①平林たい子の「直す権利」
家電店の花壇にスミレの花がいっぱい咲いている。ファミリーマートで豆大福と「日刊ゲンダイ」を購入した帰り道、わたしは、その可憐な姿にちょっぴり興奮したのだった。でも、なんだか、花の紫色がうすい。新座や川越で目にした色よりも。きびしかった冬の寒さのせいだろうか。
先日、この前の道路を「スーパーおじさん」が通過したという。昨年8月、山口県大島町で行方不明の男児を発見した尾畠春夫さん。78歳のかれは元魚屋さんで、今はボランティア活動家だ。このたび、東京から郷里、大分県日出町までの1320キロの徒歩旅行を計画した。2月23日夕刻、尾畠さんはパトカー3台に先導されて、浜松の地に、見物人たちの前に現れた。見物にかけつけたともゑさんは、〈かなり疲れた様子でしたよ〉と、わたしに話した。小柄なかれは、日にやけて色黒であった。赤色の、ジャンパーとはちまきは、かれのトレードマークだそうな。軽量のアルミ製リヤカーには、寝袋のほかにうなぎパイやはったいだんごが載っていた。みな差し入れの品のようだ。尾畠さんは、日々、歩きながら何を想うているのだろう。この地で挑戦を中断しようと心に決めていたのだろうか。気ままな一人旅のはずが、多くの人に囲まれる。〈娘さんの忠告があったみたい〉とも、ともゑさんは話した。尾畠さんは、公園のある西の方向へ歩いていったという。
美容院、伽羅に行く。客はだれもいなかった。伸びた髪をカットしてもらう。美容師は60代の気さくな女性だ。15歳で中学を卒業して、1年間、美容学校に在学する。その後、美容院に住みこみで働いた。30歳で独立する。〈女主人はどこでも意地悪でしたね〉。弟子の独り立ちを阻んだというのだ。わたしは、彼女の体験談を聴きながら、どの世界にもあることだと思った。女が、女の飛翔のつばさを折りたがる。高学歴の女たちの世界にも、今だってあるのではないか。
30数年前のこと。わたしは、伝記的作家論『平林たい子―花に実を―』(武蔵野書房)を刊行した。「ほるぷ図書新聞」の編集者、あとうさんから出版社に〈大東文化大のわたなべ教授が書評するので、1冊贈ってくれ〉と、いってきた。しかし、わざわざ匿名にした女教授の書評は、拙文をことごとく否定するようなひどいものだった。彼女の実力を疑った。嫉妬心まるだしだ。若手の女の登場を抑えつけたいらしい。大学の先生だからいい書評が書けると、編集者が思いこんだのも、かれの偏見と勉強不足にちがいない。
「毎日新聞」の書評はよかった。「ウィメンズブックス」(松香堂書店)の木下明美さんの書評も感銘ふかかった。今でもネット上で読むことができる。「平林たい子の表と裏をも書くはげしい人物論」「感性と理論のゆう合した」評伝だという。読みかえしても同誌編集長の書評は、わたしには納得がいく。
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昨年11月のことか。財務大臣、麻生太郎は発言した。「自分で飲み倒して、運動も全然しないのが原因で病気になった人に医療費を支出するのはあほらしい」と。病気は自己責任によるものか。いや、ちがう。運命鑑定家によれば、病気は遺伝子によるところが大きいという。貧困による栄養不良もある。誰でも安心して医療がうけられる社会の実現をこそ発言すべきだ。麻生さん。あなた、それで政治家ですか。
平林たい子に「私は生きる」という自伝的短編がある。7年の闘病をへて、戦後、1947(昭和22)年11月に発表された。たい子の才能と実力が発揮された秀作だ。生き物としての人間の身体感覚がリアルで、どきっとさせられる場面がある。
たい子と夫の小堀甚二を思わせる、中年夫婦が登場する。「この国は中華民国のあちこちに日の丸を立てて進撃して」いた。戦前のプロレタリア解放運動は崩壊し、夫婦関係の建て直しが求められている。妻は結核をわずらい夫に介護される身だ。夫にかゆをつくらせ髪を結わせる。便器をとらせる。妻は感謝と満足で涙をながす。ある日、夫はいう。「俺に気の毒だという気持ちは起こらないのか」と。妻は応じる。「起こらないわ。人は病気にかかったら直す権利があるんだわ」と。
たい子は夫に、病気を治す権利を、権利という言葉では伝えなかったと思う。権利とは敗戦後の言葉だ。たい子は、敗戦後まもなく執筆した作品のなかで用いたのである。どうしても生きたい。たい子の生命の感動からほとばしりでた、真率の欲求にちがいない。
