リハビリ日記Ⅳ ③④

③武蔵野市民学校のこと
 ナツミカンの小さな、白い花がいっぱい咲いている。新緑の葉はつやつやしている。4月下旬のこと。ナツミカンの花は、清少納言の愛でた木の花のひとつ。花芯は黄色だ。こぶりの木にたくさんの実がなっている。父が植えていったものだ。少女時代のナツミカンは、高い木になっていた。さおでふり落としては食べた。すっぱかった。
 手でもいだ実を、西隣のりえこさんに持っていく。かんきつ類が大好きだという。翌日、りえこさんは、手製の大判ドーナツを持ってきてくれた。おいしかった。うれしかった。ありがたいことである。わたしがすずかけセントラル病院に入院したときも、りえこさんは見舞ってくれた。94歳の母、ちよこさんと夫、かずおさんも一緒だった。 
 立憲民主党の支持率が3パーセントに下がったという。1月4日、党首の枝野幸男は幹部とともに伊勢神宮を参拝した。その夜、作家の辺見庸はブログのなかで、枝野幸男をメチャメチャ斬った。辺見庸の憤りは沸点をこえた。翌日、「辺見庸ブログ」からその文章が削除されていた。枝野さん、あなた、それで期待された党首ですか。
 ふと、わたしは、運命鑑定家の高山さんの話を思いだした。〈乗りきっていける運勢ではありませんね。よろしくない〉。高山さんの机の上には、民主党、菅直人第2次改造内閣の大臣たちの生年月日一覧表が、ひろげてあった。2011年1月ころのこと。枝野幸男は、内閣官房長官であった。高山さんは、菅、片山、前原、江田、枝野、海江田など大臣の生年月日をもとに運勢を占っているのだ。民主党政権はじつに短命だった。
 枝野幸男の声はいつもでっかい。しかし中身が乏しい。言葉が政策を語っていない。主語と述語が乱れている。枝野は、読書しているのか。日記を書いているのか。
 早朝、いつもどおり、自宅前のほそい道路で歩行練習をしていた。前方から男の子が自転車に乗ってくる。わたしが近づく前に気づいて、男の子は、自転車から下りて道路の端で待っている。色白のかわいらしい男の子だ。小学2年だという。
 後方をふりむくと、その子は黄色いチョウを手にとって、じっと観察している。なぜか、チョウは羽を折り、地面に墜ちていたようだ。しばらく、わたしは、その小さな後ろ姿に見とれていた。すがすがしい気分になってきたのだった。

 旧住まいのアパート近くに、南大門という韓国料理の店があった。李ルセさんと妻のまりこさんが営んでいる。アスパラガスなど盛りだくさんの具のビビンバがおいしかった。そこでアルバイトをする兼岡敏二さんは、武蔵野市民学校の校長、自主上映会の主宰者だ。市民に映画を無料で見せる、奇特な人物である。
 2015年8月15日。わたしは、モノクロの中国映画「南京!南京!」を見せてもらった。「日本劇場未公開」のもの。中国では2009年4月に初公開された。日中戦争の南京戦とその後の南京事件に取材したもので、日本兵の側から描いている。
 日本兵の従軍慰安婦が何人か登場した。日本兵の残虐性が告発される。戦争は女たちを犠牲にするものだ。わたしはつよく思った。日本兵が「生きることは、死ぬのよりも厳しい」と訴えるシーンもあった。
 志木市の柳瀬川図書館の視聴覚室には、40人が集まった。高齢者がおおかった。
 上映後、参加者が輪になって討論会を行なった。1月に他界した、影書房の社主、松本昌次さんが講師を務めた。その後も、いまも、兼岡さんは、李さんのアドバイスをうけながら自主上映会を継続しているはずだ。

