リハビリ日記Ⅳ ⑰⑱

⑰辺見庸と編集者
 米津海岸に沿ってサザンカ通りが東西にのびている。年末のこと。その通りを姪の運転でとおりすぎた。赤い花たちがつぎつぎと目にとびこんでくる。だが、さほどうつくしいとは思わなかった。サザンカの花は、民家の垣根に咲いて風情があるものなのかもしれない。少女時代、ここは風光明媚な松並木がつづいていた。マツの根方に腰をおろして遠足のおにぎりを食べたものだ。
 しばらく走ると、70分3000円という看板があらわれる。海沿いのラブホテルだ。
知人の女性が勤めている。独り暮らしの76歳。夕方から翌朝までフロント係と清掃係をしている。〈今のわかい人はねえ、お金のあるときはよその高いホテルにいって、お金がなくなると、うちの安いホテルにくるだに〉。経営者は県外の人だという。むかしはこの辺は畑だった。すっかり変わってしまった。
 標識がみえてきた。その先は篠原町か。S病院の理学療法士、T先生の釣り場がちかい。
T先生は、わたしの入院中リハビリを担当してくれた。先生の顔はいつも日にやけていた。
大海原に釣り糸をたれて、先生は何を想うているのだろう。夏から初冬にかけてヒラメを釣るのだといった。〈釣りたての魚は、脂がのってておいしいよ〉。手ずからさばき、炭火で焼き、舌鼓をうつのだそうな。〈最近は釣れなくなってしまった〉とも嘆いていた。
 新座市の木村さんからメールがとどく。新座市はわたしの前住所である。木村さんは充実した日日を過ごしているようだ。にいざほっとぷらざで、定期的に絵本朗読会を「ぽけっと」の仲間とともに行なっている。クリスマスの日には、「モチモチの木」を90人の前で聞かせたという。さらに、池袋の東京芸術劇場で交響曲「第九番」をうたったとも。東洋大学管弦楽団など200人の合唱団員とともに盛りあがったという。妻はアルトで夫はテノール。木村さんは多趣味の人。メール交換で、自分と他人のためにたのしく過ごしていることも、わかってくる。
 大和田茂さんから「初期社会主義研究」第28号がとどく。大和田さんは日本近代文学、プロレタリア文学の研究家だ。本号は、マイノリティと差別の特集である。このような専門誌でなければ、福田英子、伊藤野枝など埋もれた人物とは出会えない。彼らの活躍したその時代背景や評価も興味ふかい。研究者の意欲的な成果から学ぶものは貴重だ。
 「季刊文科」第79号のコピー4ページもとどいた。大和田さんは「中央線沿線のプロレタリア文学者たち」を寄稿している。昭和初期には、こんなにも多くの書き手が中央線沿線に住んでいたのか。大和田さんの専門分野であり、詳細に彼らを浮上させている。

 作家の辺見庸さんは幸せ者だ。ランチのひととき。担当編集者が「愛読者カード」のメッセージを涙ぐみながら読みあげる。編集者は作家とともに、著書が世におくりだされるまでのドラマを、さらにその後の反響までも、共有するのだ。「辺見庸ブログ」でそのことを知り、わたしも思わず涙ぐんだのである。そのシーンを想像したら、心からうれしくなってきたのだった。
 昨秋、辺見庸は、詩文集『純粋な幸福』(毎日新聞出版)を刊行した。感動的な傑作だ。内容はエッセイでもあり評論でもあり小説でもあり、さまざまな分野を包みこんでいる。しかしそこには、詩的センスがきらきらと輝いているのである。ほかの作家にはまねのできない技量と才能と努力によるものだと思う。担当編集者は、辺見庸の、文章と言葉の魅力をぞんぶんに引きだしている。
 「愛読者」は、パーキンソン病の69歳の女性、がん闘病中の60歳の男性など。彼らは「自身の痛みのなかから」著書を読んでいると。「だれも知らぬ淵に沈み、あえぎながら言葉を発している」とも、辺見さんは感想を述べる。読者の1冊の本とのすばらしいめぐりあいにちがいない。辺見庸の、よき編集者との出会いと誠実な関係持続のたまものだ。
 (拙文「書評『純粋な幸福』辺見庸・著 毎日新聞出版・刊」をちきゅう座に発表しま した。読んでみてください。)
 
