⑨運命鑑定家と出会う
早朝からセミたちの声がかしましい。きょうも猛暑になりそうだ。外歩きに出かける。田んぼ道をいくと、ツユクサがかたまって咲いていた。昼になるとしぼんでしまう雑草だが、うすい青色の花たちは、朝のすがすがしさによく似合う。
かたわらをジョギングの女性が通りすぎていった。マイペースで歩いていくしかない。見れば、彼女はずっと先をいく。発症後の、自分ののろい歩みに失望する。スピードがないのだ。前住所の5階建てアパートの階段を、わたしは1日8回以上も上り下りしていたのに。あの健脚はどこにいったのか。
あたりを一巡して自宅へもどる。会館の敷地内にサルスベリの木がある。立ちどまって眺めれば、紅色の花びらがちぢれていて、おしゃれだ。早朝のそよ風にすずしげである。
7月26日。パソコンをひらく。インターネットのニュースが、オウム真理教事件にかかわった元幹部6人の死刑が執行された、と伝えていた。7月6日の7人の処刑につぐものだ。「集団処刑」(村上春樹)ではなく、「国家の殺りく」(辺見庸)だ。わたしは、死刑に反対である。
法務大臣、上川陽子は、これで13人の処刑執行命令書に署名したことになる。大臣に就任してからは、合計16人だ。「慎重に慎重な検討を重ねたうえに」署名したという。上川は、女として最高の社会的地位にのぼりつめた。だが、1人の人に立ちかえったとき、彼女は、この処刑執行命令になにを思うだろう。どう考えるだろう。
今から23年前。事件発覚後、あるメディアが報じていた。死刑囚の1人、豊田亨の祖父が日課としていた、寺の鐘をつくその音が、その日から、ぱたっと止まったというのだ。つらい思いが伝わってきたものだ。
7月29日付毎日新聞に掲載された村上春樹の「寄稿」をネット上で読んだ。事件の被害者感情を思うと、死刑制度に反対の立場としながらも、今回は反対だと公言できないと、村上はいう。被害者感情と、死刑とは、別々に考えなければいけないのに。ほかの個所も読んでいて、世界のムラカミの思考回路ってこんなもんか、と、わたしはおどろいた。いや、あきれたのだった。辺見が「辺見庸ブログ」のなかで村上を批判している。
大和田茂さんの論文を読む。大和田さんは近代文学研究家で、大学の非常勤講師をしている。「群系」第40号に掲載されたものだ。タイトルを「森鷗外『大塩平八郎』の読み方」という。野口存弥の「大塩平八郎」説を追究している。
森鷗外は、明治時代に活躍した作家だ。研究者は昔から今に、今から昔に往還する。大和田さんのその追究のふでが自由自在で、おもしろい。人間への熱いまなざしと探究心があって書けた論文にちがいない。
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色白の肌と黒髪には、黄色のスーツがよく似合っていた。運命鑑定家の高山さんは、花やかな人だった。運命鑑定家と接するのは初めての経験だ。〈あなたは何か、やらずにいられない人ですね〉。そうかもしれない。高山さんは、わたしの生年月日をもとに指摘する。〈結婚運はありませんよ〉。そうであったのか。
彼女は20年のキャリアをもつ。ダイエー志木店のなかに、畳2枚ほどの空間を借りて出店していた。出店するには、経済的基盤がなければならない。彼女は独立独歩の人だ。
わたしの手のひらは赤っぽい。しかも、指には毛細血管の青い線がうきでている。血液の流れがわるいと、高山さんはいう。彼女の忠告に気づきすぐ病院にいけばよかった。しかし『書くこと恋することー危機の時代のおんな作家たち』(社会評論社)を執筆するのに夢中で、それどころではなかった。数年後、わたしは高血圧で倒れている。
占い館をたずねる客は多かったようだ。世相を反映して、その悩みはさまざまなようであった。わたしは2年7か月も、ものかきの好奇心もあって、彼女から話をきいている。ある日、高山さんは、テレビドラマ脚本家のことを明かすのだった。
⑩向田邦子の孤独
