リハビリ日記Ⅲ ③④

③タウン情報誌の編集長
 雨のあいまを縫って、わたしは地元の新津小学校へむかった。風がつよくて吹きとばされそうになる。校門の右側に、むかしはでっかい富士山が見えた。いまは見えない。きょうは衆議院議員選挙の投票日だ。入場券には投票所の案内がない。通行人にたずねた。体育館だという。その体育館がわからない。矢印の表示がないのだ。
 体育館の入り口の敷居がたかい。職員に手をとってもらう。足の不自由な者のあまえではない。こちらから声をかけなければ、健常者にはわからないと思うのだ。黙っていれば、障がい者は置きざりにされる。
 夜の10時50分、埼玉4区の、自民党から出馬した穂坂やすしの当確が報じられた。埼玉4区は、わたしの前住所の選挙区だ。秘書への暴行と暴言事件で有名になった豊田真由子さんは、落選した。自民党をはなれて無所属で出馬する。「みすぼらしい選挙戦」の結果だ。わたしは、ピンクのスーツ姿の豊田さんをよくおぼえている。今回は黒のスーツ姿に変身して再出馬したが、組織票にささえられてこそ勝てる選挙なのだ。5年の議員実績なぞ有権者には浸透していない。自分の「力不足」を恥じて「人生を学んだ」と、43歳の彼女はいう。
 パソコンの具合がわるい。自宅前の会館では、秋祭りがちかづき、屋台の太鼓をたたく練習がつづいた。ものすごい音だ。使用中にその一撃をくらったのかもしれない。故障が生じても自分では直せない。19年間、パソコンは使用していても、修理は先生まかせだ。またいとこののりひこさんに見てもらうことにする。
 小中学校の同級生のうちやまさんが、たずねてきた。会館で会合があるという。かれは浜松商業高校を卒業している。わたしのいとこに体育をおそわっている。いとこのさかたが〈さかにい〉とよばれ、生徒に人気があったことを知る。
 あしたは、S病院にリハビリの授業をうけにいく。徒歩で50分。道中、歩いているのは1人か2人。わたしの横すれすれを車たちが走っていく。ダンプカーの運転手の無神経が、おそろしい。
 新座のすみこさんにあてた手紙がもどった。どうしたのだろう。彼女は誠意の人。でも、不器用で貧乏をしていた。思いだすと、胸がせつなくなる。

 浜松の生家に帰ったら、いのいちばんに会いたいのは、安池澄江さんだった。タウン情報誌「浜松百撰」の元編集長だ。現在は娘の安池真美さんが継いでいる。スタッフは下位早織さん。「浜松百撰」は「銀座百点」につぐ長い歴史をもつ。
 わたしは、とびいりで同誌に寄稿している。安池さんの配慮だった。「わたしの気になる人」と題して、弁理士の井上清子、ロシア文学者の湯浅芳子、音楽家の尾崎宗吉、プロレタリア詩人の佐野嶽夫について書いた。みな浜松にゆかりのある人物だ。
 それ以来、安池さんとは交流がつづいた。同誌に拙著の紹介もしてもらっている。安池さんは筆まめな人だった。作家、藤枝静男が晩年認知症で徘徊したこと。作家、吉田知子さんの、夫をなくしたときの悲嘆のさま。アップルハウスの社長で、エッセイストのたかはたけいこさんの活躍ぶり。わが同級生ともこさんの姉と食事会をもっていることなど、手紙には記されていた。安池さんは実際に、地域の現場を歩いて人物と会って取材する。タフな人のようだった。その功績の詳細は、わたしには、直接交際していないのでわからないのだ。ぜひ会って話したい人だった。
 2017(平成29)年12月26日付「中日新聞」によれば、「浜松百撰」は12月で60周年を迎えたという。安池さんは91歳。70歳代の人かなと想っていた。静岡市に生まれ、新聞記者をしていた。その後、浜松市に移り住み、浜松の文化とその魅力を多くの人にたっぷり伝達した。翌年1月3日、安池さんは他界したのだった。

④リッチな夫婦旅行
 2018(平成30)年が、明けた。発症してから3年目の年である。
 格別さむい冬だ。からだがブルブルふるえる。こんなにさむい冬を経験したろうか。
  わたしの年賀状は、S病院のリハビリの先生たちにとどいたと思う。手書きで5枚。
T先生、N先生、H先生、Y先生、A先生。それぞれの先生に、それぞれの文面で、こころをこめて書いたつもりだ。
 わが家にまいこむ年賀状は年々減っている。S病院に入院していたおり、病室がおなじだった古味さんから、はじめての年賀状がとどく。週2日のデイサービスに通っているという。上村さんなど4人の共同生活はたのしかった。なつかしいとも、書いてある。80歳代になっても自分の万年筆で、自分のおもいをつづる。そんな彼女の一途な姿勢に、わたしは感動した。
 今年初のリハビリの授業だ。N先生がそばから〈年賀状をうけとったよ。うれしかった〉と声をかけてくる。N先生はリハビリ室の代表者だ。いつも笑顔をたやさず、室内の雰囲気をなごやかにしている。
 前々年の10月下旬、車椅子をおりてつえで歩行する、その合否を決めるテストがおこなわれた。中央のナースセンターには、まるでひな壇にならぶようにして、ナースとヘルパーが一同に集まっている。N先生がよく透る声で、受験する患者のことを説明する。わたしは、担任のT先生につれられ、かれらのまえをつえで歩いてみせるのだ。かれらはじっと、こちらを見ているにちがいない。ひさしぶりのテストに緊張する。ゲンシュクな気持ちにもなる。T先生もいつになく緊張しているようだ。長身でかっこいいT先生が、これまで以上にたのもしく、わたしには映った。
 翌月初旬、合格を知らされた。最終的には主治医をまじえた会議できまるという。T先生のきびしい指導の成果である。これからは、病室のある4階をつえで移動できるのだ。
* 
入院しているとき同室だった上村さんが、再入院したようだ。エレベーターから車椅子でおりてきた。わたしは、玄関ホールで診察とリハビリの時間を待っていた。上村さんは今回もどこか骨折して入院したのだろうか。〈レントゲンをとりにいくの〉と、手をふった。
 4人の病室では、彼女はよくしゃべった。自分のこしかたを他人に話すのが、たのしいことのようだった。人は年齢相応のドラマをかかえている。人の顔がそれぞれ異なるように、そのドラマの中身はそれぞれ異なる。彼女のドラマはおもしろかった。75歳だといった。
 こんな話をした。この国がバブル景気でわいていたころ。上村さんは夫と旅行に出かける。かれは電気工事会社を経営していた。彼女は2人の娘をもつ社長夫人なのだ。
 プラットホームの公衆電話を利用する。台の上にハンカチの包みをおいた。その場をはなれて気づいた。すぐにひきかえす。100万円の包みは、売店にとどけられていた。
 夫の会社は、何社かと、アクトシティ浜松という高層ビルの電気工事を請けおった。〈あたしの知るかぎり、4人は死んでいる〉と、上村さんは回想する。〈従業員が工事中に転落などして死亡すると、その日の工事は中断され、社員は事務所にもどってくるのです〉。
 その後、夫とは離婚した。かれは姉をたよって上京する。新しい妻とのあいだに3人の子どもがいる。上村さんは、夫のやりかたを非難しつつも、じつに淡々と話すのだった。

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