リハビリ日記Ⅳ 23 24

23 平林たい子の傑作
 新座中央通りも、新緑の季節をむかえているだろう。小説家、堀辰雄もめでた、白いコブシの花たち。清楚な姿が目にうかんでくる。志木駅前から新座市役所へつづく20メートル通りが新設されたときから、わたしは、駅前のアパートに住んでいた。大通りの両サイドにコブシの街路樹がならぶ。〈きれいだなあ。おしゃれな街だね〉。道ゆく人たちの声が5階まできこえてくる。
 だが、年ごとに花の数が減ってきた。車たちの排気ガスの影響であったか。
 4年前、わたしは浜松の生家にもどった。咳がぴたりととまった。ずっと、冬になると喘息に悩まされていたのに。あの息苦しさは、やはり、車たちの往来による排気ガスのせいだったのだ。
 昼の時間がながくなる。待ちに待った春なのだが、気分は晴れない。落ちこんでくる。いやなご時世なのだ。不気味なくらい。
 近くのクリエイトに買い物に行く。マスクは発売していません。玄関に大きな貼り紙。レジのところには、従業員と客の距離をおく、透明な厚いビニールが垂れている。
 わかい男性客がいた。買い物かごには「小粒納豆」が10個も入っている。そうだ。先日も高齢の男性客の自転車かごに「小粒納豆」がいっぱい入っていた。3パックが1個で、税抜きの38円。たれとからしは付いていない。昨秋の消費税増税とともに物価は高騰した。100円以下で買えるのは、この納豆、千切りキャベツ、5本入りちくわ。6個の卵。 
 客の買い物かごは、貧富の差をおのずと語っているのかもしれない。
 ふと、思いだす。小・中学時代のこと。隣の席の女の子の弁当箱は、いつもいつも、麦のまじったご飯に、おかずはやきもちだった。うどん粉(小麦粉)に水を入れ、少ししょうゆをたらして焼いてあった。給食のない小・中学校だった。この弁当箱も、現在の買い物かごも、人たちの貧富の差をすなおに象徴しているのだと思う。
 やきもち、納豆だけじゃ、栄養はとれない。免疫は高まらない。生命力は維持できない。貧困は、昨年の、江東区の集合住宅での兄弟の「困窮死」にとどまらない。今こそ、失業者、ホームレス、自殺者などの増加を予感させる、深刻な社会問題なのだ。それなのに、傲慢で鈍感な、財務大臣と総理大臣。あなたたち、それで、人のための政治家といえますか。自分の生き方として、それでよいのか、自身に問うてみてほしい。

 作家、平林たい子に、戦時下の闘病生活と戦後の再出発に取材した、3部作がある。「かういふ女」「一人行く」「私は生きる」。この自伝的連作について、作家の山本周五郎は、濃密な生の手ごたえを称賛したのだった。たしかにこの3部作には、生きてあることへの感謝感激が貫流する。たい子40歳代の執筆。泣き虫のたい子は、泣きながら書いたという。
 「本当に今までの生活でよかったのか」。たい子は自分と真摯にむきあい、自身にふかく問うてもいるのだ。作中の女主人公は、作者、たい子とかさなりあう。
 1938年、たい子は、警察の長期の留置場で結核に腹膜炎を併発した。前年、夫の小堀甚二は、人民戦線事件で検挙され投獄された。その参考召喚で、たい子は留置されていたのである。出獄し、病院をたらいまわしにされる。病気と貧乏、さらに孤独とのたたかいだった。たい子の、個人の自由をうばった、国家権力と戦争への憎しみが、作中からは聴こえてくる。
 7年の闘病生活は、執筆を不可能にした。しかし3部作は、そのようなきびしい実体験とたたかいをくぐりぬけたたい子にして描けたものだ。現代作家にはとうてい描けぬ重層的な、みごとな作品世界である。
 人間とは、夫婦とは、生きるとは、どうあるべきか。文学作品のありがたさをしみじみ感じさせる傑作にちがいない。