⑱吉行淳之介と編集者
 河井案里さん。あなた、それで国会議員ですか。公職選挙法に違反しても辞職しない。自己の強欲にしがみついている。だれのための国会議員なのだろう。政治は国民のためのものだ。河井さんは政治に向いていないのかもしれない。
 彼女は昨夏の参議院選挙で初当選した。それまで広島の県会議員を4期つとめたという。しかし、その間にちからをつけてこなかった。女たちの社会進出はたしかにめざましい。その上昇気流にのる前に、彼女には、自分の適性について考えてほしかった。
 数年前、わたしは運命鑑定家からこんな話を聴いた。92歳の、無年金の老女が、病院で夜間、個人的に患者の介助をしている。その患者がなくなれば、自分は失業してしまう。いつまで自分は働けるか。患者の寿命が知りたいという。きわめて深刻な相談だ。低年金の老女だってたくさんいる。彼女たちの自己責任ではない。政治のちからで解決すべきことだ。河井はこの国の貧しい女たちの現実を直視し、その悲惨さを認識しているのか。
 きょうは血液検査の日だ。すずかけセントラル病院に行く。採血して40分後、主治医の横山徹夫先生から検査結果が知らされる。〈メタボの数値が高くなってるよ。食事はあなたが作ってるの。野菜を多くとって。1日10品目をバランスよくとるように〉。わが手ぬき調理が数値にばれたのであろう。
 受診後、院内でインフルエンザの予防注射をうった。
 デイサービスYAMADAに行く。脳内出血の後遺症で、わたしの右手は不自由である。箸とボールペンと包丁がうまく使えない。毎回、トレーニングをしている。わりばしを右手にもって玉たちをべつの器に移す。大きさの異なる3種類の玉たち。形の異なるもの。手が疲れると、うごきも鈍ってくる。悦世先生が用意してくれたミニチョコをつまむ。
 〈ただいま花嫁募集中〉の増田先生が、緑茶を入れてくれる。そばから菅沼先生が、〈恵方巻きが食べたいな。ぼく、かんぴょうの寿司が好き。頭によいことを浮かべながら、西南西をむいて無言で食べよう〉という。そういう季節なのか。節分がすぎれば春はまぢかだ。手もほぐれるだろう。なんとか、玉たちはべつの器に移動していた。

 編集者の書き手への影響力は、よくもわるくも大きいと思う。『平林たい子全集』(潮出版社)全12巻の担当編集者を、わたしは、今でも胸ぐらをつきあげたいくらいだ。あのとき「解題」が発表できていたら、という思いはつよい。かれは大作家をだましたうえ、わたしの業績を奪ったのだった。たい子が執筆した作品すべてを国会図書館、近代文学館などで調べた。わたし1人で最後までした。この基本の作業なくして作家の全集は刊行できない。書誌編纂の仕事は、簡単ではない。わたしがすべての作品を調べたところで、かれは、約束をほごにしてしまった。自分だけの手柄として誇示したかったのだ。女の努力を踏みにじったのである。「解題」のない全集第1回配本が、書店にならんだ。
 指導教授の平野謙は、出版社に抗議した。食道がん手術後の先生の声はかすれていて、痛々しかった。「解題がない」。『平林たい子全集』にとっても不幸なことだ。
 このおとこ編集者があるとき、こう話した。〈作家とつきあってると、こちらの格もあがるんだ〉。そんなバカな。かれは『吉行淳之介自選作品』(潮出版社)全5巻の製作中だった。
 こうもかれは話した。〈吉行さんと宮城まり子(女優)は、玄関はべつべつの表札になってるけど、奥はひとつ住まいになっている。これを口外した講談社の編集者は、吉行さんから訪問禁止をくらった。まり子さんはぼくの前で、じゅんちゃん、とあまえるよ〉と。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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