが描かれる。こうして、ラーコシは早くからライクを標的にしていた。1948年頃からラーコシはファルカシュやカーダールなどに、「ライクはアメリカ帝国主義のスパイである可能性が強い」と漏らしていたことが確認されている。
スイスの諜報部員からの報告
戦中戦後のスイスには東欧各国の亡命共産党員が集まっており、アメリカの諜報機関やユニタリアンの活動も活発化していた。ハンガリー国防省諜報部員に組織されたスイス在住の若者フェレンツィ・エドモンドが、ハンガリーの亡命共産主義者の情報を本国に送っていた。ジュネーヴで教育を受けたフェレンツィは語学に堪能で、学生時代から各国の亡命共産党員を世話するうちに、ハンガリーの諜報部員になった。その彼が、1949年初頭にスイスにおけるアメリカ人活動家から得た情報をハンガリーに送った。
それによれば、「1945年1月6日、スーニィ・ティボール(1949年当時、党中央委員で党本部勤務)他4名は、ユーゴスラヴィア共産主義者から取得した偽の軍医証明書を使って、マルセイユ、ナポリ経由でベオグラードに入り、そこでユーゴスラヴィアの要請に応じて軍医証明書を廃棄し、(ハンガリーの)セゲドへ入った」というものである。この情報は、スイス在住のアメリカ人でソ連共産党員のノエル・H・フィールドから聞き出したものだった。フィールドは亡命共産党員と交流が深く、多くの友人知人をもっていた。
この情報を得たハンガリーの国家保安局長で「ハンガリーのベリア」と呼ばれたピーテル・ガーボルはラーコシの了解を得て、ノエル・H・フィールドを拉致する計画を立てた。当時、フィールドはアメリカ下院非米活動委員会の調査対象になっており、ドイツに定住地を求めるべく、チェコスロヴァキアの諜報部と頻繁にコンタクトを取っていた。それを知ったハンガリーの国家保安局はプラハにフィールドをおびき出し、拉致してハンガリーに連行する計画を立て、チェコスロヴァキア諜報部に協力を求めた。いったんは断られたが、ゴッドワルド大統領とソ連国家保安省東欧責任者ベルキンの了解を得て、拉致を実行した。
ノエル・H・フィールド拉致事件
プラハに到着したフィールドは、1949年5月11日、プラハ・パレスホテルからチェコスロヴァキア諜報部の迎えの車に乗ったところ、郊外に連れ出され、ハンガリーの諜報部員にクロロホルムを嗅がされ拉致され、ハンガリーに連行されたのである。1996年に制作されたフィールドにかんするドキュメンタリー映画(Noel Field―The Fictitious Spy、スイス・ドイツ合作)の冒頭部では、ブダペストの路上で逮捕される場面が出て来るが、この部分はフィクションである。
フィールド拉致事件は「ライク粛清シナリオ」の重要部分を構成するもので、極秘のアクションだった。ハンガリー人でも専門家以外にフィールド拉致事件を知る人はきわめて少なく、フィールド一家が辿った悲劇はハンガリー人に共有されていない。ライク裁判を含め、この拉致事件のことが明るみになったのは、ハンガリー共産党の4人組の一人、ファルカシュ・ミハーイの息子ヴラジミールのオラルヒストリーが出版されてからである。
ヴラジミールは国家保安局の通信・盗聴技師で主要な事件の盗聴作業に携わっており、国家保安局でも若くして重要ポストに就いた。ところが、スターリン批判後に、ラーコシ時代の各種の粛清責任がファルカシュ・ミハーイとヴラジミール父子に転嫁され、動乱後のカーダール政権下できわめて不遇な時代を過ごしてきた。カーダール時代の終焉が近づいた時点から、オラルヒストリーによるラーコシ時代の所業を公表する作業に入り、それが1990年に700頁にわたる書物として発刊された。カーダールの関与を暴露することで、カーダールへの復讐をも図ったのである。この出版時点ではカーダールは他界していたが、国家保安警察の関係者たちの多くは存命していた。複雑な人間関係のなかで、このオラルヒストリーの書物は第1版以後、増刷されなかった(現在は古本市場で入手可能)。
このオラルヒストリーのなかで、拉致の詳細やフィールドの極秘尋問に盗聴技術者として立ち会ったヴァラジミールが、実に生々しい状況を語っている。第一級の史料である。ライク拉致は、ライクの口から彼の世話になった東欧の共産主義者の氏名を得ることだった。拷問を受けたフィールドは、スイスで関係のあった中・東欧諸国の共産主義者の氏名を記すことになった。500名を超える氏名リストが作られた。
ラーコシはこれに小躍りして、このリストをスターリンだけでなく、中・東欧諸国の共産党書記長に送った。これをもとに、各国では「アメリカのスパイ摘発」が本格化した。
スーニィ、サライ逮捕からライク逮捕へ
フィールド「自供」によって、共産党本部勤務のスーニィとサライが、アメリカのスパイでユーゴスラヴィア修正主義者の手先として逮捕された(5月23日)。相互に面識があることは否定のしようもなかった。問題はライク外相を逮捕する口実とタイミングである。
フィールド取調べで、数多くの顔写真から知人を割り出す方法がとられていたが、そのなかにライク外相の顔写真が挟み込まれた。寝ることも許されず拷問されたフィールドに、ライクの写真を見せ、知り合いであることを確認させる手法がとられた。フィールドにとって、もう誰でも良かった。「見たことがある」という告白によって、ライクが「ハンガリーのアメリカ帝国主義のスパイの親玉」という証拠とされた。
ラーコシはライク逮捕前日に、ライク夫妻をバラトン湖畔の党保養施設に呼び、懇談していた。別れ際に、「そのうち、赤ん坊を見に行くからな」と伝えて分かれた。この時、ゲルー、ファルカシュ、カーダール、ピーテル・ガーボルがラーコシに会いに保養施設を訪れ、ライク夫妻が出発するまで車のなかで待機していた。この時の様子を、ファルカシュが息子のヴラジミールに語ったことが、オラルヒストリーに記されている。この時の会合で、ラーコシからライク逮捕の指令が発せられた。カーダールは躊躇したが、すでにスターリンの了解も得ていると説得され、それなら「チェスを指すようにライクをブダ丘陵の党施設に誘うから、その帰りに逮捕すればよい」と積極的な提案を行った。後に、ブダペスト党活動者会議で、「ライクに死刑判決を」の決議を行った際に、カーダールがライク逮捕の状況を自慢げに披露したことが知られている。
こうして、1949年5月11日にフィールドが拉致され、5月23日にサーニィとサライが逮捕された。そして、最後にライク外相が5月30日に逮捕された。
ライク外相の取調と拷問はブダ丘陵にある国家保安警察の秘密の館で行われた。保安警察の取調官が全員動員され、24時間の取調が実行された。さらに、特殊(拷問)部隊による拷問も実行された。しかし、ライクはフィールドを知らず、自らの容疑を認めることはなかった。この一連の取調べを隣室で録音していたのが、ファルカシュ・ヴラジミールである。オラスヒストリーにはその様子が詳しく描かれている。
そして、最後の取調べにあたったのが、カーダールとファルカシュ・ミハーイである。「党は犠牲を必要としている」という説得に、自らの運命を悟ったライクは筋書き通りに「自供」した。
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