ロシア革命100年の年に「人づくり革命」「生産性革命」を唱える安倍晋三

著者: 加藤哲郎 かとうてつろう : 一橋大学名誉教授
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2017.12.1 かと アメリカのトランプと、日本の安倍晋三と、北朝鮮の金正恩、東アジアで核戦争危機を演出する3人の独裁的指導者には、なにやら似通った軽薄さ、おぞましさが感じられます。 国内の困難をそらすために軍事的緊張を高め、乱暴な言説で「敵」を挑発し、不測の突発的衝突を招きかねない危うさです。ロシアのプーチンや中国の習近平も独裁者ですが、その決定には、その国の伝統や政治システムから予測可能な、ある種の合理性・安定性があります。トランプ一世、安倍三世、金三世には、知性が感じられません。アメリカ大統領にトランプが就任し、金正恩の核・ミサイル開発が米国東海岸まで射程に収めるにしたがって、安倍晋三はひたすらトランプに従い、金正恩への「圧力」を声高に主張しています。森友・加計問題が明るみに出て以来、国権の最高機関たる立法府=国会での追及から逃げ回り、以前から権力を集中してきた首相官邸=行政府のイエスマンたちの中に閉じこもり、または海外に出て国会そのものを開かず、権力の集中と私物化を強めてきました。国民の飢餓と困窮を尻目にひたすら核兵器にしがみつく金正恩、史上最低の支持率も意に介さず、記者会見も開かずツイッターで軽薄な挑発的言辞をふりまくトランプと、いいトリオです。国際社会のなかで、孤立を深めるアメリカに忠実なだけの日本は、確実に影響力を弱め、存在感を失っています。

かと かつて日本は、「経済一流・政治三流」 といわれた時代がありました。目下の日米同盟・対米従属の政治は相変わらずですが、 経済力はいまだ米国・中国に次ぐGDP世界第三位ですから「一流」と言ってもいいはずです。しかし、長期的に見れば、隣国中国の台頭がありますから、少子高齢化の日本は、移民を大量に受け入れない限り、落日が目に見えています。「ものづくり」を看板にしてきましたが、安倍晋三を育てた神戸製鋼三菱マテリアル、現経団連会長が社長時代の東レと製品検査データ改竄が発覚、日産の完成検査不備で自動車大量リコールと、原材料から製品まで手抜きの不祥事続々。原発にも航空機にも納入されていましたから、放射能以前の技術的再点検が必要に。きわめつけが、国策に乗って海外原発企業買収に手を出し火傷した東芝、20世紀日本経済の黄金期を支えた名門企業が、ニューヨーク・タイムズスクェアーの広告から撤退して、風前の灯です。無論、パナマ文書からパラダイス文書へと税金逃れの多国籍企業も続々現れ、大企業の内部留保と日銀バズーカで持たせている株価・低失業率も、非正規労働者やシングルマザーの生活を安定させることはできません。最低賃金を抜本的に引き上げ国内消費市場を拡大しない限り、「経済大国」の実感は湧いてきません。外国人観光客の増大も、安定した「平和の持続」にかかっています。かつての3/11がそうだったように、観光は震災や事故に敏感です。ましてや戦争切迫は、直ちに観光客を失います。だからこそ安倍晋三は、「働き方改革」から「生産性革命」へと踏み込み、「人づくり革命」なる他の先進国なら当たり前の長期的教育投資を、大げさにいいたてなければならないのです。軽くて不毛な「革命」のバーゲンです。「生産性革命」が神戸製鋼・日産風のいっそうのコスト削減・品質劣化・安全軽視と、電通・NHK型の長時間労働・過労死・過労自殺につながり、「人づくり革命」が「教育無償化」「全世代型の社会保障への改革」という名の高齢者「活用」強制、年金・福祉財政削減の方向に向かうことは、目にみえています。戦略なき「革命」は、簡単に「改革」以前に戻るか、「反革命」に転化するか、せいぜい「流行語大賞候補」への状況的パフォーマンスにならざるを得ないのです。

かと  ロシア革命百年の方の老舗の「革命」は、暴力と強制を伴いました。20世紀の喧噪は嘘だったかのように、日本では「人づくり革命」ほどにも、論じられなくなりました。「十月社会主義大革命」や「プロレタリアートの独裁」は、忘れられました。1917年「二月革命」に孕まれた自由化・民主化の可能性が「十月革命」で閉ざされた、レーニン率いるボリシェヴィキ党による憲法制定議会解散の暴挙でテロルと反乱が蔓延し、「クーデタ」と政治警察創設により「暗黒の全体主義世界」に置き換えられていった、といった議論が主流です。注目されるのは「革命の文化」で、政治における劇場化やポピュリズム台頭、経済における広告やブランド開発、そして社会におけるSNSやスマホの仮想主体間コミュニケーションに、アヴァンギャルド前衛芸術や共産党風諜報・相互監視の技術とスタイルが取り込まれ、 ビッグデータを学習したAIマーケティング、 地に足がつかないグーグル型メディア取材、それに消費から恋愛にいたる差異化戦略・戦術、心理戦・情報戦のイメージが蔓延しています。大切なのは、技術やスタイルではなく、生身の人間の生活と苦闘なはずなのに、アピールやコミュニケーションの内容が、瞬間的に見えてはいとも簡単に解体していきます。百年前のロシアでいえば、「パンと土地と平和」にあたる「革命」にとっての切実な内容が忘れられ、スタイルではなくコンテンツが何だったのかが見えません。安倍晋三の「革命」が「生産性」や「人づくり」であるのに対抗して、あるいは「憲法9条」や「対北朝鮮軍拡」であるのに対して、対峙しうる生活世界の切実な内容を、いま・ここで・考え・提示すること。それが、「君たちはどう生きるか」であったり、「沖縄からのまなざし」であったり、脱原発やヘイトスピーチへの対抗であったり、なのでしょう。量より質を重んじること、世代と民族を越えてつないでいくこと、つまりは自分自身の「改革」であり「革命」になりうるものを、捜すしかないでしょうーー10月中国東北部旅行の体験を消化しきれないまま体調不良が続き、今回はFTPの不具合でアップが2日も遅れ、ややメランコリーです。けっきょく私の「ロシア革命100年」は、『北海道新聞』11月7日記事のもとになった、中部大学『アリーナ』誌20号に近く発表される長大寄稿になりそうです。安倍晋三型ファシズムとの、「永続民主主義革命」の一部です。

初出:加藤哲郎の「ネチズン・カレッジ』より許可を得て転載 http://netizen.html.xdomain.jp/home.html
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