⑦学問に生きる
わが家の庭には、何本ものクチナシの木が植えてある。いま白い花たちが咲きそろう。雑然たる庭には、クチナシの楚々としたたたずまいが一段とうつくしい。ハナミズキ、ユリ、ヤマボウシと、白い花の季節だ。
発病してから2年がたつ。いまも、浜松市内のS病院のリハビリテーションに通っている。湿気のある日は足の具合はいい。しかし、気温が急激にあがると足にまひがでて、歩きにくくなる。ベッドから起きあがると、屈伸運動をしてから歩きだすのだ。
クリエイトへ買い物にいく。道中、ミミズの死骸が目についた。この辺りは民家がつづいているが、ブロック塀の家は見あたらない。ホソバの生け垣だ。家人が伸びたホソバを刈りこんでいる。
整然となった生け垣のホソバを見ながら、わたしはふと思いだす。おととしの暮れのこと、理学療法士、T先生の授業で外歩きをした。歩行の訓練だ。ホソバの生け垣があった。 〈T先生、台風のあとにホソバのはっぱをなめたら、しおからかったですよ〉〈うそっ〉。先生は信じられないという表情だ。でも、ほんとの話である。わが家は太平洋にちかい。少女時代の台風は、雨も風もすさまじかった。津波の不安もある。恐怖の一夜を家族が身をよせながら過ごしたものだ。一夜明けると、台風一過の空は薄青色にひろがり、心地いい。母と連れだって往還を散歩する。カランコロン。下駄の音があたりにひびく。いつだって、自然の猛威は、なりをひそめている。
買い物袋を台の上にドサリとおく。買い物の量がだんだん多くなっている。右腕がつよくなってきた。10時55分にまにあった。先月から、わたしは「らじるの男」を聴いている。今月は担当が俳優の田口トモロヲさんだが、先月担当の温水洋一さんの演技がすばらしかった。迫力があった。ラジオの5分間番組だから、演技というより、声の魅力といったほうがいい。妻と娘のいる中年サラリーマンが、うだつのあがらぬ日日をぼやく。若いころはイラストレーターをめざした。いま脱サラをねがう。かれのぼやきには、せつなさがにじむ。ラジルラジルを聴いてその憂さを晴らそうというのだ。
安池真美さんからメールがとどく。「浜松百撰」の編集長だ。わたしは病後、インターネットのサイトちきゅう座に「リハビリ日記」ⅠⅡⅢを発表してきた。そのうちの何点かを「浜松百撰」に抜粋し転載してくれるという。うれしい。T先生の激励と期待にこたえることができる。拙文は「浜松百撰」8月号に掲載される。
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クチナシの白い花をみると思いだすのが、河野多麻のことだ。平安時代中期の長編『宇津保物語』全20巻を研究した国文学者である。浜松市立高校の先輩だ。わたしは、生前の河野多麻を三鷹市にたずねている。庭にクチナシの花が咲いていた。河野は、質素な夏の簡単服を着ていた。清楚な感じをうけた。夫は翻訳家で哲学者の河野与一だ。子どもはいない。このときのことは拙文「河野多麻―わたしの気になる人⑫」に書いている。河野は〈自分のことは話したくない〉といった。ただ、5人の男学者が河野説を追いおとそうと挑んできたこと。夫が家事をしないことは話した。
河野は、東大がはじめて女性に門戸をひらいたときの聴講生第1号だ。1920(大正9)年から23(大正12)年まで在学する。31(昭和6)年、東北大法文学部を卒業している。学問の道をみずから拓いた女性の先達である。
もう1人、同校の卒業生に有名な女性がいる。天野祥子さん。彼女から拙著への礼状がとどいた。そのはがきの差出人の名前のかたわらに〈(浩の母)〉とあった。母として、世界のノーベル物理学賞を受賞した、息子の天野浩は、自慢したい存在なのだ。ほほえましい感じをうけた。同校の理念、良妻賢母を体現したのは、天野さんかもしれない。
わたしが4年制の法政大学を受験すると伝えたとき、担任のはたの先生は〈ボーイハントするには、いいね〉といった。女性の向学心など、ちっとも念頭になかったのか。同校の先生たちは、良妻賢母にかわる女性の解放など、いっさい指導していない。
クチナシの花の季節になると、わたしはきっと、河野多麻の〈自重しておやんなさい〉ということばを思いだすのだった。
⑧姑いじめ
「ラジオ深夜便」からザ・ピーナツの「恋のバカンス」が流れてきた。ふたごの姉妹のみごとなハーモニーにうっとりする。姉のエミが歌手の沢田研二と結婚した。独身のユミは洋装店につとめ受付係をしていたそうな。同僚だったという鎌田さんからきいた話だ。彼女は、どうしているだろう。孫と暮らしているだろうか。
歩いて10分ほどの、なおこさんの家をたずねる。高校卒業以来の再会をはたした。お茶、リンゴジュース、沖縄の菓子がおいしかった。
浜松市立高校に入学したばかりの級友は、なつかしい。よく覚えてもいる。なおこさんは母子家庭で、母親が信用金庫につとめていた。再会して訊けば、父親は戦死したという。
1クラス50人の生徒のなかに、スズキの社長令嬢がいた。すずきさんは、レースのついたポリエステルのかるそうなスリップを着けていた。更衣室がないから、教室で体操着にきかえる。田園地域から通学するわたしは、綿のやぼったいシミーズだった。プロレタリア文学的に考察すれば、ここは貧富の差が明らかだ。しかし、そのことをわたしが深くうけとめるのは後年のことであった。
なおこさんがいう。〈市立(いちりつ)も男女共学になって、偏差値があがったのよ〉。
そうか。もとは高くはなかったのか。リハビリの先生のなかに同校出身者がいる。ものしずかな美男子のZ先生だ。男女共学後の3回生だという。
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鎌田さんは89歳だと思う。前住所の新座で知りあった女性だ。彼女の顔には、日ごろの苦労がにじみでていた。38歳で結婚した。男性は妻が病死し、3人の子がのこされる。次男がすやすやねむっていた。その幼い姿をみて、鎌田さんはこの子を育ててやろうと思う。以来、苦労の連続だったという。
洋裁師として活躍した独身のころが、彼女の人生のハイライトなのかもしれない。渡辺プロダクションに所属するタレントの、ザ・ピーナツ、中尾ミエ、園まりなどの洋服をつくった。紅白歌合戦の楽屋で仮縫いをした。〈タレントといっても普通の人でした〉。
次男が長じてフィリピン女性と結婚する。鎌田さんも、次男の4人家族と分譲マンションに同居した。異国の嫁は、夫をとられると思ってか、姑ののどもとに包丁をつきつける。家の中からかぎをかける。姑いじめがひどかったが、次男が死んで別居する。
子宮がんを患った嫁が死にぎわに姑にわびたという。〈おばあちゃん。ごめんね。ひどいことして〉と。しかし、鎌田さんの腹の虫はおさまらない。
のこされた高校生と同居する。他人とうまく交流できないかれは、普通高校から特別支援学級に転校する。〈なさぬ仲の子を育てた。孫まで。あたしのような者には、社会保障はないのかしら〉。保険の外交や店員をしながら子どもを養育してきた。夫の遺族年金はない。自分の老後をささえるのに精いっぱいだといった。いま、彼女はどうしているだろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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