リハビリ日記Ⅲ ⑪⑫

⑪ふたたび、運命鑑定家と向田邦子のこと
 しずかな田舎道を歩いていると、花の香りがしてくる。草の匂いもする。化学肥料の匂いもする。ある家の庭までくると、あまい香りがしてきた。濃緑のおおきな葉っぱのあいだから、うすい褐色の顔をのぞかせるイチジクの実。しばらく、わたしは見つめていた。食べごろはいつかな。ふと目をあげると、高みからカラスがこちらをうかがっていた。
 数日後、さちこさんがイチジクをもってきてくれた。うれしい。わが大好物だ。〈鳥に食べられないうちに、もいできましたよ〉。
 この猛暑は、いつまでつづくのだろう。午後、ヤマト便で書籍3冊がとどく。社会評論社の社長、松田健二さんからの贈り物だ。ぶ厚い。いずれも社会評論社の刊行物である。長浜功さんの『明治・大正・昭和を生き抜いた孤高の歌人 土岐善麿』。黒古一夫さんの『原発文学史・論 絶望的な「核(原発)」状況に抗して』。村上良太さんの『立ち上がる夜〈フランス左翼〉探検記』。さーて、どれから読もうか。
 松田さんは、わかいころからずっと出版業に情熱をそそいできた。問題意識をだいじにする、信念の人だ。病気をしても立ちなおりのはやい、タフな人でもある。
 8月も31日。クリエイトに買い物にいく。必要なものだけ買った。
 レジへ。アッパッパ服を着た目だつ女性が、列のなかにいた。彼女がうしろをふりむき〈あらっ〉と声をかけた。例の民生委員だ。あらっ、はないでしょう。2月からわが家に訪ねてこない。〈あなたが来なくていいといっても、わたしは来ます〉と、たんかを切っているのに。1人住まいの高齢者を自宅にたずねるのが、民生委員の仕事のはずだ。 
 民生委員は、年間8万円を交通費・通信費・研修費として受けとっているようだ。金額は自治体によって異なるとも。彼らは、どのようなルートで選出されるのだろう。
 わたしはこれまで、役職とは関係のない生き方をしてきた。だから、女の人の役職とその実力にギャップをみとめると、むかむか腹がたってくる。あなた、それで課長。あなた、それで社長。あなた、それで教授。声に出してぶつけたくなる。あなた、それで民生委員?

 運命鑑定家の高山さんは、なつかしい人だ。ダイエー志木店の一隅に出店していた。ダイエーの営業時間に準じて、午前9時30分から午後7時50分まで客の相談に応じていた。64歳の独身男性。かれは、テレビプロデューサー、石井ふく子の事務所で働いているが、〈石井さんは人使いが荒いうえに、給料の支払いが遅れる。演劇好きで30年以上つとめてきたが、辞めたい。その時期はいつがいいか〉。高山さんは、客から有名人の名前をきいてビックリするが、〈来年1月がいいでしょう〉とこたえたという。
 客はさまざまの悩みをかかえて、高山さんのまえに現れる。そこでは、他人には隠したいことまで話そうとする。そうさせるものを高山さんはもっている人なのだ。
 テレビドラマ脚本家の向田邦子が、20年ものあいだ、運命鑑定家に手紙で相談していたというのも、その人への厚い信頼があったからであろう。その人は、高山さんの先輩の同業者だ。師範学校を卒業したあと教師をしていた。離婚して1人住まい。子どもはない。気むずかしい女性のようだが、高山さんとは気があい交流していた。
 向田にとって、その人は、2人の恋人よりも、こころが癒される存在ではなかったか。長姉を利用する親族よりも、〈一部始終〉を知るその人がいて、向田はつよく生きられたのだと思う。この作品はヒットを飛ばせるか。題名はこれでいいか、などと相談してきた。この国がバブル期にむかうとき。向田は、同業脚本家とのはげしい競争の渦中にあった。
 2人の恋人とは。1人は〈20歳年長の、やさしいがうだつのあがらぬ男〉だと、高山さんは話した。もう1人については、くわしくなかったようだ。〈2人とも、向田さんと金銭的な関係はなかったでしょ〉とも。2人は一般の人だった。その人は向田に、〈ぜったい結婚してはいけない〉と忠告していたともいう。
 向田は2戸のマンションを所有していた。そのマンションの裏手にある他人の別荘を借りる。その隠れ家にかれのほうから通ってきたとも。
 視聴者には見えないところで、向田邦子は、壮絶なたたかいをしていた。高山さんからとっておきの話をきき、わたしは、知的で美しい人のさびしげな表情のゆえんがちょっぴりわかったような気がしたのだった。