24 川上喜久子の傑作
 デイサービスYAMADAに行く。週1回の、心身のトレーニングをする日だ。
 人は歳をかさねると息をはく回数が減っていく。柔道整復師で、施設の運営者、山田先生は解説する。だから、体操といっしょに声をだすのがよいという。しかし生徒は、黙々とからだを動かしている。頭をさげて、ゆっくり7秒かけて立ちあがる。そして、頭をさげて、ゆっくり7秒かけて椅子にかける。くりかえすこと5回。声をだしながら、その回数をかぞえてみる。とても気持ちがいいのだ。意識して発声すると、からだのどの部分にちからが加わっているのか。どの筋肉が鍛えられているのかも、わかるのである。山田先生の指導は、年季が入っている。わかい先生とは、解説力が数段ちがう。
 翌日のこと。わが郵便受けに白い布マスク。旧式のものだ。これが「466億円」の1枚なのか。各住所あて2枚配布のものではない。介護保険サービスを利用している人たちへの配布だ。地域包括支援センターのケアマネージャーが届けてくれたのであろう。
 国民へのマスク配布は、総理大臣の発案なのか。べつの賢明な方法があったろうに。世のために、もっと切実に、もっと真剣に考えてほしかった。
 一時期入院したS病院の理学療法士、作業療法士は、いつもマスクを着用していた。強制ではなく、スタッフ室においてあるから着用していると、わかい先生はいった。が、コロナ事態の今はちがうであろう。マスクをかけると、先生たちの両目だけがクローズアップされる。鼻と口もとは不明だ。あるときふと、マスクがはずされる。こんな顔立ちであったのか。まぁ、ういういしい。意外な思いがしたものだ。理学療法士のT先生は、鼻も口も大きくて、あごもがっちりしている。だから、うたいっぷりも堂々としているのか。いつぞや、T先生が高齢の視覚障がい者女性といっしょに「瀬戸の花嫁」をうたっていた。歌は患者の回復をめざす指導方法の1つだが、T先生の魅力的な声は、マスクのかげから出てきていたのだった。
 新刊の『平沢計七 一人と千三百人 二人の中尉 平沢計七先駆作品集』(講談社文芸文庫)がとどく。日本近代文学研究者、大和田茂さんの贈り物だ。感激する。本書には労働運動家で作家、平沢計七の、小説、戯曲、評論・エッセイが収録される。その「解説」「年譜」「著作目録」を、大和田さんは執筆しているのだ。長年の地道な成果にちがいない。
 著書といっしょにコピーも入っていた。「平沢計七と秋田―武塙白龍との運命的な出会い」(「秋田さきがけ」)。「文学を愛し、自由人的な」平沢計七と武塙白龍の交流について、大和田さんは書く。平沢は、関東大震災の戒厳令下、陸軍に虐殺された。歴史上の亀戸事件だ。彼らは、民衆をあおり暴動を起こそうとしたのではない。「被災民救済のボランティア活動に専心していただけ」と、大和田さんは説く。
 思慮深く正義の人、平沢のこの事件を知り、すぐさま、新聞人、武塙は公正な裁判を要求したという。人と人とのかかわりを想像しつつ思考しつつ解明するのが、文学のちからなのだ。死者への、その尊い人生への愛情あってこそ書けた、感動的な大和田論考である。

 作家、川上喜久子は、「滅亡の門」「歳月」がつづけて芥川賞候補にのぼったが、受賞はのがしている。しかし、40歳代のこと、喜久子は傑作をものしたのだった。「淡彩」と「盆三夜」。この連作は『陽炎の挽歌』(昭和出版)に収録されている。喜久子自身の内部衝迫のつよい作品だ。
 喜久子は、実生活を多くの女性作家のような自然主義的手法では描かない。しかし、よく検証すれば、家庭内離婚という、喜久子の実人生の苦悩は、作中に投影している。
 男女、夫婦の関係は、世間のしきたりに規制される。それゆえの、ほどけぬしがらみを、喜久子は小説の世界で解こうとした。
 「淡彩」には、画家の男と、離婚後1児をつれて実家にもどった女の恋が描かれる。「人工の褥(しとね)の上で恋を語る気にはなれない」と、男女は川べりの土手の草むらで、ごく自然にむすびつく。そのおりの、男の恥じらいの表情、女のあふれでる情念を見のがさず、喜久子は大胆に、また繊細に表現している。そのふでづかいは、見事だ。
 読者の胸には、男女のよろこびとかなしみのさまが、ひたひたと広がるのである。しばし、時間をわすれる。ことばで表現する文学作品のちからをあらためて思う。さらに、思考力と想像力を駆使すれば、作品の味わいはより深まるのである。 

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