リハビリ日記Ⅳ ⑪⑫

⑪里村欣三のでかい口
 空にむかって、ピンク色のムクゲの花が咲いている。早朝の散歩道だ。木の花はうつくしい。いつ見ても。どの花も。
 ついでにファミリーマートに行く。新発売の「焼おむすび」と「北海道ポテトサラダ」と新聞を買おう。信号機が朝日にまぶしい。ここには歩行者のための信号機がない。右手からくる車たちのための信号を見る。赤だ。渡ろう。
 店内に入るや背後から大きな声がした。〈おばさん、信号は赤だったに、危ないよ〉。帰り、2方向の信号を見てみた。たしかに、わが進むべく前方向の信号と車たちの横方向の信号には、3秒ほどのズレがある。前方向の信号は、ひずるしくて見づらいのだ。
 市役所から介護保険の認定結果が知らされる。「非該当」。要介護者または要支援者に該当しないという。つまり「自立」。9月30日までは「要支援1」。この2つの違いは、いったい、どこにあるのだろう? わたしには自覚はない。だって、相変わらず、脳内出血による後遺症と不自由な生活に悩まされているのだから。
 ふと、3週前に拙宅をおとずれた訪問調査員の顔が浮かんだ。20分ほどの簡単なテストだった。その間、彼女はわたしの顔と目を見ていない。そわそわしていた。
 わたしはいまも、包丁が使えない。キャベツ、ホウレンソウ、ピーマンは手でちぎれる。が、ジャガイモ、ダイコン、ニンジン、スイカは切れない。小芋や野菜のはしなどは、マクドナルドのプラスティック製ぎざぎざナイフを使う。ホットケーキを注文したとき付いてきたナイフだ。3年も捨てないでいる。
 わが調理の守備範囲は、じつに狭くなっているのだ。生活面の介助者の手は、むろん欲しい。しかし身近にいない。自らやらざるをえないのである。認定テストの点数は低くなるのか。介助者の手が多いほうが、点数は高くなる。だとすれば、そこには矛盾はないか。
 先月、拙文で紹介した三島利徳さんから文芸誌「農民文学」がとどいた。日本農民文学会が発行する、最新号の322号である。三島さんが編集長だ。全国の会員たちの、小説、評論、エッセイ、詩、短歌、俳句が掲載されている。なかでも、秋田市在住の北条常久さんの「伊藤永之介の農村への疎開」が、力作だ。

 作家、里村欣三の耳は大きい。口もでかい。
 真夏のある日。大空社出版から送られてきた『里村欣三著作集』(全12巻)分売案内書の写真を見ながら、つくづく思ったものだ。
 里村は1902年、岡山県備前市に生まれ、1945年、フィリピンで従軍作家として戦死している。42年の人生だ。
 1922年、里村は、「文藝戦線」に「苦力頭の表情」を発表し、小説家として認められた。代表作は『河の民』(有光社)。ほかに『第二の人生』(河出書房)などがある。
 さらに案内書の「略年譜」には、1934年、「徴兵忌避」(脱走)を自首した、とある。 文学史研究家の高崎隆治が解説する。「彼が脱走兵であれ忌避者であれ、この国の文学者の中で、処罰を覚悟で軍隊を拒否したただ一人の人間だ」と。
 〈いや、入れられなかったわよ〉。池田千代がいう。〈入ったわよ〉。里村夫人の前川マスヱが応える。わたしは若いころ、2人に取材している。里村がげんこつを口のなかに入れられたか、尋ねたのだった。「文藝戦線」の同人は、よく大酒を飲んだ。酔っぱらうと、里村は〈さあ、いまからやるから、みていろ〉といって、得意の芸当を披露したのだそうな。でかい口だから、前川の思い出どおり、入れられたのであろう。
 2人は、農工大学生寮の寮母をしていた。寮母として学生たちに慕われた。わたしにも優しい心づかいを示してくれた。前川は、3人の遺児を育てあげている。

