一ノ瀬綾―わたしの気になる人⑦

第16回、田村俊子賞を私家版『黄の花』で受賞したのが、作家の一ノ瀬綾氏である。1976(昭和51)年、彼女43歳のことだ。現在、一ノ瀬綾は、長野県佐久市の老人ホームに住んでいる。佐久は作家、深沢七郎が愛したまちだ。ホームには70人が入居している。焼けつくような炎天下に咲くカボチャの花のように、たくましく生きた83年の人生を、一ノ瀬綾はいま、どのように追想しているのだろう。
1932(昭和7)年6月、一ノ瀬綾は、長野県上田市の農家に生まれている。江戸時代は使用人をおいていたが、明治初年に没落した自作農であった。本名を掛川たつよという。6人きょうだいの5女で、うち2人が早世したため、3人の姉とともに成長した。
50歳で刊行した『独り暮らし』(筑摩書房)は、一ノ瀬綾の代表作だと思う。読みごたえのある、連作の短編集だ。5編の小説をとおして読めば、40代の独身女の過去から現在におよぶ生きかたが鮮明になってくる。故郷を出奔して、執筆活動とアクセサリーの出張販売の仕事を両立させながら自活をめざす。主人公のその生きかたは、一ノ瀬綾のそれとかさなるのではないか。
作家の平林たい子が、一ノ瀬綾と同年代の作家、有吉佐和子・曽野綾子・倉橋由美子についてこんなことを書いている。彼女たちは「ほんとうの意味の小説家として出発している」「小説では、小説の中の人物と、作者とは縁のない所から出発して小説をつくる中途で出会っている」「作者が些かも小説の中に参加していないのは見事である」と。実人生と悪戦苦闘する、その再現が小説世界であったたい子には、ついに「見事」な文学創造はなかった。その無念さを吐露したことばでもあろう。たい子は1905(明治38)年生まれだ。一ノ瀬綾もまた、作品は実人生と地続きのようだ。人間って、何なのだろう。人間のこころのまか不思議を、一ノ瀬綾は、書く営為をとおして解こうとした。ときに泣きながら、ときに怒りながら。昭和50年代は、この国が高度経済成長期にあって、女たちの就業率は伸び、シングルも増えてきた。女は嫁にいくものという伝説が崩れつつあった。一ノ瀬綾の生活実感は、この国のどこかでひっそりと生きる、ノンエリートの女たちに共感されたのであろう。

「納得できるまで、一人で生きてみたい」。1960(昭和35)年3月、一ノ瀬綾は、生家を出る。「自分でそう決めたのだから、思う通りにやってみろ。道はいろいろある」父がいう。「東京なんて、すぐそこだに、近いから、いっそ、心配してねえよ」母がいう。両親のことばに押されて小県郡武石村をあとにした。一ノ瀬綾の、孤独と責任を背中あわせにした「変身願望」の旅がはじまるのである。自分の過去を忘れてべつの女に変身したい。こう思いつめるまでに、一ノ瀬綾は、2つの試練を体験するのだった。1948(昭和23)年に学制改革があった。6・3・3・4の学校制度がスタートしたのだ。一ノ瀬綾は上田高女の3年生であった。あと1年で卒業というとき。そのまま在籍すれば、新制の上田染谷丘高校の1年生になれた。しかし、3人の姉が結婚すれば、生家の農業を手伝う働き手がいなくなる。家計の圧迫もあった。父の希望で、一ノ瀬綾は、進学をあきらめざるをえなかった。上田染谷丘高校併設中学卒。クラスの3人が学窓を去る。くやしかった。学歴コンプレックスは、将来にも影響した。「従軍看護婦」になる夢は消えた。
野良にでる。ひとり草むしりをしていると、とつぜん、鳥にでも変身して未知の世界へ飛んでいきたくなる。そんな日々、彼が村の青年団への入団をすすめにきた。5つ年長で、〈背が高くてハンサムだった〉。実家の農業を手伝っていた。意気投合した2人は、村の弁論大会でともに入賞したころから、熱烈な恋におちる。「自分の意志で行動できる喜びは新鮮だった」。戦時下に抑圧されていた、異性への関心や愛は、解放されていく。社交ダンスや音楽や芝居をたのしみエネルギーは発散される。この国はアメリカの統治下にあった。直輸入の4Hクラブにくわわる。日本では青少年クラブといわれ、将来の農業を支える20代から30代初めの若者が中心となり組織された。新しい農業技術の導入もあり村は変わっていくかにみえた。一ノ瀬綾はおもう。彼とともに、新時代にふさわしい家庭を作ろう。成長しあえる夫婦になろう、と。「民主主義の威力」を信じた。2人の恋は、勇気ある行為として村の若者の共感をよんだ。
