①再会のよろこび
ここは浜松市内のRケアセンターだ。太平洋沿岸の小さな町にある。発足から15年の建物は、津波ひなんビルに指定されている。
2017(平成29)年1月、わたしは、リハビリテーション専門のS病院を退院して、ここに入所したのだった。脳内出血のため6か月の回復期をすごしたS病院は、ここからよく見える。つぎの安定・維持期は、ケアセンターでおくることになった。
一般療養室は、4人部屋だ。日が差さず、うすぐらい。〈ああ かあさんと ただふたり くりのみ はぜます いろりばた〉。どこからか流れてくる曲に、よけいもの哀しくなる。いつになったら生家にもどれるのだろう。飛んで帰りたいのに。
ラジオが聴けない。買い物もできない。週刊誌の立ち読みもできない。自分のパソコンの前にも座れない。「辺見庸ブログ」のつづきが気にかかる。が、役所と施設の規則はきび
しい。親族の意向もあるのだ。
しかし、書くことは、わたしを置いてけぼりにしなかった。毎日の出来事をこつこつと書きとめていった。すでに発表している「リハビリ日記」を完成したのだった。
食堂は、一般療養室とおなじ2階にあった。50人ほどが集まる。ほとんどが高齢者だ。車椅子を利用している。みな黙りこくっている。テレビは音をたてているが見ているふうでもない。かれらは何を想うているのだろう。ほどなく、わたしは、かれらが名前で呼び合わないことに気づくのだ。
人は、とりわけ、からだとこころと環境のとつぜんの変化に、はげしく打ちのめされるのではないか。S病院に脳こうそくの後遺症になやむ女性患者がいた。〈生きていてもしようがない〉という。返すことばがなかった。人生はみずから下車できない。天寿をまっとうするしかない。胸のうちから吐露されることばは、深刻だ。
ああー。うおー。終日わめく人がいる。食堂で性器をさらける人もいた。〈りっぱなものを人前でみせてはいけません〉。慌てふためいた女性ヘルパーがかれを個室に連れていった。認知症の人もいた。〈おたく、いくつ。あたし100歳。昭和6年生まれ〉。あめ玉をしゃぶりながら話しかけてくる。カラオケ大会で、持ち歌の演歌を熱唱する女性だ。
人生ドラマはたしかにさまざまだと思う。しかし老いは、だれにでも降りかかってくる。避けてはとおれぬ、切実な局面にちがいない。
*
〈やっぱり、あんただったの。流浪の旅でも、こうして他人と会えることは、ささやかなよろこびだ〉。中川さんも気づいていたのか。わたしも、食堂によく似た女の人がいると思った。さっそく個室をたずね、中川さんと再会したのである。
S病院の食堂でみかけた中川さんは、いつも、白っぽいパジャマを着ていた。いまは、えんじ色のセーターに黒いズボンをはいている。大学病院からS病院へ。退院していったん自宅にもどったものの、鉄工場を営む長男夫婦の事情で、施設に入所したという。
〈あのころは、活気があった。まわりの感化もあった。治そうという意欲があった。でもねえ、いまは、飛ぶことも跳ねることもできん〉。中川さんは、S病院では、まじめで美男のH先生に指導されていた。
休日になると、中川さんの個室は親族の見舞い客でいっぱいになるそうな。〈おばあちゃん。100歳まで生きてよ。わたしもその気になっている〉。ひ孫のことばを思いだしながら、うれしそうにハツハツと、96歳の中川さんはわらった。
②T先生の外歩き
朝食をおえて一般療養室にもどると、時計は7時45分をさしている。いつも完食するが、ときどき、はしが使いづらくなる。右手がやけつくようにビリビリしびれるのだ。
そとを見れば、冬空は青く澄んでいる。畑のまえの道を、制服姿の中学生たちが自転車を走らせていく。通学風景は、日常性の象徴のひとつかもしれない。どこにいても、こころは和んでくるものだ。
はやく、そとが歩きたい。何かをしたい。水道の蛇口に手をかざせばお湯がでてくる。空調で室内の温度も一定している。炊事も洗濯も他人まかせだ。こんな便利な生活をしていて、家に帰ったら身の回りのことがひとりでできるのだろうか。
午後からはリハビリの授業がある。大食家で、本好きの理学療法士、F先生につきそわれて1階におりていく。「上を向いて歩こう」がきこえてきた。坂本九ののびやかな歌唱力に感動する。1階にはデイサービスをうける外来者たちもいる。
わたしは、F先生の指導により、マットの上でひざ歩きや屈伸運動をする。からだを動かすのはたのしい。決められた20分はすぎて、あとは自主トレーニングだ。階段の上り下りや自転車こぎなどをする。G先生がようすを見にくる。気持ちのあったかい人だ。F先生もG先生も、S病院の、ご飯よりも数学が大好きというI先生の大学同期生である。
少しずつ、わたしの体力と筋力はついて、歩行しやすくなっていくのか。
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リハビリ室の南側は、おおきなガラス窓になっている。そこから、ゆるやかな坂道が見える。おりからの強風にあおられて、その坂道に、2人が立ち往生している。
〈あっ、T先生だ〉。わが目をうたがう。長身のT先生の、アディダスのブルーのコートが、まるく、ふくれている。先生は両手で、生徒のおじさんをつかまえている。歩行練習の外歩き授業のさいちゅうのようだ。
1か月ほどまえ、わたしはT先生に連れられ、歩いて、施設の正面玄関まできている。
T先生はS病院の理学療法士だ。6か月間、わたしは指導をうけている。T先生の具体的な施術と情熱で、歩行できるようになった。先生はこういったことがある。〈ぼくは、この病院でいちばん勉強した〉と。
たくさんの患者に接しながら、その症状から対処法を獲得していく。大学では学べなかったこと。国家試験に合格していても、個別的な実体験がなければ、ほんものの療法にはならない。現場・実践主義は、どの職場でもだいじなものにちがいない。T先生の実感は、わたしにもよくわかる。
が、それとはべつに、T先生から感じたものがあった。療法士が患者の病気やけがを回復させる。仕事・職務のうえでは当然のことであろう。この既成、義務の関係を超えて、人間が人間にむきあう、人間が人間によりそう、やさしいまなざしを、T先生に感じたのである。文学的な領域の心情かもしれない。わたしは病後に貴重な経験をしたのだった。
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