④二宮勝男さんのこと
 五月晴れだ。うすいブルーの大空に、白い雲がたてに数本のびている。退屈な連休が明けると、シルバー人材センターの会員数人がおとずれた。午前7時30分から午後3時まで。庭の草取りと木々の手入れなどしてもらう。短時間でかたづいた。家人の手を総動員しても、こんなに早くはできない。
 翌朝のこと。あれっ! あかく色づいたサクランボがすっかり消えていた。
 5月23日夜。インターネットを開いたら、ある記事が目にとびこんできた。「パリ人肉事件・佐川一政を介護する弟が実名告白」(「AERAdot.」)。西岡千史さんが書いている。小説家の佐川一政さんは70歳。2013年に脳こうそくを発症し、いまも神奈川の病院に入院しているという。弟の佐川純さんは68歳。1日おきに兄を見舞っている。「バカな奴だけど、絶縁できなかった」そうだ。
 1981年6月。32歳の佐川一政は、留学先のパリの自宅で、友人のオランダ人留学生を銃殺した。彼女の遺体の肉を切りとって食べるが、心神喪失による不起訴処分になって、帰国した。
 1984年1月、佐川一政は『霧の中』(話の特集)を刊行する。当時、わたしはこの著書を志木図書館で読んだ。人肉はトロの味がしたというくだりだけは、いまも覚えている。
実体験のリアリティーはあるのだろうが、格別の感動はなかった。
佐川純さんはべつの記事のなかでは、「幼い頃の仲のよかった兄弟に戻った気がします」(「デイリー」)と話す。しかし、兄弟愛といってしまえば簡単だ。佐川さんは、それを超えるものを感じとっていないか。38年のながい道のりのなかで、探りあてたものがあるにちがいない。血縁を超える、人が人によりそう、やさしさとまなざし。そして、佐川さんの意思のちからを、わたしは想わずにいられない。
 きょうは、2か月に1度の受診日だ。すずかけセントラル病院に行く。院長の横山徹夫先生の診察をうけてから、リハビリ室によった。理学療法士のT先生に、拙文「辺見庸Ⅳ―わたしの気になる人⑭」(ちきゅう座)のプリントをわたす。T先生のおでこが日焼けしている。休日の海釣りのせいだろうか。掛川・新茶マラソン大会出場からは3週間もすぎている。いっしょに出場したL先生の顔は、うすいピンク色だ。H先生もいつもの小麦色だ。
 マラソン大会には、T先生、L先生、H先生、V先生が出場し、そろって完走した。〈ぼくらの雄姿・勇姿を見てほしかったなあ〉。T先生が残念そうにいう。わたしも、T先生のカッコいい走行姿が見たかった。きょうのT先生の晴ればれした表情は、ひと仕事おえた人の、充実感と達成感によるものなのであろう。
道中、T先生は余裕があったようだ。たのしみにしていた、当地名物のイチゴ・メロン・オレンジ・戦国汁、バナナを食べた。さらに両の手のおにぎりをほおばりながら、みごと 完走したのだった。
〈翌日は休暇をとって、のんびりしていたよ〉。T先生のつぎなる挑戦は、何だろう?
 つぎの日、わたしはデイサービスYAMADAに行く。柔道整復師の先生たちの、自然体の気づかいにほっとする。生徒10人の「さはやかジム」だ。わたしたちは、3時間の授業にいくつもの体操を行なうのだが、ボールの登場が意外やおおい。大小さまざまのボールたち。ボールは、まーるい。へこむ。もとにもどる。柔軟性があるのだ。
 いちばん大きなボールの上に腰をかける。弾みをつけながら、からだを上下にゆらす。80代のあきこさんの、いかにも愉しげな表情。わたしは、お尻がずれやしないかとひやひやする。桝田先生が、傍らから見守っている。どっしりとした、体格のいい先生だ。
 午後4時すぎからは、10人が椅子にかけて輪になる。全員で、中ぐらいのボールを投げたり受けたりする。心の交流である。活動的な山田先生の指導だ。声をあげながら数をかぞえる。200回。ボールに刺激されて、からだの細胞が目を覚ましたようだった。

 二宮勝男さんは、文藝春秋物流センターの元社長だ。36歳で独立し31年間、そのポストにあった。先に書いた南大門のあるビル内の1階に、妻と住んでいた。ある日、わたしは歩道のベンチで話を聴いた。
 二宮さんは、〈作家は異常な人〉という。平常心を欠いた作家がいるとは、べつの人から聞いていた。〈石原慎太郎は左利き。書きとばしの原稿は判読しにくかったと、担当編集者がいった〉と。〈渡辺淳一は、パーティーにはいつもちがう、銀座のホステスを連れてきた〉と。〈女流作家のなかで、最も、高樹のぶ子の本が流通していた。彼女はよく工夫する書き手だ〉と。〈宮尾登美子はどの作品もおなじで、ちょっと趣向を変えているだけ〉と。わたしには、おもしろい話だった。編集者とはちがう視点だと思った。
 二宮さんはさらに、こんな話をしたのだった。二宮さんは退職後、都心の書道教室に通っている。80代の、あかい背広を着た〈いっぷう変わった〉先生が、あるとき、つよい口調で明かしたそうな。〈彼らは、ろくすっぽ練習しない。きみたちのほうがまともだ。上手だ〉と。その教室には、超党派の国会議員たちも在籍していた、というのである。

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