しかし、出会いから5年後、高校進学組への引け目もなくなっていたとき、彼から別れの宣言。彼の先祖が、彼女の先祖・掛川家の当主に体面を傷つけられたという。だが後年になり彼女が知りえた真相は、こうだ。彼は、卒業した専門学校の代用教員に就くと、〈なまいきなセンコーだ〉と、こえだめにつき落とされた。それをした、3つしかちがわない男子学生のなかに掛川姓がいた。旅人にもたせた分家の子孫で、本家直系の子どもではない。それとは気づかず、彼は婚約を破棄してきたというのである。一人息子は、女の愛よりも自家の体面をとった。いや、たたかうべき、父親のふるい石頭に敗れたのだ。
「民主主義を信じた男女の惨敗だった」。一ノ瀬綾はのちに回想する。また、彼と別れて「人間や人生の真実を識った」。「人間は独りである」とも、したたかに思い知らされた。23歳のときのこと。
大失恋で「孤独地獄」を体験した一ノ瀬綾は、家出を敢行する。静岡県富士市のいとこの家であった。将来、巨人軍の投手として引退後は野球解説者として活躍する、おさない加藤初がいた。そこに3か月滞在し、帰郷後は衣料問屋に住みこみではたらく。こころを鎮めたくて10代から親しんでいた読書に没頭する。菊池寛や久米正雄などの文学書を乱読した。
さらに、上京して職探しをする。そこで雑誌「農民文学」をみつけた。日本農民文学会に入会。自然発生的な「破談」(改題「唐松の道」)が、同誌第14号に本名の掛川たつよで掲載される。9人の女性短篇特集の1編であった。その翌年のこと、職探しの帰りの列車内で、一ノ瀬綾は、朝日新聞の記事を目にしたのだった。1959(昭和34)年7月28日付に、作家、和田傳が寄せた、伊藤永之介への追悼文。伊藤は「農民文学」の編集兼発行人をつとめていた。「貧農に寄せる深い愛情こそが伊藤の文学の基盤」であると、和田は書く。この一文に、一ノ瀬綾は感動したのだ。それは、翌年の本格的な上京を決断するその引き金にもなった。すでに、一ノ瀬綾は、作家への道を歩みだしていた。

私家版『黄の花』で田村俊子賞を受賞し、一ノ瀬綾の人生は、大きく変わったという。上京から16年後の快挙だ。マスコミの注目を浴びた。独り暮らしにゆとりができ、アパートの4畳半で小説を書くべく専念していた。客たちにアクセサリーを販売することと、自室の机上でペンを走らせることを、一ノ瀬綾は、おなじ重さとしてとらえていた。人間のかもしだす猥雑な空気に染まる、それが創作意欲をかきたてていた。そんなおりの受賞である。自分の生きた証しを文字に残せる幸せを、一ノ瀬綾は、噛みしめたにちがいない。筑摩書房との縁ができる。また、湯浅芳子や瀬戸内寂聴や三枝和子などの先輩作家との交流もはじまる。『黄の花』は、受賞の年に改めて、創樹社から刊行された。第12回、農民文学賞をうけた「春の終り」も収録される。表題作「黄の花」は、終戦の年の農村を舞台に、少女と少年の淡い恋心を描いていて、感銘ふかい秀作だ。
なお、一ノ瀬綾は、その著書のあとがきにこんなことを書く。「社会性のある農民小説に対して賞を贈ることにした」、田村俊子は社会的な面への関心も強かったと、賞の選考委員が述べた。自分は都会で生活しているのに農民小説とはおこがましい、しかし「自分の血の中に流れる農民のつぶやきを聞きとろう」と、一ノ瀬綾は、その選評に応えている。
受賞から数年後、筑摩書房から刊行された『独り暮らし』は、一ノ瀬作品のなかでいちばん売れたものだという。男女の関係が多様化していくとき。一ノ瀬綾は、そのひとつを提示してみせた。結婚とセックスを切りはなして生きる女のありようが描かれていて、一ノ瀬綾の人生の姿勢を知る手がかりにもなる。読ませるドラマ集だ。
表題作に注目しよう。43歳の、アクセサリー販売員の女のもとに、妻子のいる、大手旅行会社の添乗員がかよってくる。女は独り暮らしの老いと病をおそれているが、男を枕もとに呼べば、男の日常のすべてが欲しくなる。男のお金を欲しがってもいけない。子どもを産んだところで自分の「孤」に変わりはない。会ったときだけの関係だ。孤独をいっとき紛らしてくれる「情事」をむだにできない。自分をさらけ出したい。あふれそうな気持ちを抑えて女はしゃきしゃきとキャベツをきざむ。知らぬまに主婦らしくふるまっている自分に気づき、女は苦笑する。男のネクタイに目がいく。娘がくれたんだ。女の胸にするどく何かが打ちこまれる。投げつけた。やめて! 娘、娘って、なにさ! 帰ってよ。男の背後には目をやるまい。その自戒をわすれた。自業自得だ。男との2年間はうばい去られてしまった。
