リハビリ日記Ⅳ ⑦⑧

⑦懐かしい小坂多喜子
 あの曲がり角の家の庭に、クレマチスの花が咲いているはずだ。行ってみよう。歩行訓練だ。
 7つの白い細長い花びらが、ぴんと外側に伸びている。上品な雰囲気がただよう。紫色のクレマチスも、すてきだった。しばらく、わたしはたたずんで眺めていた。
 さらに歩く。小さな駐車場がある。ここには、父親がハンセン病をわずらう家があった。どこへ越していったのだろう。少女のころ、こんなうわさが流れた。遠い療養所に隔離されていた父親が家にもどりたがっている。母親は同意するが、子どもたちは反対すると。家族は、世の中の、差別と偏見に、どんなに苦しんできたことか。
 6月28日、熊本地裁は、561人のハンセン病家族の集団訴訟に、勝訴をいいわたした。国の責任を認めて家族への賠償を命じたのである。あの家族はどんな思いで、この勝訴のニュースを聴いたろう。7月9日、首相は控訴を断念する方針を表明したのだった。
 脳内出血を発症してから、3年あまりが経過した。7月に入り猛暑がよけい身に応える。こんな日は、早朝からトマトカフェジュニアに行きたいものだ。すずしい室内で読書したい。旧住所の駅前は便利な所だった。ここにはカフェはない。つまらない所だ。
 トマトカフェで、作曲家の北原じゅんを見かけた。城卓矢の「骨まで愛して」を作曲した男性だ。70代後半にみえた。小柄な人である。パチンコ好きな人は、離れた所からやってくる。かれは、カフェの前のパチンコ店の開店時間を待っていた。フォークシンガーのばんばひろふみのおじだといった。歌い手のオーディションの審査員もしていたと。わたしは、気さくなかれに尋ねてみた。〈ばんばんは、平山みきと別れて、どんな女性と再婚したのでしょう?〉。〈ふつうの人ですよ〉と、かれは答えた。ばんばん、とは、ばんばひろふみの愛称である。ばんばんの「さちこ」が、わたしは好きだ。はやいテンポの歌い方がハートをせつなくさせる。北原じゅんの姿は、半年もしないうちに見かけなくなった。

 作家の小坂多喜子は、誰よりも気持ちのよい人だった。手紙にも心がこもっていた。
 交流のあった作家たちへの印象批評も、率直でおもしろかった。作家の佐多稲子は、長編小説「体の中を風が吹く」を「朝日新聞」に連載する。その担当デスクとのロマンスについて話してくれたのも、小坂多喜子だった。
 小坂は、昭和初期に上野壮夫と結婚し、プロレタリア文学運動にかかわっていた。戦後は同人誌に自伝的な小説を発表していた。文学への愛情を地道につらぬいた人だ。
 小坂は、平林たい子文学賞の受賞をのがしたといって、ものすごく悔しがった。『女体』(永田書房)が最終候補作になったが、受賞は中野孝次の『麦熟るる日に』(河出書房新社)だった。〈中野さんは尾崎さんの家にいりびたっている〉と、小坂は攻撃した。しかし、小坂も中野も、作家、尾崎一雄の推薦によったのではなかったか。
 平林たい子文学会は、前年の優秀作をたずねて、100通のアンケートを作家や評論家に発送する。30通の回答がよせられた。そのなかから4・5作が最終候補になる、というのだ。文学会の事務を担当する女性から、わたしはじかに聴いている。その経過で実権をにぎっていたのが、理事の戸田房子。最後に、戸田自身が受賞している。夜郎自大な存在だ。理事長で作家の河野多恵子は、その間の経過を、どのように見ていたのか。
 小坂が受賞したがった気持ちは、よくわかる。しかし、彼女が思うほどに作品は成功していなかったと思う。わたしは25年間、「信濃毎日新聞」読書欄の書評を担当した。その眼力でいえば、小坂文学にはテーマとの格闘がない。文章も描写にかがやきがない。作家は自分をつきはなして、客観化できないものなのかもしれない。
 小坂は、こんな話もした。小説家の不倫話だ。かれは学生結婚する。しかし、家を出てべつの女性のもとへ。有名企業にかれは勤務していたが、その女性に食べさせてもらっていたとか。7年が経過してかれは、妻のもとにもどったという。かれが日本文藝家協会理事長に就任するのは、それより後年のこと。小坂の語った不倫話は、かれの文学世界にどうように影を落としているのだろう?

