29 平野謙の持論
ナスには紫色の花が咲く。人の心を落ちつける色だ。スイカには? 黄色い花ではなかったか。何十年も見かけていない。
隣家に回覧板をとどける。手に洗面器をもったりえこさんが話しかけてくる。〈カラスにねぇ。食べられたのよ。〉見れば、洗面器にはスイカのあかい実があふれている。もったいない。りえこさんのくやしい気持ちが伝わってくる。頭のいいカラスたちの朝は早い。食べごろのスイカを群れてつつく。丹精こめて栽培してきたのに。やられたのだ。
数日後、りえこさんがスイカの実をサランラップに包んでもってきてくれる。うれしい。スイカがスイカをよんで、いとうさんもえつこさんも、もってきてくれた。自家製のスイカの味は、それぞれちがう。しかし、どれもあっさりした甘さだった。夏を満喫する。
ヒロシマで起きた公職選挙法違反事件。閉鎖的で旧態依然の内容にぞっとする。買収容疑で、参議院議員の河井案里と衆議院議員で前法務大臣の河井克行が6月18日、逮捕された。夫婦は所属する自民党を離党したものの、議員は辞職しない。
事件当初から、わたしは、河井案里の女の生き方に関心をいだいてきた。案里はなぜ国会議員になりたかったのだろう。国会議員として何をしたかったのだろう。しかし、彼女の政策も思想も伝わってこない。
夫の河井克行は、妻、案里の実力を認めて彼女をあとおししたのか。そうとは、わたしには思えない。克行は、自分の大臣昇格への野望のほうがずっと、ずっと大きかったはずだ。妻を利用したとも思えるのである。
地位と権力と金力をもつと、人はこんなにも傲慢になるものなのか。横暴な男だ。とっぽい女だ。みっともない夫婦だ。弱者、貧者へのまなざしは皆無のようである。
河井案里は、夫と二人三脚で話題になるのではなく、単独で、自分のちからで立ちあがっているところをみせてほしかった。
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〈先生、どうしたら文章は上手になりますか。〉〈文章は血筋だと思うな。そうだろぉ。太宰治の子どもは2人とも作家になっている。〉わたしはあるとき、わが指導教授で文芸評論家の平野謙にたずねてみた。平野謙は、作家の太宰治を例にひいて明かすのだった。たしかに、妻とのあいだの娘、津島佑子と愛人とのあいだの娘、太田治子は、ともに作家になり活躍している。
6月16日早朝、インターネットを開くと、163回芥川賞の候補作が掲載されていた。その1つに「赤い砂を蹴る」があった。作者は石原燃。彼女は劇作家で48歳。この小説がデビュー作だという。さらに注目すべきは、石原さんは太宰治の孫なのだ。津島佑子の長女でもある。写真をみれば、石原さんのまなざしは津島のそれによく似ている。
平野謙の血筋説は、いちおう納得できる。しかし、血縁に作家のいない作家志望の人は、その夢が閉ざされてしまうではないか。
平野謙は授業中、こうも話している。〈それは、自分の文章に愛情をもつことですね。〉
院生の国延台次が〈自分の書いた文章が、翌日になると、自信がもてなくなります〉と訴えた。その助言である。こちらの指導には、わたしも充分に納得がいったのだった。
文章への愛情こそ、作家への道をきりひらく要だ。そこに努力の甲斐もあるのだと思う。
30 平野謙のおしえごたち
7月2日は定期受診の日だ。午前中、すずかけセントラル病院に行く。急に暑くなった。気圧の変化も感じる。右目の具合がよくない。からだ自体がうっとうしい。歩行ももたつく。
〈あなたのようなのを天気病、というのです。〉主治医の横山徹夫先生が指摘する。そうか、てんきやまい、なのか。やっかいな後遺症である。〈神経をどんどん使ってください。〉〈神経を使うって?〉〈ラジオ体操、テレビ体操を汗をかくぐらいやってください〉とも、先生はアドバイスするのだった。
翌日、デイサービスYAMADAに行く。ジム内には9人の通所者がいる。先々週まで通所していたにしむらさんが亡くなったという。びっくりする。おだやかな人だった。