⑫瀬戸内寂聴の、晴美のころ
 空が澄んで秋のおとずれを感じる。秋は読書にふさわしい季節だ。
 法政大学に通学していたときのこと。最寄りの飯田橋駅ぞいの路上に車がとまっていた。助手席で映画スターの鶴田浩二が本を読んでいた。いい男が独り読書する。すてきな光景に思えたものだ。
 人が本を読んでいる。そんな光景を、最近はほとんど目にしなくなった。
 芥川賞作家、中村文則が『土の中の子供』(新潮文庫)の「あとがき」のなかに、こんなことを書いている。「僕は小説というものに、随分と救われてきた」。小説は「かけがえのないものであり」、また「生きる糧であり続けた」と。 
 いつだったか、理学療法士のT先生が中村文則のことを話題にした。T先生は書店で中村の著書をみつけたという。中村は愛知県東海市の出身だ。T先生の静岡県浜松市とは遠くない。地理的な近さが、とりあえず、T先生の、中村作品にアプローチするきっかけをつくったようだ。中村が芥川賞を受賞するまえのことである。T先生は作品を読んで〈これならいける〉と思った。今も中村作品は読みつづけている。
 中村の先の文章は、読書の意義を語っているのであろう。
 T先生の担当は脳障害の患者が多いようだ。患者たちは精神的におちこみ黙りがちである。わたしもそうだった。よく、T先生は〈スマイル〉といって励ました。リハビリテーションの仕事を通じて、T先生は、人間とその人生への理解をふかめているのではないか。それは読書面では、中村のいう「人間を深く掘り下げようとし、突き詰めて開示するような物語」を読んで理解するT先生のちからになりえているのだと思う。
 きょうはリハビリの授業があった。代行のI先生のていねいな施術のあと、体操をした。ベッドの上に両足をなげだしてそろえる。お尻のちからで前進する。ベッドの端まできたらそのまま後退する。まさに全身運動だ。パワーが要求されるが、充実した授業だった。
 1階の会計の待合室は、午後4時すぎなので、患者はまばらだった。カウンターの係の女性が〈やまむらかつひこさん〉と呼ぶ。もしや、むかしの同級生では。すぐに、わたしはうしろから声をかけた。〈やまむらくんでしょ。なみこよ〉〈東京にいってたんじゃなかったか〉。かれが応えてきた。何十年ぶりの再会だろう。中学校卒業以来、会っていない。〈わたしはリハビリに通ってるの〉〈おれはからだがボロボロだよ〉。かれは近く入院するという。

 作家で僧侶の瀬戸内寂聴は、現在96歳である。1973(昭和48)年、平泉中尊寺で得度をうけるまえは、瀬戸内晴美といった。
 これも運命鑑定家の高山さんから聴いた話だ。
 高山さんは、わかいころ渋谷の占い教室に通っていた。講師の佐藤六龍が授業中に話した。〈また男がちがうぞ〉。佐藤はもとは出版社の編集者だった。出版社の上階の窓から下を見ている。瀬戸内晴美が原稿をとどけにきた。車でいっしょにくる男がいつもちがっていたいうのだ。瀬戸内のかけだしのころのこと。離婚して独身にもどったころの挿話だ。
〈女でなくなったので瀬戸内は出家したのだ。それまで金はスッピンピンで、京都に寂庵いをつくって布施が入るようになった〉とも、佐藤はいいたい放題だ。セクハラ発言もはなはだしい。女はバカだのチョンだの、脳みそが男より5グラム足りないなどともいう。女生徒は教室から去っていく。高山さんは9年間、聴講した。この教室で、先のその人とは出会っている。
 瀬戸内晴美は1956(昭和31)年、小説家デビューした。晴美が寂聴になったのは、51歳のときだった。
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 拙著『本と人の風景』(ながらみ書房)を読んでみてください。瀬戸内晴美が離婚した
 夫、酒井悌を見かけたときのことを、わたしは少しだけ書いています。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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