リハビリ日記Ⅳ ⑲⑳

⑲作家、佐川光晴さん
 おりからの強風で、ウメの白い花びらが舞いながら散っている。今年も昨年とおなじ老木から咲きはじめた。浜松特有の強風の音は、来る日も来る日も、鳴りやまない。ぼろ家をガタピシャ、ガタピシャと打ってくる。いいかげんにしてよ、といいたくなる。
 こんな気持ちをメールにしたためて送信したら、千葉に住むただよさんがこんな返信をくれた。〈強風があるから、浜松はおいしいほしいもができるのよ〉。そうなのか。強風がおいしいほしいもを作るのだ。ただよさんは、浜松市立高校のわが先輩である。法政大学英文科を卒業している。今も知的好奇心旺盛な勉強家である。
 幼少のころ、ほしいもは自家製のおやつだった。ふかしたさつまいもをスライスする。家の裏の風通しのよいところに干す。寒風にふれると、ほしいもたちは甘みを増すようだ。保存食のほしいもは硬くなれば、火ばちの炭火であぶって食べるのである。  
 家族が火ばちをかこむひととき。ある日ふと、父がいった。〈だれか1人欠けるとさびしくなるなあ。でも、あの世からもどってきた人はいないぞ。わるいところじゃないみたいだ〉。父が逝ってから33年になる。父はいまだ、もどってはこない。
 患足のむくみはすでになくなった。脳内出血後、S病院に入院したときはひどかった。理学療法士のT先生が、主治医の横山徹夫先生に〈リハビリはがんがんやっていいか〉とたずね、承諾をえたという。横山先生は患者のわたしにもいった。〈足は使わないと枯れていく。バタバタ動かすように〉と。T先生の施術はきびしく、ときにゆるやかだった。浴室係のヘルパーたちのあいだでも、T先生の指導のきびしさと回復のたしかさは、話題にのぼっていた。
 歩行も最近はらくになった。買い物でクリエイトに行く。行き帰りにひと休みしなくなった。一昨年の春は、自宅まで数10メートルというところで、くたばった。S病院の理学療法士、L先生の祖父の家の前だった。〈いなおさん。来てください〉。大声で助けをもとめた。腕をかかえられ自宅まで送ってもらった。他人の親切が心にしみたものである。

 病気になってから初詣ではしていない。前の住所では近くの敷島神社にでかけた。志木市内にある、田子山富士塚で知られる神社だ。境内はコンクリートが敷きつめてない。そぼくな感じがした。地元の氏子たちがたき火をしている。わたしも冷たい手をかざした。
 帰りは、行きとはちがう道を歩こう。バス通りにでるまでの小道沿いに、作家の佐川光晴の家がある。おちついた日本家屋だ。入り口に大きな郵便受けがある。いつぞや、奥の駐車場の空き地で、佐川さんは、小学生の男子とドッジボール投げをしていた。父子のなごやかな風景だった。男子のうれしそうな顔が、いまも目に浮かんでくる。
 佐川さんは北海道大学卒業と同時に結婚したという。「主夫」となって家事と育児を担当しながら作家をめざしたとも。妻は教員のようだ。
 佐川さんの『家族芝居』(文藝春秋)と『銀色の翼』(文藝春秋)の書評を、わたしは「信濃毎日新聞」に発表している。どちらも長編小説だ。前者は、元アングラ劇団のスター、男性と7人の老女たちとの奇妙な共同生活が描かれる。いきいきした交流をとおして彼女たちの変化していくプロセスが、おもしろかった。後者は、問題を提起する作品だ。
 佐川作品は、吉村昭や佐江衆一などの世代の作品とは、趣も深みもちがう。わかい世代の文学作品だと、わたしは思ったものだ。佐川光晴は1965年生まれである。

