リハビリ日記Ⅳ ⑤⑥

⑤川端康成の女友達
 今年もまた、さちこさんの庭にマツバボタンの花が咲いた。さちこさんが丹精こめて手入れする庭の地面に、這うように咲いた、ピンクと白の花が、かれんだ。マツバは、葉がとがった松葉に似ているからか。ボタンは、色が大輪の牡丹の色に似ているからか。命名のゆらいを考えてみた。
 ファミリーマートで、コロッケパンとクリームパンを買う。5月の連休から、店員のまつおさんがいない。辞めたという。まつおさんは、小太りの50代の女性だ。新築した家のローンが夫の給料だけでは払えないので、自分も働いていると、彼女はわたしに話した。夜10時から朝9時まで。11時間の勤務は、さぞ、きついだろうと思った。不機嫌な日もあった。どうやら、まつおさんはからだを壊したらしい。
 むらかわさんは、いま、どうしているだろう?
 最近、60万人もいるという、中高年のひきこもりが問題になっている。ひきこもりは、どの世代にもあるものだ。現代的な問題にちがいない。
 むらかわさんは、わたしとおなじS病院の入院患者だった。30代の後半に見えた。いま想うに、かれはひきこもりの日々のなかで、発症したのではなかったか。脳にかかわる病気を患っているようだった。わたしは、病室の女患者のおしゃべりから逃れて、よく食堂に行った。手紙を書いたり日記をつけたりしていた。
 授業を終えたT先生が、むらかわさんの車椅子を押しながら入ってきた。テレビの前に行く。病室にはもどらず、むらかわさんの求めに応じたのであろう。かれはしばらく、画面を食いいるように見ている。歴史にかんする番組だった。
 あるとき、見舞いにきた父親がいった。〈おまえなあ、寝巻きを着変えろよ。ふつうの洋服を着ろ〉。むらかわさんはいつも寝巻き姿だった。父親は子どもに、かなり手こずっているのだろう。小柄で地味な人だった。子どもは、父親の言葉にこたえない。
 リハビリ教室でも、むらかわさんはいつも黙っている。車椅子から下りて室内を、T先生にわきから抱えられながら歩行訓練する。生徒(患者)のがわに、回復したいという意思の伝達がないと、理学療法士の先生は、生徒の90キロの巨体をさらに重たく感じるのではないか。仕事熱心なT先生の大変そうな表情が、いまも目に浮かんでくるのだった。

 同人誌作家だった大井晴は、戦後の一時期、作家の藤沢周平と鶴岡の湯田川中学で同僚だった。わかい2人は文学について熱っぽく語りあった。その後、藤沢は上京して作家として大成していく。大井は同人誌「女人像」に所属して小説を発表していく。
 芽のでない書き手、といえば、「女人像」の花田歌と石塚あつ子もそうだった。
 あるとき大井はわたしに、彼女たちの、作家、川端康成とのかかわりについて話した。彼女たちは美人だった。茶道の心得もあり、鎌倉の川端邸をたずねては大作家の相手をしていたという。川端は女性作家にたいして気さくな人だった。
 1971年4月のこと。川端は彼女たちに、〈ぼくは応援に行きたくないんだ。どうしよう〉と、相談をもちかけてきた。〈先生、およしなさいよ〉。2人は即座にこたえた。応援とは、東京都知事選挙に立候補した秦野章への応援である。
 川端は1968年、ノーベル文学賞を受賞している。受賞に際し、自民党政権に世話になったというのだ。受賞をあとおしされた。その見返りのように、自民党陣営から選挙の応援を要請されたのだった。女友達の助言があったのに。断りきれなかったのだ。和服姿で秦野を応援する川端の、新聞記事の写真をみて、わたしはみじめな姿だと思った。川端は政治のちからに負けたのかもしれない。秦野は美濃部亮吉に負けた。
 川端康成が自殺したのは、翌年4月のことだった。