麻生の発言を知ったとき、わたしは、たい子のこの言葉を思いうかべた。たい子の主張は、将来へ希望のもてた、人として生きえた時代のものだ。しかし今、大臣の暴言に明らかなように、人たちは医療現場でも格差に苦しめられている。人としてのさまざまな権利が踏みにじられた、生きづらい時代にあるのだ。
②山代巴の「人権の折目」
大股に歩ける。足もたかく上がる。いつもとちがうぞ。どうしてだろう。早朝、わたしは、自宅前の小道で歩行練習をつづけている。発症してから3年。時の恵みもあると思う。しかしそれだけではない。そうだ。きのうも、「e-foot」を着用した。そのせいかな。
3月末から、わたしは、デイサービスYAMADAに通いはじめた。作家の辺見庸さん流にいえば、「さはやかジム」に。自宅から車で5分ほど。東海道沿いの閑静な住宅地にある。運営者は、接骨院院長で、柔道整復師の山田好洋さんである。
「e-foot」とは〈easy-foot〉〈らくな歩行〉から命名したものだと、発明者の山田先生は明かす。わたしは、その歩行具を着用して教室内を往復した。ゴムの素材が両足に柔らかい。からだが軽い感じ。つま先とかかとが上がる。ひざが安定する。歩行中のつまずきとひざくずれが防止される、というのだ。
歩行装具はすでに市販されている。両足で36万円と高額だ。しかし、それを使用した人が、つま先がひっかかるという弱点を指摘した。山田先生は、弱点に着目して改良をほどこす。若いときから研究心と創意工夫が旺盛だった。去年から、施設の管理者で、妻の悦世さんとともに、普及をめざして製作しているという。
週1回のトレーニングは3時間だ。たのしい。まず、柔道整復師の増田先生が、脳と目と上半身と手と指の体操を生徒10人に指導する。左手のグーに勝つものを右手に、と指示されても、わたしはすぐに反応できない。グーチョキパーの遊戯を何十年もしていないのだ。気くばり上手の先生が〈練習すればできますよ〉という。
次のマシーン体操もおもしろい。柔道整復師、菅沼先生の手ぎわのいい誘導で、パワープレイトに挑戦する。〈これは、宇宙から帰還した飛行士が、筋力回復のために使うもの〉だそうな。ストレッチとスクワットを行なう。お尻とふくらはぎの筋力がつけばいい。
緑茶と水を、先生がわたしたちの手もとに運んでくれる。慈しみの水だ。おいしい。
4月14日。空は晴れた。掛川・新茶マラソンの日だ。S病院の理学療法士、T先生とL先生が出場する。この「リハビリ日記Ⅲ」にはすでに書いた。T先生は42キロのフルコースに。L先生は10キロコースに。わたしは応援に行けない。
T先生は、そよ風に吹かれながら、何を想うて走っているのだろう。つま恋リゾート彩の郷をスタートし、茶畑をかけぬけ、海の方向へ南下していく。フルコースには5000人が参加するという。途中には坂が多くて、上り下りが大変のようだ。〈途中でへこたれたらバスでもどってくるよ〉。へこたれるとは思えない。T先生は根気づよい人だ。施術中も手をぬかなかった。T先生の真剣な顔がうかんでくる。コースの途中でランナーに提供されるという、掛川名物の、イチゴとメロンを食べているだろうか。
翌朝、近所に住む、L先生のおば、さちこさんから情報がとどいた。〈2人は完走しました。おいのLは、完走が第1目標。T先生は、いいタイムでゴールインしたそうです〉。
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S病院に入院していたときのこと。病室の患者たちが、看護師、介護士、療法士の対応を批判している。そのとおりだと、わたしも思う。ところが、当事者のかれらが来室すると、彼女たちは、ぴたりと口を閉ざしてしまうのである。
作家の山代巴を知っているだろうか。1959(昭和34)年に上映された「荷車の歌」の原作者だ。望月優子と三國連太郎が出演した農村ドラマだ。
『連帯の探求』(未来社)のなかに山代は書く。「日常の茶飯にまで人権の折目をたたむこと」が大切だと。自分たちの不満や疑問や苦情を相手にわからせなければ、批判は単に悪口に終わってしまう。自分たちの人権意識を生活のなかに深く浸透させて、自分のものにしなければならない。そこに民主的な人間関係も生まれてくるのだという。
平林たい子も山代巴もすでに故人である。しかし、彼女たちの苦闘の人生体験から産みだされた言葉は、今に生かされる、貴重なものではないか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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