リハビリ日記Ⅳ ⑬⑭

⑬吉田知子の『わたしの恋の物語』
 わが家の門(かど)を出ると、空からつよい、あまい香りが降ってきた。おやっ? キンモクセイの木はどこにあるのだろう。見あたらない。ふと、脳裏をよぎった。ダイエー志木店前にキンモクセイの高木があった。橙色の花びらが道路を敷きつめていた。清掃の女性があわただしく掃きよせていた。なつかしい風景が思いだされたのだった。
 真っ黄色いチョウが、ひらひらと目の前を舞っている。ここは浜松市内の、海沿いの小さな町である。強風がなければ、おだやかな所だ。
 西隣のりえこさんが焼き芋をもってきてくれた。炭火で1時間もかけて焼きあげたものだという。ほかほかあったかい。いいにおいだ。こんなにおいしいおやつはない。りえこさんのいつも変わらぬ気持ちが、うれしい。りえこさんとは家が隣どうしなのに、なかなか会えない。会えば、あれこれと話がはずむ。わたしの思考の盲点に、りえこさんはヒントを注いでくる。かしこい人なのだ。
 最近報じられた、神戸市の小学校での4教員による1教員への暴力事件。これはひどい。世も末だと思った。校長と教頭は、同僚たちは、4人のいじめをどのように見ていたのだろう。見て見ぬふりをきめていたのか。
 近所にすむ町内の役員が、しんみり、わたしにこんなことをいった。〈みんな、聴く耳をもたないよね〉と。自分だけがよければよい。他者の存在を視野に入れない人が多くなっているのではないか。民主的な人間関係は確立されていないのである。
 一方的で、悲惨な人間関係があちこちに蔓延している。こいつはよわいと見れば、とことんいじめぬく。排除する。抑えつけられた人は、恐怖におののき、声もあげられない。やられっぱなしなのだ。他者への思いやり、想像力、人権への配慮なぞは、皆無にひとしい。先の教員だけではない。指導的立場にあるはずの宗教家にだって、冷酷で、権力を欲しがる、傲慢な人はいる。わたしは、現に目にしている。
 車で7分ほどのS病院に行く。拙文「リハビリ日記」最新号をT先生にとどけたかったのだ。8時40分。リハビリスタッフ室から出てくる理学療法士・作業療法士たちは、ねむたそうだ。わたしが入院していたころ面識をえた先生たちの何人かは、辞めている。T先生の大きな目も、ぱっちり開いていない。T先生は、拙文をいつも読んでくれる。大切なポイントをおさえた感想も伝えてくれる。T先生と会えて、よかった。ほっとした。

 作家、吉田知子は、1934年、浜松市三組町に生まれている。浜松北高校の出身だ。1970年には、『無明長夜』(新潮社)で芥川賞を受賞した。吉田知子はそれまで、吉良任市とともに同人誌「ゴム」に自作を精力的に発表していた。このころのことだと思う。吉田さんは、明大生の実妹にたくして、自作の批評を平野謙に依頼してきた。文芸評論家の平野謙は、明大の文学部教授でもあった。〈彼女には、まだだなあと応えておいたよ〉。 
わたしは平野先生からじかに聴いている。吉田知子は、それから快挙まで努力したのだ。
 わが手もとには、吉田さんの手紙も保存されている。達筆だ。作家、大原富枝と字体が似ている。ものを率直にいう誠実な人、という印象を、吉田さんの手紙からはうけた。
 受賞後、吉田知子の作家活動は順調だった。わたしは「信濃毎日新聞」に『客の多い家』(読売新聞社)と『千年往来』(新潮社)の書評を発表している。
 そのあとに、吉田さんから『千年往来』の没になった「あとがき」の原稿がとどいた。ユニークなあとがきだった。いかにも吉田知子らしい、気取りのないものだった。担当編集者は、どこが気に入らなかったのだろう。自己保身のせいだったのかもしれない。
 「あとがき」への返事を、わたしは書かなかった。ずっと気がかりできたのだった。
 吉田知子に『わたしの恋の物語』(角川文庫)がある。著者自身の恋物語ではない。「生きものたち」、表題作、「春」などを収録した短編集だ。「解説」のなかに文芸評論家の白川正芳がこう書いている。吉田文学は「新しい才能の出現」だと。1970年から1980年にかけてのことだ。
 諸短編を読めば、わたしがこれまで研究してきた女性作家の作風とは異なる。吉田文学は、身辺雑記でも、実体験を赤裸々に描いたものでもない。従来の自然主義的リアリズムの手法でもない。感性と観念と論理が融合したものだと思う。
 先述した平野謙は、吉田・吉良が主宰する「ゴム」の標榜する「反リアリズム」がなじめなかったのかもしれない。