リハビリのため、S病院まで行かなければならない。ながい道のりを徒歩で行くのは、しんどい。スタータクシーをたのんだ。運転手はくどうさんだった。先日、くどうさんは、わたしのふらふらした足どりに気づいたのか、車から降りて、わが手をとり家の前まで送ってくれたのである。
いま読んでいる、中村文則の『土の中の子供』(新潮文庫)のわかい主人公も、タクシーの運転手だ。スタータクシーの運転手は、わかくはない。定年退職後のパートタイマーだ。だからかもしれない。みな、客への対応に気持ちのゆとりが感じられる。
イナゴの佃煮が販売されている話を、くどうさんから聴く。少女のころ、わたしは友達ときそって、田んぼ道の草むらをとぶイナゴを夢中で捕まえたものだ。家に持ちかえって、七輪であぶり食べたのをおぼえている。くどうさんも、その経験があるというのだ。
タクシーから降り、病院の玄関ホールでひと休みする。毎週、リハビリ室でみかけていた中年男性が、まつばづえなしで、歩いてきた。〈リズミカルに歩いてますね〉〈ぼくは仕事中に骨折して2か月入院したけど、あとは自宅で自主トレしてる〉。かれは長距離トラックの運転手だという。現場に復帰したい。その切なる願いが回復を速めているのか。いまごろ、かれはニホンのどこかを走っているだろう。
リハビリ室の前で、T先生と会う。〈文字にほそい線がでるようになったね〉。T先生は、わたしの入院時担当の理学療法士だ。退院してからも、T先生には宿題のつもりで手紙を書いてきた。まひのある右手で文字を書く練習のためでもあった。ふでペンをおさえず書けるようになってきたというのだ。T先生のこまかい目くばりをありがたいと思う。
外来担当の先生の施術のあと、体力をつけるため自転車こぎをした。
先生たちの仕事はたいへんだ。先生たちは、ストレス解消や体力づくりをどうしているのだろう。休日には、釣り、ゴルフ、サーフィン、ロッククライミングに励んでいる先生もいる。年長のK先生は、毎日ジョギングをかかさないという。女の先生はどうしているのか。女性のなかで個性を感じさせる、作業療法士のQ先生に訊いてみよう。
帰宅すると、「浜松百撰」の編集長、安池真美さんからメールがとどいていた。〈8月号は好評でした〉。次回の転載は、10月号と11月号だという。8月号には、拙文「戦争未亡人」が掲載された。
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知的で美しい人。テレビドラマ脚本家で、直木賞作家の向田邦子の写真をみるたびに思う。1981(昭和56)年、向田は飛行機事故でなくなっている。
運命鑑定家のなかでも、看板をかけずに自宅で仕事をしている人がある。そんな1人から先述の高山さんは情報をえていた。向田はその人に信頼をよせ、かけだしの30歳のころから他界する51歳まで、手紙で相談していた。〈向田さんは孤独な、かわいそうな人でした〉。その人は、高山さんにいったそうな。
おもてむき華やかな向田の背後には、壮絶なたたかいがあったとも。ライバルの女性脚本家たちとの競りあい。それは仕事が下火になった時期がすごかった。テレビ界での地位を保たなければならない。向田は、女優の泉ピン子を起用して再起を図ろうとした。〈おかみさんのキャラクターを演じられるのは、ピン子しかいない〉。向田は獲得に必死だったが、ピン子は同業の橋田壽賀子のもとに走った。
名作「寺内貫太郎一家」「冬の運動会」などにも、向田の実人生の苦悩は影を落としているかもしれない。その人によれば、長女の向田は親族の複数から金をせびられていた。親族との縁はきっぱり断ちきれない。そこで脚本を量産しなければならない。その葛藤に向田は苦しんだのだった。
向田にはわかいときカメラマンの恋人がいたが、このころもかれが2人いたという。いやしの存在としての男性。1人に落ちつきたかったが、結婚運がなかった。〈親族は知らなかったでしょ〉と、高山さんは推察していた。
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