リハビリ日記Ⅳ 21 22

21 2月20日は小林多喜二の命日
 あれっ、カワヅザクラだ。遠目にもはなやかで、うつくしい。つえをカタカタさせて、わたしはそのそばまでたどりつく。ソメイヨシノよりも早咲きのサクラである。のりひこさんが河津町で買ってきた苗木が、青空めがけて大きく生長したのだろうか。濃いめのピンク色から、香りがかすかに下りてくる。ここはわが祖父の弟の家だ。現在は、孫ののりひこさんが分家を継いでいる。掛け軸の肖像画のわが祖父とそっくりな、きびしい顔つきの人だ。祖父の弟は、接ぎ木の作業がたのしみだったのかもしれない。幼少のころ、わが家の庭にはめずらしい品種のミカンが生っていた。のりひこさんは、わたしのパソコンに不具合が生じると、すっとんできてくれる律義な人だ。すぐれた技術者でもある。妻のえつこさんも、ほかほか心のあったかい人だ。
 80歳の再スタートを語るのは、タレントのなべおさみさんである。タレントのなべやかんさんの父だ。文筆家・歌人だった渡辺久二郎の次男である。なべさんは昨年、吉本興業に入社したという。
 2月29日。「なべおさみの今―明大替え玉受験騒動から30年目の告白」(「デイリースポーツ」)という記事が、インターネットから目にとびこんできた。芸能記者、中西正男さんの担当だが、終始、なべさんの独白によるものだった。わたしは最後まで読んだ。文章を書く人、書ける人の独白である。自らの気持ちを吐露していて、感銘ふかかった。
 なべおさみは、息子の受験騒動で世間のバッシングをうけた。以来30年。艱難辛苦の日日を過ごしてきたようだ。父、久二郎が生きていたら何といっただろう。それにしても、なべさんはなぜ、明治大学にこだわったのか。なべさんも明大を出ている。その兄の渡辺陸も。しかし、息子に大学教育を受けさせたいのなら、息子の能力にあった別の大学の選択だってあったろうに。
 なべさんは、『むねん 渡辺久二郎歌文集』を発行している。編集は渡辺陸。非売品のぶ厚い本だ。渡辺久二郎は、平林たい子記念文学会の理事だった。たい子の夫、小堀甚二の同志で、昭和初期のプロレタリア解放運動に参加している。わたしは、平林たい子年譜を作成し、伝記的作家論を書くため、久二郎さんにたい子の戦時下の住所などをたずねた。返事はかならずとどいた。陸さんも拙文を読んでは感想をくれる、ふでまめの人だった。なべさんからは1回だけ年賀状が舞いこんでいる。が、3人に会ったことはない。

 2月20日。わたしは、「蟹工船」などで知られるプロレタリア作家、小林多喜二の命日を、うっかり忘れていた。1933年2月20日。多喜二は、東京、築地署に治安維持法違反の容疑で逮捕される。即日、特高の拷問により虐殺されたのだ。29歳だった。
 わたしの本棚には、『時代(とき)を撃(う)て・多喜二(たきじ)』(シネ・フロント社)がならんでいる。多喜二の生誕100年・没後70年を記念して製作・上映された映画「時代を撃て・多喜二」を鑑賞した、その会場で購入したものだ。この冊子のなかに、映画に登場する上山初子の回想が掲載されている。
 「よくあんなことをね。多喜二さんひどい目にあったでしょう。何もしない、絵を持っているだけの家でさえも、どんなに酷い目にあったかわかりませんよ。それで、いつも私不思議に思うのは、多喜二さんをあんな目にあわせて、死ぬような事をした者でも罪にならないもんですか?」
 上山さんは、多喜二の小樽時代、運送業をいとなむ隣家の娘だった。多喜二に勉強部屋を貸し、その礼に多喜二自筆の絵をもらったという。上山さんのいうとおり、わたしも「不思議に」思う。特高が「暴力的取り調べ」をして多喜二を死にいたらしめた。しかし、警視庁は「拷問死」を隠蔽し、死因を「心臓マヒ」として発表した。 
 多喜二の弟、小林三吾は、後年に証言する。「いまもって、兄の拷問で殺された無惨な姿が、脳裏に焼きついて離れません。母の絶叫も生涯忘れることはないでしょう」(『時代を撃て・多喜二』)と。母、小林セキが息子の遺体にかぶさるように寄りそう写真は、いつ見ても、痛ましい。どんなにくやしい、哀しい思いをしたろう。
 昨年9月23日のこと。あるニュースが流れた。中村尚徳さん担当の「朝日新聞デジタル」の記事だ。当時、多喜二の遺族が特高を告訴しようとしていたことが分かった、というもの。多喜二と関係のあった弁護士を取り調べた公判前の予審記録から、研究者が見つけた。小樽商科大名誉教授、荻野富士夫さんの研究成果である。遺族はたしかに抵抗をこころみたのだった。しかし告訴は実現しなかった、というものだ。

