リハビリ日記Ⅲ ⑬⑭

⑬コロムビア・トップの二男
 赤色のヒガンバナの花をみると、不吉な感じがする。なぜだろう。いつもの散歩道をいくと、田んぼのあぜに何本か咲いていた。20年も前の10月、まきこさんと埼玉県日高市内のヒガンバナの群生地をたずねたことを思いだす。田んぼに囲まれた所だが、そこは観光スポットになっていた。人たちでにぎわっていた。しかし、花は心底うつくしいという感じはなかった。やはり、1本1本はかすかに不吉だった。
 版画家の柳澤紀子さんから、藤枝市のエマギャラリーでの個展とトークの案内状がとどく。テーマは「未在」だという。柳澤さんは、海外に進出して個展を何回か行なっている。
意欲的な芸術家だ。拙著『平林たい子―花に実を』(武蔵野書房)など3冊の装丁を担当してくれた。
 案内状には、常葉大学准教授の堀切正人さんがメッセージをよせている。「版画は本質に遅延するもの、遅延するがゆえに本質を認識させるものとして顕現するのだ」。「本質に遅延する感覚として、我々にもっともなじみふかいものが身体の痛みである」と。柳澤版画に迫る、的確な批評であろう。
 柳澤さんの作品には、男性と動物が登場する。男性には顔・頭がない。さらに男性は、動物に背をむけている。人の考える力の衰退を象徴しているのだろうか。「身体の痛み」は、心の痛みにほかならない。現代人がかかえる深刻なテーマを柳澤さんの作品は追究しているのだと、わたしは思う。
 新津小・中学校の同級生だった内山さんと小楠さんが、自宅に遊びにきた。なつかしい。何年ぶりだろう。2人とも年齢よりもわかく見える。モンブランケーキを持ってきてくれた。わたしは、キリマンジャロの缶コーヒーを用意していた。小楠さんが、赤門幼稚園のときのひき伸ばした写真をみせる。ぼうず頭、おかっぱ頭がならんでいる。が、わたしは写っていない。1か月で中退しているから。ながいくんのいじめに遭い、通いたくなくなったのである。〈ぼくも、あさひのいじめにあった〉と、内山さんがいう。〈でも、いまは許してるよ〉とも。寛大である。わたしはいまも忘れていない。ながいくんが目の前に現れたらぶんなぐってやりたいくらいだ。小楠さんはだまって聞いている。いじめの被害体験はなかったのか。
 同窓会の開催についてはまとまらず、2人は帰っていった。

 13年間のヨガ教室はたのしかった。思えば、100分は充実したひとときであった。わたしは毎週土曜日、ヨガマットをもって、いそいそと、志木駅東口ちかくの教室に通ったものだ。レッスンをかさねていると、書くという仕事の時間帯は夜から朝に変わった。仕事の能率もあがるようになった。
 指導者は下村友二さんだった。下村先生は、漫才師、漫談家のコロムビア・トップで、のちに参議院議員をつとめた下村泰の二男だ。俳優の下村彰宏さんの兄でもある。
 生徒は5人だった。スポーツセンターの大教室ではないから、下村先生の指導はマイクを使わず肉声だ。落ちついていて聴きとりやすい。わたしが一番に注目したのは、先生のことばがみな和語だということ。カタカナ語はない。洗練されたことばづかいに、漫才師の父親の影響を察したものだ。
 ヨガは、からだとこころの調和をはかるものだという。両者を融合させるのが呼吸法である。下村先生は、ことばの力によってレッスンを誘導していく。先生が考案したその一連の流れのなかに、ヨガ特有のポーズが組みこまれる。すきのポーズはむずかしかった。
 わたしはいつも教室に早めに着き、下村先生と対話した。子どものころ、芸能活動に多忙で家を空ける父親とは、テレビの画面をとおして会っていたという。父親は地方公演にでかけ、難病にくるしむ患者の現状を知った。彼らを助けたい熱い思いが政界への進出を決意させたとも話した。先生からこんな話が聴けるのも、ヨガ教室のたのしみだった。