一ノ瀬綾は、連作をとおして、独身女の自由さといっしょに、その孤独の不安やきびしさをもリアルに描きだした。しかし女は、男とはじかに向きあっていない。男はスケッチされているにすぎない。ところが、現代作家、山田詠美の『無銭優雅』(幻冬舎)になると、男女関係は変わってくる。40代前半の男女が登場し、性別役割分担を拒否する。男女がおたがいを必要としあう。2人は日常性をはぐくみつつ「恋愛における本物の平等」をめざす。男女の新しい関係を提出した作品世界だ。山田は1959(昭和34)年生まれ。

こだかい丘にこぢんまりした、おなじような住宅が並んでいる。閑静なところだ。茨城県八郷町。一ノ瀬綾は、東京都江東区のワンルームマンションを売却して、一戸建ての分譲住宅に越してきた。郷里から上京してすでに30年が経過していた。
応接間には、一ノ瀬綾のつれあいがいた。おすのシャムネコのマーちゃん。あんこが好物だそうな。巨体をゆったりと移動させる。床がぴかぴかしている。ふき掃除がゆきとどいている。自宅は、ゆくゆくは老夫婦にでも売却したいと、一ノ瀬綾はいう。59歳。そのとき自動車教習所に通っていた。幼少のころ、家人の不注意で中耳炎をこじらせ左耳がきこえない。その聴覚障害を一ノ瀬綾は気にしていたが、運転免許はぶじに取得された。
〈男ってだまってると、いつまでもかよってくるのね。おくさんって、夫の不倫を知らないでいる〉。一ノ瀬綾の実感なのであろう。わたしはこれまで、昭和初期に活躍した女性作家を何人か取材してきたが、一ノ瀬綾の世代の作家ははじめてだった。だれよりも正直な人だと思った。小柄なからだには、たくましさが秘められている。執筆さなかの、古沢真喜にかんする伝記小説についても、熱っぽく語りかけてきた。真喜は上田市出身だ。のちに『幻の碧き湖 古沢真喜の生涯』(筑摩書房)と題して刊行されている。
とっておきの話もきけた。一ノ瀬綾の生地武石村は、美ヶ原高原の東側にひろがる地域だ。村政施行100周年を記念して、武石ともしび博物館が設立され、1989(平成元)年11月に開館した。その式典に、一ノ瀬綾は作家として招かれた。元彼は地元の人だ。〈その日、彼のほうから握手をもとめてきた〉と、一ノ瀬綾は2年前のことを話すのだった。還暦をすぎた彼は、元彼女との再会をどのように思ったのだろう。一ノ瀬綾には、共闘からずっこけて自分を裏切った彼を見返した、という気持ちがあったかもしれない。じつはこの時期をさかいに、一ノ瀬綾はこれまでの体験小説を書いていないのだ。彼への長年のわだかまりに決着がついたというのか。客観的な伝記小説へ移行しているのである。
70代をむかえて、一ノ瀬綾は、帰郷した。独り暮らしの終着駅だ。老人ホームのある佐久市は、親族のいる上田市とは遠くない。適当な距離をおくその選択にも、一ノ瀬綾のこだわりがあるのではないか。随筆集『ひとりを生きる』(風濤社)のなかに、こんなことが書かれている。これまで「自分の体がふたつに折れて切り離されているような気がしていた。そして切れた半分を故郷に置いてきてしまったような気がする」と。帰郷した現在は、2つが1つになり、「世の中のすべてのものに生かされてきたのだと思えるようになった」、とも。一ノ瀬綾は、平穏無事な女の人生を拒否して、生きるとは何なのかを、真摯に問うた作家にちがいない。「変身願望」の旅にたいする解答は、いまなお、一ノ瀬綾の胸のうちを去来しているはずである。(2015・7・27)
*「わたしの気になる人」①から⑦まで、ごらんいただきましてありがとうございます。⑥の2ページ、辺見庸氏のご本の題名は、『夜と女と毛沢東』でした。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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