⑳鷹野つぎの娘、三弥子さん
 デイサービスYAMADAに行く。ジム内は別世界だ。外界の強風音は聞こえてこない。柔道整復師の増田先生いわく〈ぼく、浜松に赴任して強風にはおどろきましたよ〉と。増田先生の実家は藤枝にあるという。ジム内は静かで、わたしはほっとする。
 月末はテストの日だ。安形先生の指示で行なわれる。速歩と片足立ち。前月よりどれだけ上達しているか。時間と回数を測定するのだ。〈とても、よくなってます〉。先生のほめ言葉は、何歳になってもうれしいものだ。腹部の筋力がついてきたのかもしれない。
 通所して10か月、トレーニングを継続している。その間、休む患者もいた。わたしは皆勤している。きょうは、いけやさんが足が痛むといって休んだ。菅沼先生から、迎えの車の中で知らされた。
2月6日夜のこと。NHKラジオから流れたニュースに、わたしはふかい衝撃をうけた。昨年12月24日、東京は江東区の集合住宅で兄弟の遺体が見つかる。72歳と66歳。遺体は、兄は30キロ台、弟は20キロ台にやせ細っていた。冷蔵庫にはサトイモがのこっていた。兄弟は無職で福祉の支援もうけていなかった。「困窮」のすえの死亡だという。
 地域の民生委員はどうしていたのか。わたしはとっさに怒りをおぼえたのだった。民生委員は、巡回訪問していなかったのかもしれない。
 こんなに悲惨なことがあっていいのか。おなじ人として生まれながら。どんな気持ちで彼らは日日を過ごしていたのだろう。わたしは哀しみに襲われもしたのだった。
 しかし、これが経済大国ニッポンの内実なのだ。一方では、「食品ロス」が年間「約643万トン」も発生しているという。恥ずかしいことである。毎夜、料亭でごちそうを食うている総理大臣は、食えない国民がいるという現実を直視しているのか。
 ニュースが報じられた翌日。江東区役所長寿応援課の課長、加藤章子さんの会見があったようだ。インターネットで検索すると彼女の発言がでてくる。大写しの顔写真も。
 「あらゆる取り組みをしてきたが、それでも把握できなかったもので、これまでの取り組みが不十分だったとは思っていない」と、課長は応える。あまりにしゃあしゃあとした発言だ。血も涙もない。加藤さん。それであなた、福祉関係の課長ですか。兄弟はげんに「困窮死」しているのだ。この事実を、加藤さんは人としてどう受けとめているのか。区民が悲しい思いをしていたというのに。
 この事件を一過性のニュースにしてはならないと思う。

 作家の鷹野つぎは、文豪、島崎藤村の弟子である。1890年に生まれ、1943年に他界。浜松高女、現在の浜松市立高校を卒業している。
 代表作に『悲しき配分』がある。自然主義的な作風の小説集だが、わたしは、晩年の随筆集『幽明記』が鷹野文学の傑作だと思っている。いずれも『鷹野つぎ著作集』(谷島屋)全4巻で読むことができる。
 つぎは1909年、新聞記者の鷹野弥三郎と結婚する。「浜松小町」の大恋愛は、当時、評判だったようだ。しかし結婚後は、貧乏と病気の、苦労の連続だった。
 つぎは9人の子を出産。そのうち7人が病気で早世した。鷹野次弥と鷹野三弥子が生きのびる。
 わたしは、生前の鷹野三弥子さんを2度、南佐久郡小海町にたずねた。そこは父の生地だ。彼女は1人暮らしをしていた。写真でみるつぎとそっくりだった。母が他界した53歳を超えていた。地元の農協に30年勤めたという。彼女にとって母、鷹野つぎは、ひそかな誇りにちがいない。思い出話はとても嬉々として、はずんだ。
 〈母はおしゃれな人でしたよ。刺繍された半襟がすてきです〉〈東京の女学校を卒業して、就職の面接をうけた。あなた、鷹野つぎさんの娘さんでしょといわれたわ〉〈母は借金取りの前でだまってじっと座っていた。借金取りはすごすご帰っていきました〉〈わたしの知るかぎり、父は1度も、母を裏切ってませんね〉。
 『鷹野つぎ著作集』が地元で100冊売れたという話も、三弥子さんからわたしは聴いたのだった。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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