⑭長嶋茂雄の長男
 台風一過は惨めだった。起床すれば、ぼろ家のトタン屋根はめくれあがり、窓ガラスは割れていた。夜来の猛烈な雨と猛烈な風による、台風24号の影響はすさまじかった。静岡県下を直撃した、中部電力管内の停電。わが地域は49時間もつづいた。停電時間は各地で異なるが、生まれて初めてのできごと。わたしは2夜、暗やみのベッドの上で考える人をしていた。人生はとおして生きがたいもの。ちょっぴりの不安が脳裏をよぎった。
翌日のこと。〈小屋の前をかたづけようか〉。わたしは姪のくにこに伝える。彼女は仙台から里帰りしていた。数時間後。〈ガラクタのなかからこんな物がでてきたよ〉。細長い木片を手にして、彼女はうれしそうだ。たて160センチ、よこ12センチ、厚み1センチの木片。それには墨で短歌が、絵の具でボタンの花3本が、書かれてある。色はあせていない。柱や壁などに掛ける飾り物のようだ。
 署名は〈譲〉とある。その名前から岡部譲を想った。高校生のころ、わたしは父の言いつけで正月用の掛け軸を座敷にかかげていた。そのなかに岡部譲の書があった。
 かれは、わが祖父と交流のあった人物のようだ。江戸時代中期の国学者、賀茂真淵が関西方面にむかうときわが家に立ちよった。賀茂の日記に書かれてある、と教示したのは、賀茂の子孫でその研究者、岡部譲だった。父が祖父からそのことを聞いている。
 インターネットで検索してみた。岡部譲は、1848年、現在の浜松市中区東伊場に生まれ、1937(昭和12)年に死んでいる。遠州最後の国学者で、明治、昭和の歌人だ。賀茂真淵の末孫である。漫画家で科学ジャーナリストの岡部冬彦の祖父にあたる。1883(明治16)年に発足した「遠江私立衛生会」の初代会長として、コレラ対策、伝染病撲滅に力を尽くしたとも、ネットには書かれていた。
 さらにネットには、岡部譲の書物『岳洋集抄』の画像があった。よく見れば、木片の〈譲〉の筆跡は、画像の「譲」によく似ていると、わたしには思えたのだった。
 S病院の理学療法士、T先生とH先生は、浜松シティマラソンに出場するのだろうか。第15回大会は、2019年2月17日に開催されるという。休日になると2人は、ランニングに励んでいる。佐鳴湖1周は6キロの道のりを秋風に吹かれながら走る。長身のT先生の俊足に追いつこうと懸命なH先生。2人の姿が目に鮮やかに浮かぶようだ。 
 2人は大学の同窓生である。職場では先輩と後輩だ。T先生は、後輩のH先生をきびしく指導する立場にある。が、勤務時間をはなれれば気のあう友達どうしなのかもしれない。公園のベンチに掛けて、作家、湊かなえの作品について語りあうような。夜空を見あげては星をかぞえるような。最近行なわれたH先生の結婚式に、T先生は、黒色のスーツにネクタイ姿で出席したそうだ。
 きょうのリハビリは、代行のH先生が担当だった。右足が着地するたびにドスンとからだにひびく。〈もうすこし早足になれば、脚のうらがわが伸びてくるよ〉。先生のアドバイスを肝に銘じた。改善されなければ、T先生のマラソンの応援に行けない。

 プロ野球巨人軍の名選手だった長嶋茂雄は、立教大学を単位不足で卒業した。大学の職員がわが友人に話したそうな。ほんとだろうか。
 その息子、長嶋一茂はもう52歳だという。わたしは、かれが立教大学の学生だったころ、新座中央通りでよく見かけている。わが住まいのちかくに、かれの住む立大の学生寮があった。
 ある日。長嶋一茂は、サティの紳士服売り場でネクタイを選んでいた。傍らには後輩だろうか付きそっている。薄茶色のコートをスマートに着こなす長身のかれは、充分、タレントの雰囲気だった。大学野球の選手とは思えなかった。
 ある日。わたしは、アルバイトからもどりラーメン屋によった。受験指導はくたびれる。21時30分の食事。チャーハンを食べおわる。と、長嶋一茂が奥の席からレジへ。恋人らしい女性といっしょだ。食事代をはらうかれの財布はふくらんでいた。〈長嶋は大学生なのにヴィザカードをもってるよ〉。例の友人の話を思いだす。
 あれから30年。長嶋一茂は現在、タレント、野球評論家、俳優として大活躍のようだ。
7月28日付「日刊ゲンダイ」によれば、「テレビ界で旋風を巻き起こしている」という。
大衆うけするかれのタレント性は、長嶋一茂の持って生まれた資質なのかもしれない。それは、学校の通信簿の成績や大学の単位数なんぞとは関係ないのだ。

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