⑭吉屋信子の『自伝的女流文壇史』
 近所の郵便局に行くと、カウンターに男性の顔写真の記念切手があった。NHKの大河ドラマ「いだてん―東京オリンピック噺」にとりあげられた主役、田畑政治の顔写真だ。田畑は1898年、浜松市成子町の造り酒屋に生まれた。1964年の東京オリンピックを招致した中心人物だ。日本水泳連盟会長を長年つとめている。
 何年か前、わたしは、昭和初期のプロレタリア解放運動にくわわった活動家、木俣鈴子について、ある女性に取材した。〈兄のまさじが代々木で、木俣さんをよく見かけたといってましたよ〉。そう応えた彼女は、田畑政治の妹、田畑アキである。兄の政治は「朝日新聞」の記者をしていた。代々木とは、共産党本部のある所だ。木俣はそこに出入りし、当時は非合法だった共産党にかかわっていた、というのである。アキは木俣とは、小学校から女学校まで同級だった。女学校は現在の浜松市立高校だ。木俣鈴子については、拙著『平野謙のこと、革命と女たち』(社会評論社)を読んでみてください。
 自宅前のほそい道で歩行訓練をしていた。わが日課だ。脳内出血を発症してから3年余りが経過する。自転車に乗った見知らぬ女性がとおりかかった。〈うちの主人、脳こうそくで退院してきたけど、毎日15分、手のひらを陽にかざしてますよ。いいみたい〉。そうか。わたしもやってみよう。親切な人のアドバイスだ。
 午後、デイサービスYAMADAに行く。柔道整復師の増田先生が、何かよいことがあるのか、うきうきしている。〈通所者を送迎する車から、あべさんを見たに〉。早朝、ファミリーマートから自宅にもどる道中で、先生はわたしの姿を見かけたらしい。気がつかなかった。わたしはいつも、転ばぬように下を向いて歩いているから。
 きょうはジムに体験生がきた。彼女は町内の女性だ。50年も自宅で豆腐屋をやってきたという。〈良質のあぶらでおあげを造ってたけど、協定の価格におさえられてました〉。おあげ。なつかしい。〈スーパーの豆腐は買う気がしない〉とも、彼女は話した。
 3時間のトレーニングは慣れてきた。かたい小さな球を足の5本の指でつかみ、移動させる種目に挑戦する。患足の右足では1つもつかめない。左足でやっと1つ。担当の安形先生が成果を記録していた。足を地面にしっかりと踏みつけることが、幼少時から弱かったのかもしれない。最後のボール投げは、いつもたのしい。10人の生徒が互いにボールを投げては受けとる。400回。回数をかさねるうちに、いつもだまりがちのつついさんの表情が、ほころんできたのだった。

 経済評論家の勝間和代が、恋人で同居者の会社経営者、増原裕子と別れたという。裏切りは卑劣な行為だが、増原は自らを律することができなかったのだろう。勝間さんはしょぼくれないで、増原さんよりもいい女を見つけてやるぐらい、タンカを切ったらいいのに。
 昭和初期に有名な同性愛の破局があった。作家の中条(宮本)百合子が、ロシア文学翻訳家、湯浅芳子のもとを去り、共産党の宮本顕治のもとに走った。湯浅はかなしみ、協会の勤めをやすむ。1週間がたち湯浅はあらわれた。〈きょうからやるぞ〉と、宣言したそうな。同僚で作家の若林つやから聴いた話だ。
 最後まで愛をまっとうしたのが、作家の吉屋信子と秘書の門馬千代である。1923年に出会って半世紀。その間、門馬は吉屋の有能な秘書だったが、1957年、吉屋の養女になっている。吉屋の軽井沢の別荘など、膨大な遺産をうけついでもいる。
 わたしは、吉屋の「徳川の夫人たち」など歴史小説は読んでいない。法大教授だった駒尺喜美の、フェミニスト・吉屋信子説に共鳴し、吉屋文学には関心をよせてきたのだった。なかでも『自伝的女流文壇史』(中公文庫)が好きだ。宮本百合子、林芙美子など10人の女性作家について書かれている。同性への、吉屋信子のあったかい、まっすぐなまなざしは、感銘ふかい。
 1つ、気がかりな点がある。「女人藝術」の編集者だった若林つやが、吉屋にもカンパを依頼した。〈門馬さんにきいてみなくちゃ〉という。結局、吉屋はカンパをしなかったという。吉屋がその場で独断し行動できなかったのは、なぜだろう? 2人の力関係なのか。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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