⑧哀しい中野鈴子
 『「大志」の細道 十年前の最終講義』(社会評論社)がとどく。著者、長浜功さんからのうれしい贈り物だ。大学教師30年の足跡が誠実にきざまれた力作である。装丁は中野多恵子さんの担当だ。初夏の青空をおもわせ、清楚な感じがする。
 もう1つは、日本近代文学研究家の大和田茂さんからで、文芸誌『群系』第42号。その論考は、「特集8・15 戦争と文学」15編のなかの1編だ。「広津和郎 ニヒリズムの彼方に―敗戦後小説『狂った季節』をめぐって」というタイトル。
 大和田さんは「狂った季節」をていねいに読みこんでいる。1940年から1942年の太平洋戦争期前半に生きる、主人公の、ニヒリズム、わずかな抵抗、葛藤、内的自由への希求、生きる意思などを、たくみにたぐりよせている。
 戦時下、作家として知識人として、「戦争協力を暗に拒んだ」広津和郎にして描けたもの。広津は、「社会的には無為な生活を送っていた」。「しかし、内心では戦時下の葛藤や批判があり、何もできない己への自嘲やいら立ちもあったろう」と、大和田さんは、広津の心のふかくを推察しているのである。
きょうは定期の受診日だ。早朝から、すずかけセントラル病院へでかける。まず、頭部の単純MRI検査をうける。20分かかった。30分もすると、その結果はわかる。
 主治医の横山徹夫先生から〈問題はない〉といわれる。その診察にちょっぴり安堵した。目の前には、わが頭部が映しだされている。こまかい血管模様の映像にぞっとする。3年前の出血の傷跡は治っていると、主治医はいう。そうか。よかった!
 フロアを歩いてくると、エレベーターからT先生が降りてきた。〈あっ、先生。休日は川釣りでしたか。それとも〉〈マラソンの練習でした〉。T先生は、わたしの入院時、リハビリテーションを担当してくれた、有能な理学療法士だ。第15回掛川・新茶マラソンに再挑戦するというのである。L先生も出場するようだ。来年4月のこと。わたしも、掛川の新茶が飲みたい。応援に行けるだろうか。
 4月から病院の全職員の制服が変わった。新しいデザインだ。T先生の上着のえりもとが窮屈そうである。事務職の女性の制服もエレガントなのだが、もう少しゆったりして、機能性があってもよかった。
 翌日は、デイサービスYAMADAに行く。入室するわたしたちの手を、柔道整復師の、安形先生、増田先生、菅沼先生がさりげなくとり、エスコートする。
 ねむたい日だ。椅子にかけて手と足と指と頭の体操をしてから、発声練習につづく。こいでさんがこっくりこっくり。わたしもおおあくび4回。増田先生がこちらをじろっとにらんでも、生理現象はとめられない。
 〈パワープレートは300万円もするんですか〉〈うーん、そのくらい。浜松市内の介護施設で置いているのは、ここだけ〉。施設長で接骨院の院長でもある山田先生は、答える。
アメリカ製ですべての表示が英語。パワープレートの上にのり、リピートのボタンを押して、ストレッチ、スクワットの5つのポーズをとる。それぞれ30秒ずつ。ブルルーンブルブル。電動の刺激が足部の前と後ろにつたわり、筋力が強化されるというのだ。

 詩人、中野鈴子は、作家、中野重治の妹である。佐多稲子が発表した「体の中を風が吹く」の女主人公のモデルだ。
 鈴子は、意志に反した「嫁入り」を2度も、両親にさせられた。兄、重治は東大を出て、プロレタリア文学運動をつうじて出会った、女優の原泉と結婚しているのに。
 鈴子は、『中野鈴子全詩集』(フェニックス出版)に収録された詩のなかに、「花もわたしを知らない」と書いた。それは、当時の鈴子の孤独な心情だったにちがいない。
 ほかの詩には、「一度の見合いによって手渡される生涯の予約」と、鈴子は書いている。「人が立ち向かう意志はわが意志そのもの」であるとも。
 鈴子は「古い村」をでて、独り、兄のいる東京へ行くのだった。
 〈水道も、とまってて。鈴子さんは貧乏に徹していました〉。作家、若林つやの証言だ。
 日本近代文学研究家の大牧冨士夫さん作成の「年譜」によると、鈴子は、52歳まで生きた。「年譜」は全詩集の巻末に掲載されている。
 数年前、大牧さんはメールで、〈鈴子は恋多き女でした。2人の男性を愛した〉と、教示してきた。愛するに値する男性が鈴子に存在したとは、しあわせなことではなかったか。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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