⑥萩原葉子の留守録
 「二流文学原稿」と題する添付ファイルがとどく。岸野春子さんからだった。岸野さんは、わたしの浜松市立高校時代の同級生で、奈良女子大に進学した。卒業後も、奈良に住んでいる。現在、「大倭紫陽花邑」という月刊新聞の編集をしているという。
 「二流文学原稿」は、所属する読書サークルの機関誌に発表したもの。「もうどこにもない私のユートピア」を「心の中に残しておこう」と、文章にきざんだエッセイだ。岸野さんが舘山寺の母親の実家ですごした幼少時代の日々。こまかく書かれた、その生活のいとなみのディテールは、とてもなつかしかった。
 たとえば黒砂糖作り。岸野さんが書くように、むかし田舎では手ずから作っていた。砂糖小屋にかまどが6基ほどならんでいる。サトウキビの絞り汁を煮つめるのだが、完成までに一昼夜かかる。各家で、かまどに薪をくべる番をする。完成した黒砂糖は、色も味も硬さも異なる。各家の個別作業の成果なのだが、じつは貴重な共同作業だったのだ。
デイサービスYAMADAに行く。週1回、わたしは通所している。きょうの迎えの車の運転は、柔道整復師、安形先生だった。先生のきびきびした態度が、気持ちいい。〈この仕事がたのしい。やりがいを感じてます〉と、安形先生は話した。
 でんでんむしむしカタツムリおまえのあたまはどこにある。ジム内に増田先生の声がひびく。明るい声だ。幼少から音痴で、歌うのが下手だが、わたしも声をあげて歌いたくなる。手と指、頭と目の体操をしながら、生徒全員で歌うのだ。
 6月13日付「辺見庸ブログ」のなかに、健足、患足とあった。後遺症のわるい足を患足というのか。
 山田先生が解説する。両足を交互にたかく上げる。健足をたかく上げると、ささえる患足が踏んばる。踏んばる時間がキープされると、お尻の筋力はだんだんと付いてくる。なるほど。その動作を毎日の台所で継続するとよい、とも。山田先生の解説に納得がいった。わたしはいつも、足の上げ下げがせっかちになっている。反省した。
 最後のしめくくりは、みんなでボール投げ。300回。言葉を交わすのではない。1つのボールを介して、人と人とが心を通わせるのだ。あらっ、ほんださんが笑ってる! ほんださんが喜々としている。いつも目をつむって黙考している生徒だ。わたしはおどろいて感動した。そうだ。ここに、ひきこもりのむらかわさんを誘ってみたい。再生のきっかけのヒントがないだろうか。

 6月2日。NHK「ラジオ深夜便」―「わが心の人」に、映像作家の萩原朔美さんが出演した。作家、森茉莉の思い出を語った。聞き手は迎康子さん。茉莉は、「自由さをすーっとやってのける、うらやましい人だ」と、朔美さんはいう。ふと、わが脳裏に作家、有賀喜代子の言葉がよぎった。〈文学パーティーで見かけた森茉莉さんは、気の毒なくらい、質素な服装でしたよ〉。しかし、他人の目を気にしない質素な身なりも、茉莉一流の自由さによるものかもしれないと、わたしは思った。
 森茉莉は文豪、森鷗外の娘。作家、萩原葉子は詩人、萩原朔太郎の娘。生前、2人は住まいが近いこともあって、親しい交流があったという。2人の仲介役をした萩原朔美さんは、萩原葉子の子どもである。
 葉子は著書を刊行すると、ダンス・トークショーを開催した。1997年1月の『輪廻の暦』(新潮社)刊行後、わたしは、世田谷文学館でそのショーを見学している。高齢の葉子がくろいコスチュームを着て、わかい男性ダンサーにリードされながら踊る。葉子のからだが持ちあがるたびに、わたしはどきどきはらはらした。同時に、葉子の奔放さに感動したものだ。そんな母親の姿を、朔美さんはカメラに収めていた。ショーの司会役はアナウンサー、迎康子さんだった。
 『輪廻の暦』の書評を、わたしは「信濃毎日新聞」に書いている。拙文にたいする萩原葉子の礼状は、じつにていねいで、心がこもっていた。
 『パ・デゥ・シャ―猫のステップ―』(集英社)についても、「信濃毎日新聞」に書いた。
萩原葉子は、2002年4月5日、こんな留守録を吹きこんでくれた。
「ええ 内容もちょっと自分では書けないというか 見えないというか あの おもしろいというか 気づかないところをめがけてくださって あの ユニークな書評でうれしかったでした」。 
 このメッセージは、全文ではない。わがノートには全文が記してある。
 それから3年後、萩原葉子は、84歳で他界しのだった。

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