22 若林つやの愛人は芳賀檀

 きょうは定期の受診日だ。午前中、すずかけセントラル病院に行く。1階のフロアに人影はまばらだ。受付にたずねた。〈待合室にはいますよ〉。いや、そこもいつもとちがう。診察の順番は速かった。新型コロナウイルスの感染拡大をうけて、高齢の患者たちは外出をひかえているのかもしれない。主治医の横山徹夫先生から、「肩こり体操」と「肩こりの知識」の説明書をうけとる。肩こりは、わかいころからのわが悩みだ。
 2階のリハビリスタッフ室による。ドアをノックした。〈そちらは閉鎖中です〉。別のドアから、課長で言語聴覚士の泉先生があらわれる。ものものしい厳戒のようだ。そばのベッドでは作業療法士の久野先生が施術していた。泉先生の案内で、理学療法士のT先生のところへ。〈先生、4月の掛川・新茶マラソンには、出場するのですね〉〈いや、中止になったんだって〉。それは心のこりだ。その日のためにT先生もH先生もL先生も、特訓をかさねてきたはずである。わたしも応援にでかけようと思っていたのに。
 デイサービスYAMADAに行く。自転車こぎを10分間つづける。自転車こぎは、どの施設にもある定番のマシーンだ。こぐにつれ患足の右ひざが内側に入ってくる。〈意識して外側に出しましょうか〉。悦世先生のアドバイスだ。内側の筋肉がよわいのであろう。2キロ余の距離をこいで終了。疲労は感じない。
 施設管理者の悦世先生は、すずかけセントラル病院、リハビリ室の泉先生、久野先生のように、女性の実力派だ。自分の仕事に愛情と自覚をもっている。意欲的でもある。
 柔道整復師の、増田先生と菅沼先生が、3月末で退職するという。思いもよらないことにビックリした。しかし、2人は前途洋洋の医療従事者である。新しい職場で挑戦したくなっても自然だ。マシュマロのようなやさしさは、人にやすらぎをあたえた。

 ドイツ文学者の芳賀檀の写真をみつけた。最近のことだ。いつぞや、わたしは作家の大井晴に〈芳賀檀を見てみたいわ〉と話した。〈それなら、あなた、創価大学の教室をのぞいてみたら〉と、彼女はこたえた。芳賀は、大井の同人誌仲間、若林つやが婚外の愛をつらぬいた相手だ。しかしわたしは実行しなかった。その後、ネット上の集合写真で芳賀のぼやけた写真は目にしていた。
 写真の芳賀は、育ちのいい、秀才タイプだ。〈銀行員ふう〉の野暮ったい多喜二のようではない。若林つやは、昭和初期にプロレタリア小説を何編か発表している。その間、多喜二の指導を3回うけたという。芳賀とは、多喜二の没後に出会う。芳賀、保田與重郎、立原道造、亀井勝一郎、緒方隆士など、若林つやの交流はひろい。
 若林つやは、文芸評論家、平野謙の、小林多喜二・三人の愛人説に立腹した人でもある。平野はその後、自らのミスを認めている。若林つやには、多喜二との肉体的な関係はなかった。しかし若林つやは、多喜二への熱烈なプラトニック・ラブを表明している。芳賀を熱愛する道中で、過去のラブはじゃまだったのかもしれない。
 2013年、徳島県立文学書道館で「昭和という時代を生きた作家ー貴司山治展」が開かれた。そこに杉山美都枝・若林つやの貴司あて書簡が展示されたという。「私は小林氏には何も特別の気持ちはもちませんでした」と。
 この文面に注目したのが、研究者の佐藤三郎さんだ。「小林多喜二愛人説へ抗議した若林
林つやー貴司山治展を見て」というリポートをネット上に掲載する。さらに佐藤さんは、若林つやの書簡は、平野説が根拠のないことへの「物証」だ、というのである。
 そうだろうか。「物証」か? 田口タキと伊藤ふじ子とはちがう。しかし若林つやが多喜二に心をよせたことは、若林つやのエッセイからわかる。くわしくは、拙著『書くこと恋すること―危機の時代のおんな作家たち』(社会評論社)のなかに、すでに検証している。
 佐藤さんも文学研究家なら、拙文を参考にしてほしかったと、わたしは残念に思う。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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