リハビリ日記Ⅴ 57 58

57 円地文子のやさしい言葉

 フジバカマは秋の七草の1つだ。はじめて見る草である。華やかなものではない。藤色だ。近所のあづえさんが持ってきてくれた。小さい房がいっぱい垂れている。花瓶にいければ甘い香りがする。あづえさんは週末に山地に出かける。フジバカマを栽培している農家があるのだという。あづえさんの心づかいがうれしい。
 リハビリ教室「佐鳴台南」に行く。きようはわが体力測定の日だ。全生徒が一時にうけるのではない。椅子に腰をかける。先生の号令で腰をかけたり、立ち上がったりする。30秒間。軽いはずのお尻がおもい。何回できたろう。先生がかぞえていた。つぎは握力測定。右腕と左腕。マヒのある右腕は弱い。わたしは台所で、ときおり、持っている皿を落とす。壊れてしまう。しかし筋力は着実についている。筋力は訓練しだいだ。

 女どうしの仲たがいは落着。絶交はしなかった。先の号に書いた。平林たい子が喫茶店に円地文子を誘って、つまらないことを書いてごめんなさい、と詫びたという。2人の外国旅行のあとがいけない。たい子は仲のよかった文子との道中のことを否定的に書いてしまったのである。文子が失望し立腹して当然であろう。戦時下、たい子は夫の浮気で自殺しようとしたらしい。文子のもとに遺書がとどく。文子は大田洋子とともにたい子を捜した。そうまでたい子に心を尽くしている。
 文子はたい子の没後5年目、墓参している。たい子の墓は諏訪にあった。そのとき昔の同級生から思い出話も聴いている。同行した出版社の編集者に平林たい子のことを執筆すると同意もしている。
 円地文子は小柄な人だった。上品な美しい人だった。こんなにまぢかで小説家と接するのは初めてだ。『平林たい子全集』(全12巻)の編集会議の席でのこと。潮出版社が15周年の事業を記念して企画した。編集委員は、円地文子のほかに和田芳恵、佐伯彰一、平野謙。丹羽文雄は欠席。山本健吉も修士論文の審査で欠席した。わたしは指導教授、平野先生の配慮で出席させてもらった。先生の指示で書誌の仕事をしたのだ。独りで。なんとかたい子の全作品をリストアップし、原稿総数も計算できた。出版社に提出する。平野先生はよろこんでくれた。がんが発覚していないときのこと。田舎の両親も安心した。金銭的に援助してもらっていた。 
 書誌は、たいへんな、しんどい仕事だった。編集者は刊行する気があるのか。やる気が見えない。たい子も自作を整理していなかった。わたしは国会図書館、近代文学館、大宅文庫などあちこちを回った。足を引きずった。夜もバイトをした。
 編集会議の隣席から、円地さんが〈よろしくお願いします〉と声をかけてきた。静かなやさしい声だった。少し寂しげだった。わたしはどきっとして、ろくすっぽ返事ができず恥ずかしかった。
 その後、文子はたい子に関する著書を刊行していない。わたしは『平林たい子ー花に実を』(武蔵野書房)を刊行した。円地さんにも贈った。父が〈よく書いたね〉と一言いった。
 円地さんは81歳で他界する。その日、父も昇天した。
 円地文子はわたしの好きな作家だ。『食卓のない家』(新潮社)は秀作である。 

 

58 平林たい子のとりまき

 11月に入り曇り空がつづいている。早朝はうっかりすると風邪を引きそうになる。
 訪う人もいない。草加の高橋さんに電話をかけてみよう。孫が遊びにきているようだ。高橋さんは明治大学の教職を退いてから数年がたつ。医師の長男が宮崎大学医学部の教官にもなったという。自慢の息子さんだ。子育ての苦労はあっただろうに、高橋さんは子どもたちは自然に大きくなったように言う。
 この息子さんが浦和高校に在籍していたときのこと。高橋家にはその同級生が何人も訪ねてきた。1人が高橋さんの本棚に気づく。〈阿部浪子さん。ぼくのおじいちゃんのところに取材にきたんだよ〉『平林たい子ー花に実を』の著書にむかって言う。〈えっ、きみ山本くんなの〉高橋さんはビックリする。山本くんは、たい子の最初のパートナーの孫である。同級生のなかで一番まじめそうで秀才に見えたと、高橋さんはいつぞや話した。のちに山本くんは大学の教官になっている。
 この日も山本さんのことは話題にのぼった。ひさしぶりの電話交流はもりあがった。わたしは、後戻りできない歳月の経過とその重みをしみじみ思うのだった。

 「一度かぎりの人生を自分自身のものとしてわたしは生きたいと切に願いつづけてきました」と、平林たい子はどこかに書いていた。貪欲な生き方はたい子の作品群を追尋していくだけでもわかる。 
 たい子は「平林諏訪湖」というペンネームで出発している。本名の平林タイではない。諏訪湖は彼女の故郷にある。その作品を発見したとき、わたしはクスツと笑った。いや、たい子の強い意志を思ったものだ
 作品群にも、たい子の生き方は浮上している。作品集めといっしょに、わが平林たい子年譜も形成されていく。成果は『人物書誌体系11平林たい子』(日外アソシエーツ)にまとめてある。
 たい子の夫はよく不倫をしていたという。相手の女給さんの家の前で、たい子はオンオン泣いていたそうな。早いとこ見切りをつけて別れていれば、作家的軌跡はちがってきたろう。実力ある作家として大成していたと思う。夫婦のことを体験的に描くのではなく、男女の豊かな関係を創出すべきだった。
 没後の1973年、平林たい子記念文学会が発足する。たい子の遺志で小説と評論の「平林たい子文学賞」が設けられる。年に1回の授与。長年地道に努力している人を励ますためのiだ。現在はない。
 記念会には理事が何人かいた。どういう人が就任していたのか。たい子の生前のとりまきなのか。なかにわが取材を妨害してきた人がいる。取材の見返りをほしがった人がいる。不遜な人もいた。
 たい子の生前の人間関係のきずき方に、わたしは不信を抱いたものだ。
 住まいの近所に、理事の長男、渡辺陸さんが住んでいた。〈月日がたてばメンバーが変わるし、状況も変わってきますよ〉と、励ましの手紙をくれた。筆まめな人だった。
 文学賞はたい子の、文学へのふかい愛情ゆえのものであった。尊重すべきものであった。大切にして長くつづけてほしかった。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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