新任の山田こうき先生が、ラジオ体操第1をリードする。毎週行なっている種目だ。立ってする人もいれば、椅子にかけてする人もいる。わたしは幼少のころから体操が苦手だった。こうき先生の歯切れのいい、力強い声がジム内にひびく。やる気がさらにわいてくる。
すぎやまさんがイーフットを付けてジム内を縦断する。かっこいい! 両腕が前後に均等にふれている。からだが軽快そうだ。イーフットは、当施設の運営者で、柔道整復師の山田好洋先生が発明した歩行補助具である。わたしも毎週イーフットを付けて訓練しているが、右腕が、すぎやまさんのようには、うごかない。
脳内出血治療後のこと。わたしはS病院に入院した。担当の理学療法士、T先生がいった。〈飲みこみが早いですね〉と。えっ、そんなことはないはずだ。体育系の部活にも入部したことはなかった。体操は苦手だ。教師から直接指導をうけるのは、T先生が初めてだった。T先生は、長身のスポーツマンタイプの人だ。教師の指導しだいで、できないでいることもできるようになるのかもしれない。
リハビリ室内を一巡して歩行訓練もした。わたしの右腕がしぜんに胸の前にでてくる。いわば、おちょうだいのポーズになっているのだ。自分の身を無意識に護ろうとしているのだと思う。横合いから、T先生がぴたっと右腕をはたいてくる。おぉ、こわい。何度か、そんな指導があった。人が人に真摯によりそう。T先生はそれができる人だった。なかには、患者にえらそうな態度をとる先生もいた。
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平野謙の手の、万年筆をにぎる部分はあかくなっていた。平野謙の手書きの文字は、乱れていなかった。ていねいだった。今、原稿をパソコンで書いているといったら、平野謙は何とこたえるだろうか。
平野謙の明大大学院のおしえごたちは、現在どうしているだろう。短歌・文芸評論家の村永大和。60歳から明大の教職課程の特任教授になった高橋靖之。わたしは2人とは卒業後も会っていた。「群像」の新人賞を受賞して文芸評論家になった小林広一は、活躍中である。『広津和郎全集』(中央公論社)の書誌を担当した矢谷勝也からは、年賀状がまいこむ。
明大教授の小川武敏は68歳で他界した。東海大教授だった石阪幹将は、自宅の土地を耕作している。明大教授の吉田悦志はどうしたか。
日大を卒業していた小川と石阪が、院生を仕切っていた。小川の女性蔑視はひどかった。こういう横暴な男が大学で女子学生を指導していたのだ。石阪も〈あべとは立場がちがう〉といった。男も女も、生きる条件はおなじだ。向学心もおなじである。
平野謙は超多忙の評論家で、院生への指導は熱心ではなかった。弟子を育てることをしなかった。あるとき平野謙がいった。〈国延くんは、何かする人だと思うなぁ〉と。国延台次の文学的才能を認めたのだ。しかし、中学の教員になったかれは、作品が書けなかった。文学研究を持続させることはむずかしい。執筆時間を確保するのがたいへんなのだ。
いつぞや、卒業生の発案で、論究の会編、共著『平野謙研究』(明治書院)を刊行した。卒業生の業績ができる。平野謙が再検証される。よい企画だ。しかし、通読して、ほとんどの筆者が、明大教授で平野謙論を発表している中山和子をもちあげているのだ。これにはあきれた。誰のために何のために書くのか。研究者の矜持がない。中山論の〈ひいきのひきたおし〉を見破ってもいないのである。大学の先生の、小川や石阪や吉田の文章は、魅力が感じられない。
中山は、じつにラッキーな学者人生をおくってきた人だ。助手から出発し、教授までとんとん拍子に昇格してきた。しかし、業績はさほどないのだ。少しでも後輩たちの面倒をみることも、先輩としてできなかったのだろうか。
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〔culture0923:200721〕