⑫山代巴の「秘密を守る懐」
 定期の受診日だ。すずかけセントラル病院に行く。横山徹夫先生の簡単な診察をうけた。
 1階で小・中・高校時代の同級生、あつこさんと待ち合わせ。2階に行き、理学療法士、T先生と会う。L先生がかたわらにいた。
 それから回転寿司の店へ。黄金色に実った稲田が、タクシーの窓外にひろがる。車はゆったりと走る。見れば、かなり高齢の運転手だった。
 店内に落ちつくや、あつこさんが口を切る。〈T先生は初対面なのに明るくて、気さくなかたね。L先生は若くて、将来有望という感じ〉。T先生は仕事が多忙らしく、読書もままならぬようだ。中村文則文学のその後の感想を、わたしは聴きたかったのに。
 なかなか、お気にいりの寿司が回ってこない。雑談しながら食べる。めったにないひとときだ。独りでぼそぼそ食うよりは、あつこさんとたのしい時間が過ごせた。
 デイサービスYAMADAに行く。わたしは10月から、介護保険認定者ではなく「事業主対象者」の1人だが、トレーニング内容はいままでどおりだ。
 発声練習のあと、増田先生がこっそり話した。〈浜でとったアサリを焼いたんだけど、なべが焦げついて、洗うのがたいへんだったよ〉と。そばから菅沼先生がいう。〈ドンキで買った88円のサンマを焼いて食べた。ぼくは魚の骨をとるのが、小さいころから上手だったなあ〉と。柔道整復師の先生たちの休日の過ごしかただ。山田先生、安形先生、桝田先生は、どう過ごしているのだろう。
 ボール体操は、いつもおもしろい。小さなやわらかいボールを両ひざにはさみ、上から輪をはめる。10人の生徒が声をかけあいながら、輪を外に開いたり内に閉じたりする。どこの筋力か、強化されているのだろう。からだが、ほかほかあったかい。
 辺見庸は「辺見庸ブログ」のなかで「対韓ヘイト」について書く。「全身が凍える」と。
 平野啓一郎はいう。「日本のマスコミが無責任に」「嫌韓世論」を「あおる」と。10月12日付「ハンギョレ新聞」は、平野が「朝日新聞」の「隣人」で応えたインタビューをとりあげた。男女、民族、徴用工などというカテゴリーではなく、「人の人生の共感できるところを探るべき」とも、平野はいう。
 辺見庸も平野啓一郎も作家である。人間、人間性を尊重する文学者の意見に賛成だ。
 20年以上前になるだろうか。わたしは韓国の、従軍慰安婦をさせられたという女性の講演をさいたま市の会館で聴いた。彼女は、自分の人生をメチャメチャにされたと激しい口調で訴えた。自分の人生をないがしろにされれば、誰だって怒る。徴用工の人は、技術が習得できると思った。慰安婦の女性は、工場勤めができると思った。しかし劣悪な、屈辱的な労働環境におかれた。だましたのだ。だまされて激怒、憎悪するのは当然ではないか。自分の身におきかえて考えてみよう。他人の激怒、憎悪に共感できると思う。

 わたしが保存する作家たちの手紙のなかに、山代巴のものもある。やさしい字体だ。文面も心がこもっている。自分は上京後、東京女子美術専門学校に入学している。もともと作家志望ではなかったと、山代は書いていた。
 1912年、山代巴は、広島県府中市に生まれ、2004年、東京都杉並区の施設で他界している。92年の人生だった。
 『荷車の歌』(角川文庫)が代表作だ。中国山地を舞台にした農村ドラマである。荷車引きの夫婦が登場するが、16歳で結婚した妻の生きかたに作者の主眼はある。女の人生上の苦悩が切実に描かれているのである。
 妻のせきはたしかに、過酷な労働と貧困に苦しんだ。そして夫、茂市の不倫と。苦難はいくえにも彼女をおそったのだった。さらに追い討ちをかけたのは、「秘密を守る懐(ふと ころ)」が周りにいなかったこと。このことが最も、彼女を悲嘆に追いやったのではないか。
「あなたにだけいうのだから誰にもいわないで」「いうもんですか」。こう約束しながら右から左につつぬけにする。山代は、戦後の農村の妻たちが身に着けていた1つとして、『連帯の探求』(未来社)のなかに紹介する。
 すでに、戦後70年以上が経過する。しかし現代でも、そんな場面はよく見かける。
 互いが互いの「秘密を守る懐」にならなければ民主的な関係はできない、とも、山代はいう。民主的な関係は、努めて築きあげるものだ。民生委員や公務員や介護従事者などに課せられた守秘義務とはちがうものである。

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